汽車で出会った父娘
任務から帰るとゼリマンが快く出迎えてくれた。
「同志諸君、ご苦労だった。途中やや危ないところもあったが……及第点だろう」
どこかに監視兵を置いていたらしい。自分達の喉元につき立てられた刃の始末を行うのだから当然保険も掛けていたようだ。敵も味方もどこに監視の目があるか分からないのは連邦のお国柄だ。アナスタシアはテントの中のやり取りを見られていないか心配そうに目を泳がせた。
「これで私らの本入隊が決まった訳だな」
「いや、スパイ教育を兼ねてもう一仕事こなしてもらう。先の任務は暗殺だった。次は潜入任務に該当する」
「潜入? 首都ワスクナに潜入してアーストンの首を取って来いってことか?」
「勇敢と無謀は違うぞ同志。流石に二度目の処刑となれば助けられんよ」
「あそこは鉄壁の護衛ですからね。……アーストンの顔を見る前に射殺されるわよ?」
ヴァレリアの冗談は本気で牽制されてしまった。葉巻を咥えたゼリマンは引き出しから資料を出して手渡してくる。クリップで止められた紙束をめくり、内容を確認していく。どうやらルクガン州から少し離れた都市ルマトヤについての調査報告のようだ。工業都市として栄えているはずのルマトヤの住民は痩せこけている。身に纏う衣服も縫合跡の多い着古したものだった。
「都市ルマトヤで住民の給料及び配給物資着服の疑いあり、ね」
「人民の給料はその職業と職階によって均等に設定され支払われるものだ。しかしルマトヤの調査報告書を見る限り、誰かが人民に渡る給料を中間搾取しているようだ。これでは邪悪な資本主義と変わらん」
レヴェート連邦では国家理念として共産主義を掲げている。全ての富を均等に分配するという崇高な主義であるが、勿論連邦人民全てが同じ給料で働くわけではない。
大学教授は320ルーブル、バスの運転手は140ルーブル、中尉階級の軍人は230ルーブルという具合に月給は職業ごとに分かれて設定されている。課長と部長など組織内の地位によって諸々手当も追加される。さらには地域毎の物価の差も給料設定額に考慮される。
資本主義者からは誤解を受けているが、公的機関によって職業毎、階級毎に同じ給料を設定されるだけで給料差は存在するのである。当然周囲より頑張れば出世も可能だ。
ヴァレリアに肩を寄せて資料を覗いていたアナスタシアは大きくため息をついた。
「ルマトヤにはお上が設定した給料や配給品に満足しない輩がいるということですね」
「うむ。人民の給料を中間搾取している元締めを特定してほしいのだ」
「ちょっと待て。これは普通の秘密警察の仕事だろ? ウチが出張る必要はないはずだ」
顔を顰めるヴァレリアの言う通りだ。《第零特務》の国体維持という理念には一致するが、そもそもサボタージュや疑似資本主義に該当する本件は本場の国家保安委員会が直轄する秘密警察第二課以下の職務のはずだった。
「ルマトヤの秘密警察もグルなのだろう。そうでなければこんな大規模な搾取を見逃すはずがない。勿論、本部の指示ではなく地方役人の独断だろうが……」
「その役人及び関係者の特定とそいつらを失脚させるのが私達の仕事って訳か」
「そうとも。元軍人のカガロフスカヤ同志にとっては暗殺より難易度は高いだろう。しかしこれを切り抜ければ君らは正式に《第零特務》として迎えられる。既に列車の切符は手配してある。君らの活躍に期待しとるよ」
自身の古巣ではなく、言うなれば敵地での諜報活動にあたる。しくじれば秘密警察第二課に拘束されることになる。一層気を引き締めてゼリマンから切符を受け取った。
向かったのは連邦を跨ぐジルキア鉄道である。広大な連邦もこの鉄道のおかげで横断することができるようになった便利な代物である。
駅に赴く彼女達は身分が割れないように変装している。綺麗なストレートヘアを敢えてボサボサにして前髪で目元を隠し、みすぼらしい恰好をしている。顔には化粧で雀斑まで作っているという徹底ぶりだ。田舎から出稼ぎにきた世間知らずの娘というのが彼女達の演じる身分だった。ゼリマンに手配された切符は諜報活動にはうってつけの個室のようだ。四人がけの椅子で向かい合って談笑することが可能だった。
部屋の扉を閉めたところでヴァレリアは思いっきり胡坐をかいた。
「あー辛気くさ。窮屈すぎるんだよ」
「仕方ないでしょ。スパイが素顔を晒すわけにはいかないんだから。幸い工業都市だから出稼ぎに入っても怪しまれないし」
蒸気機関車は荒野を走って行く。見渡す限り雪景色ではあるが、農耕地帯だったり炭鉱があったり、小さな村があったりと地域でやはり差が見えた。
目的地のちょうど中間の駅を出発したあたりで、誰かが個室の扉をノックしてきた。一瞬にして田舎娘の装いに戻って来訪者を出迎える。
「何か御用かしら?」
「ごめんなさい。女の子の声がしたから、ちょっと覗いてみたの」
顔を出してきたのはフワフワしたピーチブロンド色の長髪を靡かせた美少女だった。彼女はヴァレリアと隣り合うアナスタシアの対面が空いているのを確認するなり腰を下ろした。どうやら手持無沙汰で会話相手を探していたようだ。
上質な生地の服を着こなした清潔感のある彼女はどこかの令嬢を思わせる。王族貴族を廃したこの国でこんなに上質な服を着れる人間は一握りしかいない。
(共産党の人間……政治家のお嬢様ってところか)
皆が同じ結論に至ったようである。こんなところで諜報員と露見すれば任務どころではない。絶対に身分を悟られてはいけないが、共産党の身内と電車で出会うことが偶然とも思えなかった。仲間同士で目配せし合い、彼女の目的を探るという見解が一致する。
「あなた、凄く綺麗な髪ね」
アナスタシアは少女の桃色髪を優しく撫でた。目標人物との接触において初対面の相手の見た目を褒めるのは常套句である。相手を言い気分にさせて口を軽くさせる効果が期待できる。相手の髪に触れるのも田舎娘として教養がなっていないと印象付けるにはもってこいの所作だ。想定通り彼女は髪を褒められたことに気分を良くしたようだ。
「ふふん、綺麗でしょ? お父様譲りなのよ。ところであなた達はどこへ向かう予定なの?」
「私達、出稼ぎのためにルマトヤに赴く予定ですが、お嬢さんはどちらに?」
「偶然! 私もルマトヤなの! ちょっとお父様と一緒に視察――観光する予定なの」
やはり共産党議員の娘らしい。口調とその目的から上流階級さを隠しきれていない。疑問なのは彼女の父らしい人物が見当たらないことである。
「あぁ、お父様なら前の車輌で同僚さんとお話しているみたい。私も同席したかったのだけれど席を外してくれって厄介払いされちゃった。まったくひどいったら!」
暇を持て余してこちらの車輌に散歩してきたようだ。共産党議員の中でも派閥争いがある。ルマトヤの搾取労働を支持している勢力とは別の勢力が弱みを握ろうと動いたのだと推測できる。女性議員が存在していないこの連邦では、女に政治の話は不要と判断される傾向が強い。或いは家族を同席させられない密談でもしているのかもしれない。
(私は軍人としてはプロでもスパイとしては半人前だ。下手に動けない。取りあえずアホのお嬢様から情報を引きだすか)
髪色通り頭の中まで桃色であることを期待して適当に令嬢のご機嫌をとることにした。ヴァレリア達の変装が板についているのか彼女は無警戒に自分のプロフィールをばら撒いてくれた。
「私はシャルロッタ・イリーニチナ・メシャルキナ。親しい者はロッティと呼ぶわ」
レヴェート連邦において姓は男性と女性で語尾が異なる。彼女が名乗ったメシャルキナという姓は女性としてはあまり知られていないが、男性名はメシャルキンとされ、帝国時代の王朝分家に当たる姓であった。
(貴族の身分は廃されたが有能な奴は武、政、問わず共産党員として続投したはずだ。彼女の家系は元貴族であり、現共産党議員で間違いないだろう)
ヴァレリア達もこの任務で与えられた偽りのプロフィールを開示して彼女の世間話を長引かせる。完全に嘘の自分を演じるのだ。
「うちは大戦で父が戦死してから貧しくて……兄妹で出稼ぎに行くしかないのです」
「私とそう変わらないのに……ぐすっ、苦労されたのね……」
わざとらしい涙の演技は箱入り娘の情に訴えかける効果絶大だった。シャルロッタは、ヴァレリア達が隠した手の下でマフィアのような汚い笑みを浮かべていることを知らない。
「あの町で辛いことがあったら言ってね。私のお父様なら力になれるはずだから!」
彼女は父親が権力者だとカミングアウトしていることに気づいていないらしい。だが気になったのはそのアホさではなかった。彼女の話ぶりではまるでルマトヤに行くと辛いことがあると分かっているフシがある。ヴァレリアはすかさず追求した。
「ルマトヤって何か嫌な噂でもあるのですか?」
「え!? まぁ……うーん、ここだけの話なんだけど……。あそこ、人民の給付金をがめてるって密告があったの。役人も協力しているみたい。お父様に嘆願書が送られてきて」
やはり既に別勢力が動いている。メシャルキナ親子の目的は《第零特務》と一致する。議員の後ろ盾が得られるならば、調査も楽に遂行するだろう。しかしジェスチャーでヴァレリアが「待った」をかけてきた。
『話が出来すぎている。彼女は我々調査勢力を釣るための餌ではないか?』
確かにその可能性は大いにあった。前例はいくらでもある。アナスタシアもメシャルキナ達に身分を明かすのは止めた方が良いと判断して大きく頷いた。〝信じるよりまず疑う〟のがこの国の常識だ。シャルロッタが秘密警察員なら《第零特務》を危険に晒すことになる。仮にこの親子が本当の善人だったとしても、敵勢力の注意を敢えて彼女達に向けていた方が動きやすいと判断したのだ。そうと決まれば彼女から欲しい情報は一つだけだ。
「あの、違法労働が深刻な場所ってご存知ですか? 私達そこ以外で働きたくて」
「そうね、家族のために遠路遥々出稼ぎに来たあなた達は引っかからないように教えておいた方が良いかも。――とはいっても、どこも良い噂は聞かないんだけどね」
初めから視察のために用意したであろう工業地帯の地図にはどこも『危険』の文字が記載されていた。町ぐるみで搾取が行われている疑惑は益々真実味を帯びてきた。
「特にヤバいのはダクステン精肉工場ってとこ。絶対に行っちゃダメだから」
工場名まで名言している以上、余程危険な場所なのだろう。漠然的に町を調査しようと考えていたヴァレリア達にとっては渡りに船だった。
「ここにいたのか。ロッティ」
男性が扉越しに話しかけてきた。柔らかな物腰と桃色の髪をした優男はどこかシャルロッタの面影を感じさせた。
「お父様、もうお話はいいの?」
「ああ。待たせて悪かったね。こちらのお嬢さん達は?」
「ルマトヤに働きに行くのですって。だから少しお節介を焼いたわ」
シャルロッタから父と呼ばれた男性はヴァレリア達を見て丁寧に会釈する。
「娘がお世話になりました。ご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
「いえ。聡明な彼女からルマトヤのお話を聞けて良かったです」
「ハハハ、それは良かった。座学は十分なのですが……何分世間知らずの娘なのでこれを機に社会経験させたくて仕事に連れてきたのです」
「お父様ったら、またそんなこと言って!」
文句を言っているが頭を撫でる父の手を振り掃うことはしないあたり、親愛を感じた。
「この子は本当、目に入れても痛くなくて。ほら、愛くるしい瞳、美しい髪、とってもかわいいでしょう? 早逝した妻そっくりで自慢の娘なんですよ!」
このまま親子で車両を去ると思ったら、絶え間なく続く娘自慢を延々聞かされることになってしまった。端で聞いているシャルロッタは父からの自慢話に赤面しながら耐えている。彼らが諜報員ならこんなにも目立つような親馬鹿発言を披露することはしないだろう。一つの懸念が拭い去られる代償に貴重な密談時間を浪費したのだった。
汽車の到着と共にメシャルキナ親子と別れることになった。やはり共産党幹部らしく駅には彼らの出迎えの役人が何人も来ていた。
「ふー……ようやくあの親子と離れられる。まさか一時間ぶっ通しで娘自慢を聞かされるとは思わなかったよ」
「シャルロッタちゃんの反応を見ている分には退屈しなかったけどね」
アナスタシアの言う通り、実父からの称賛の度に赤面したり、顔を隠したり、悶絶したりするシャルロッタは見ていて飽きなかった。手を振って去っていく彼女の姿に少々名残惜しさすら感じてしまう。
「――さて、私達は本来の仕事をするとしよう」
「そうね。搾取している悪人を見つけないと」
ヴァレリア達は不当労働搾取をされている町の調査に訪れます。
移動で使用した鉄道で共産党員の親子と出会いました。
シャルロッタちゃんとその父親ですね。
ファザコンと親ばかという混ぜちゃいけない組み合わせです。
ロシア名の家名は男性と女性で語尾が変わります。
シャルロッタ・メシャルキナ。彼女が仮に男性ならメシャルキンになります。
ヴァレリアの家名「カガロフスカヤ」も男性なら「カガロフスキー」に代わります。
以上雑学でした。
次話は悪徳企業に潜入する話です。