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町からの脱出


 二人は女子トイレで早速厚化粧を落としてうら若き看護師へと変身する。掃除カートは折り畳んでトイレ用具入れに仕舞って準備を整えて医師が出てくるのを待った。ここでタイミングを見誤れば性欲に飢えた軍人を引き寄せることになってしまい作戦は失敗だ。シャルロッタの担当医を捕まえて彼に取り入る必要があった。

 アナスタシアがわざとらしく医師にぶつかりその豊満な胸で彼を押し倒す。


「な、なんだね、君は!?」


「私、看護師の研修に来たアザナラと申します」


「研修? いやぁ特に聞いてないが……」


「ぐすっ、ひどいれす……。貴方も私を除け者にするのですか?」


 アナスタシアは嘘泣きでか弱い女を演出する。真面目な男ほど女の涙に弱い。彼は「こ、困るなぁ」と言いつつアナスタシアをどかそうとはしなかった。若い女の肢体を当てられ刺激された性欲と突如現れた研修医の存在に混乱しているのは明らかだ。そんな感情の揺れをヴァレリアは見逃さなかった。


「私達、看護師研修のために来たのですが、手続きに不備があったらしく、担当のお医者様に門前払いされてしまいまして……。仕方なく帰路についた際に軍の方に襲われそうになっちゃってあわや貞操の危機で……」


「どうにか逃げてトイレに隠れていましたところ、見慣れた白衣につい安心して飛び出してしまいましたぁ」


「そうか、まぁ粗暴な奴もいるからね」


 即興のシナリオとしては悪くはなかった。実際、連邦では基地に赴いた研修看護師が軍人に襲われる事件は過去に起こっていた。医師の反応を見るに、この秘密主義の閉鎖都市でも似たようなことはあったのだろう。


「もう、研修もできそうにないので安全な帰り道を教えてもらいたいのですが……」


 敢えてシャルロッタに会いたいそぶりを見せなかった。下手に接触を打診すれば流石に怪しまれてしまうからだ。仕草や何気ない弱音で相手の方から誘ってくる気にさせるのが一流の諜報員である。


「先生、わたし、怖いです。一刻も早くここから出たいです」


下心がない医師なら言葉通りに受け取ってヴァレリア達を基地外に案内するだろう。

 しかし、直近でアナスタシアの色気にあてられてしまった医師は違った。


「研修なら私のところでやればいい。人手は足らんしな。学校には私から連絡しよう、えーっと君らはどこの――」


「本当ですか!? 嬉しい! 先生みたいな優しい方は初めてです」


アナスタシアは彼の頭を胸に寄せて強く抱きしめた。その母性的な温もりと柔らかさで包まれた医師は尋ねる疑問も成すがままに堪能してしまった。巨乳とはただそこに顔を当てるだけで男性を無力化してしまう恐るべき牢獄なのである。やっと胸から抜け出した医師はアナスタシアの微笑みに下心丸出しの笑顔を返している。


(チョロイもんだな)


 大戦期からアナスタシアは白衣の天使として人気者だった。負傷兵は彼女の笑顔に何度狙撃されたか分からない。身も心も傷ついた兵士達はアナスタシアの献身的な看護と優しい微笑みで皆恋に落ちるのだ。女慣れしていない男を揶揄って遊んでいたヴァレリアと違い、百戦錬磨のプレイボーイから既婚者までアナスタシアには形なしだった。


「それでは君らには私の検診の補助を頼もうかな」


「はい! 勉強させてください!」


 完全に流れはアナスタシアが掴んでいた。

敵を悩殺するのは膂力で劣る女諜報員の悪知恵だと唾棄する者もいる。だが実際はとても有効的な手段なのだ。男性という生き物は好意を抱いた女性を色眼鏡で見てしまう。気の弱い者や真面目な人間は一度信用した女性に疑問を持ちにくい。


逆に気の強い男性は、先天的に女性を見下す傾向が強いために相手が謀略を企てているとは考えない、若しくは一計を案じようとも自分なら看破できると考えてしまうのだ。だからこそ動きやすかった。


医務室前まで戻ると、やはり門番の男が立ち塞がった。


「困りますな。新しい看護婦を連れてこられては」


 彼は一関して部外者を入れたがらなかった。職務に忠実な男らしい。悩殺は洗脳に近い有効打ではあるが、対象者が限られるのが弱点である。同性に対しては効き辛く、異性でも堅物相手には効果が薄いのだ。それならば別のやり方がある、とここで動いたのがヴァレリアだった。門番に近づくと彼の耳元でそっとつぶやく。


「私達は密偵です。ここの医師が反政府派に通じているとタレこみがありました。話を合わせてください」


 医師に気づかれない角度で秘密警察のマークを見せる。《第零特務(ノーリ・チェーカー)》が用意した〝本物の身分証〟である。男はヴァレリアの気迫と秘密警察の身分証で納得したようだ。


「ま、まぁ。先生もお忙しいでしょうし、看護婦の助けも必要でしょう」


 そう言って医務室に通してくれた。堅物はルールにのっとった行動を示すことで誘導しやすい。秘密警察が自分にだけ身分を明かしたという事実が彼の自尊心を満たしたのだ。


 初めて入る特別医務室は病院の内装と殆ど変わらなかった。差異があるとすれば、患者の暴走を抑制するための拘束具が多いくらいだ。


 少々奥まで進むと見慣れた桃色髪の少女が寝かされたベッドに行きついた。シャルロッタには違いないが以前会った時に比べて目が虚ろで、体も痩せ細っていた。そしてその手は錠で拘束されていた。

 医師が電話をかけ始めたところを見計らって小声で密談する。


「薬でも打たれたのか?」


「いいえ、単純な栄養失調ね。お父さんの死が彼女の食欲さえ奪ったのでしょう」


 アナスタシアは現役医師だけあって一目でシャルロッタの容態を言い当てた。その洞察力に感心しつつもヴァレリアは頭を抱えた。


「衰弱した人間を抱えて脱出は骨だぞ。栄養剤でも打つか?」


「もっとよく効くお薬を投与するつもりよ」


 微笑むアナスタシアは懐から髑髏のシールが張られた注射器を取り出した。

その針をシャルロッタの腕に差すと、間もなく彼女の容態が急変した。

心電図が心拍の乱れを感知して警告音を鳴らし始め、現場が騒然となる。


「先生、大変です! 女の子の容態が!」


「な、なんだって! 安定していたはずなのに!」


 意思の蘇生措置の甲斐なくシャルロッタは心肺停止に陥った。

そして十分後には医師は匙を投げて椅子に項垂れた。


「やれやれ秘密警察の奴らに何て言われるか」


「うぅ……せっかく助けようと思ったのに。人間は簡単に死んでしまうのですね」


「ああ。生まれるまでは十カ月程度母体で時間をかけるのに、死ぬときは一瞬だ。君らもこれから嫌という程見ることになる。慣れておくんだよ」


「はい。あまり気を落とさないでくださいね。先生のせいではないですよ」


 給油室に行ったアナスタシアはさりげなくコーヒーを入れて医師に勧める。

 何の疑いもなくそれを煽った医師は激しい睡魔に襲われてベッドで横になった。

 勿論コーヒーにはアナスタシア特製の睡眠薬が入っていた。しばらく目覚めないように鎮静剤らしきものまで投与している。そして医師が寝ている間に死亡診断書を手早く記載していく。スパイらしくカルテの筆跡を綺麗に模写していた。


「なぁ、アーニャ。本気で殺したわけじゃないんだろ? 一体何をしたんだ?」


「彼女に『氷血清(リォート・クローフィ)』を投与したの」


 それは氷血能力を発露させる特効薬だったはずだ。今回の任務にも持ってきていたらしい。投与者を仮死状態にする効果があることは前に説明を受けている。確かに死を誤認させるにはちょうどよさそうだ。


「アーニャ、そんなもの常備してるのか?」


「まぁね。体力と気力が落ちた状態の被験者こそ適合率が上がるの。課長の許可は貰っているわ。貴女の時と同じ。対象の救出が困難な場合、投与して仮死状態にして運び出すの」


 アナスタシアの意図を察したヴァレリアは運び出す準備を整えた。

 彼女が生きていることを悟られてはならない。一番最初に気づきそうな医者を眠らせることはできたが油断はできない。彼の口からシャルロッタの死を知った秘密警察が確認に来るだろう。その前に施設の外に運び出さなければならない。


 シャルロッタの顔に布をかぶせてタンカーで運び出していく。途中で制止する看護師や軍人もいたが、偽装した死亡診断書を見せて行き先が遺体安置所だと告げると皆納得してくれた。無論、馬鹿正直に遺体安置所に向かう訳はなく、エレベーターを使うための口実である。


(もうすぐだ……。ここを抜ければ――)


「お前達、そこで止まれ!」


 目の前に立ち塞がったのは秘密警察の制服を着た男だった。予想より早く到着してしまったようだ。何人も殺してきたことが分かる鋭い目つきで威圧してくる。


「それはシャルロッタ・イリーニチナ・メシャルキナだな。なぜここにいる?」


 今にも胸の銃を抜きそうな程殺気立っている。

 この男に生存が露見すればその場で射殺されてしまうだろう。『氷血絡(リォート・シーラ)』は長期戦には向かない。仮に男を何とかできたとしても周囲には現役の軍人が行きかっている。

返答を間違えれば死に直結する今、慎重に言葉を選ばなければならない。


「容体が急変して亡くなりました。死亡診断書はこちらに」


「そんな連絡は受けていないが?」


 流石に現職の秘密警察官だけあって書類だけでは信用しないようだ。素早く書類に目を通した男はシャルロッタの顔に被せられた布を強引に剥ぎ取った。布の下には血の気のない顔があるだけだった。ヴァレリアが予め特殊な化粧で死に顔をつくっておいたのだ。


 生気のないシャルロッタを見た男はぎょっとして一歩退いてしまったが、すぐに態勢を立て直してその体に手を伸ばした。体温や脈を計ろうとしているのは明らかだ。

 咄嗟に『氷血絡(リォート・シーラ)』を発動させてシャルロッタの身体を冷気で包みこむ。彼女の身体に触れた男は人間離れした冷たさに手を引っ込めた。


「この体温……確かに死んでいるな。――行ってよいぞ」


 男に頭を垂れてその脇を通り抜けた。

 彼の姿が見えなくなる程十分離れてからほっと一息つく。


「アイツ、戦闘能力はともかく諜報員としては未熟だな。私達の目的も身分も聞かずに解放しやがった」


「シャルロッタの死に安心して聞き忘れたのでしょう。経験不足なのだと思うわ」


「後から感づかれない内にとっとと離れよう」


 一概に彼の軽率を責めることはできない。この連邦では死が溢れている。秘密警察として生きている人間に対し常に監視と警戒を続ける生活を送っているため、死んだ人間に対しては緊張の糸が切れてしまうのだ。


「さて、意識のない女を抱えてどう町を脱出するか」


 基地に留まればシャルロッタの生存を感づかれる可能性が高い。

 考えた末にやはり清掃業者として切り抜けるのが無難だと結論付けた。


再び清掃員の衣装に着替えてゴミカートの中にシャルロッタを隠すと、基地外部のゴミ捨て場まで急いだ。向かった先ではちょうど現場には収集車が停まっている。粗大ごみを運ぶような大型のものではなく、日常のゴミを乗せるだけの軽トラックに近いものだった。


 ヴァレリアが積み込み作業をしている男を手刀で気絶させている間にシャルロッタを荷台に寝かせた。外部からは見えないようにゴミ袋で囲って彼女の姿を隠蔽する。

 また、その間にアナスタシアが運転手を即効性の睡眠薬で眠らせて車を奪取する。


「手慣れてるな、アーニャ。さては前科持ちか?」


「お互い様でしょ? 今はヒッチハイクしている暇はないの」


 冗談を言いつつ車を走らせるアナスタシア。荷台に人を乗せているというのにまるで配慮のない荒い運転だった。シャルロッタに意識があれば間違いなく文句を言うだろう。


 しかし、乗り心地を無視すれば収集車で脱出するのは名案であった。

ゴミを燃やす廃棄処理場は町の外にある。収集車なら外に繰り出しても疑われにくいだろう。じきに車輌奪取の事実が知られるだろうが、彼らが動きだす頃には町の外だ。

助手席のヴァレリアが上手く口八丁で係員を丸め込んでいく。


 検問を突破したアナスタシアは少しずつ廃棄処理場へ向かうルートから逸れていき、森の中へと入った。日が暮れる直前まで車を走らせたことで結構な距離を稼ぐことができた。だが広いサメロスク外に出るにはもうしばらくかかりそうだ。夜は道が凍る上に冷え込むので荷台の人間にとっては辛かった。


「まずいわね。もう少し進めば宿があるのだけど」


「なら、この道を右に曲がってくれ」


「レーラ、モーテルでも知ってるの?」


「いや、天然の宿さ」


 車を停めたのは洞穴だった。第二次大戦中に空爆から逃れるために掘られた防空壕である。当時現場の小隊を率いていたヴァレリアも利用したことがあった。夜は氷点下まで気温が下がる外で野営するのは自殺行為だ。故に暖を取れる防空壕は最適な場所だった。


「一晩休んで明朝出発しましょう」


「チンタラしてると眠らせた医者や秘密警察に感づかれるからな」


 ゴミ袋で入口の寒気を塞いで夜の寒波に備える。防空壕は大戦時に作られただけあって頑丈だった。しかしサメロスクの寒波を完全に凌ぎきることはできなかった。『氷血絡(リォート・シーラ)』の能力者が焚火の前で温まってようやく耐えられるほどだ。


完全に日が沈むくらいには外は吹雪が吹き荒び始めた。ただでさえ強い冷気がより一層ひどくなっている。防空壕の隙間から入ってくる寒気に撫でられるだけで全身に悪寒を感じる。


「この吹雪なら追手も来れないでしょうね……へくち!」


 変装用に持ってきた衣装はシャルロッタの掛布団代わりにしているためアナスタシアは身体を冷やしているようだ。見かねたヴァレリアが自身の上着を彼女に被せる。


「羽織ってろアーニャ」


「でもそれじゃあレーラが――へくちっ!」


「医療テントで仕事をすることが多かったお前と違って、大戦中の私は吹雪の中行軍するのは普通だったんだ。お前よりは寒さに慣れているさ。それに、医者のお前が倒れたら誰が看病するんだ?」


「……分かったわ。今晩はありがたく使わせてもらうわね」


 交代で火の番をしながら夜明けを待つことにした。


看護師に化けて潜入し、脱出は清掃員の恰好で奪った車で強行しました。

手慣れていますね。冷気で体温を低下させて死を偽装するということで氷の能力も役立っています。普通に戦闘で使うより疲労は全然少ないです。


ただ、陸の孤島だけあってサメロスクの町を出てもまだ次の町まで遠いため、二次大戦時の防空壕で一夜過ごします。

地理から咄嗟に戦時中の拠点再利用を思いつくのはやはり軍人としての経験故ですね。


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