初任務
粉雪が降る雪原を少人数で行軍するヴァレリア。雪が積もった地面を歩くだけで体力を奪われる。吹き抜ける冷風は肌を痛めつける。寒冷気候に慣れたバロア人でも長期間の野外活動は身を削るものである。ヴァレリアは仲間の疲労を感じ取っていた。さりとて無闇に休憩をとれば、敵の侵入を許してしまう。そこで大幅な近道をすることにした。
ヴァレリア達の行軍は常に最短経路を選んでいる。そこからさらに近道をするならば地形そのものを変えなければならない。ヴァレリアはそれを実行することを思いつく。
「おい、アーニャ……名案を思いついたんだが、『氷血絡』が必要だ。能力の発動ってどうやるんだっけ?」
「出発前に少し訓練したでしょう? もう」
「すまん、もう一度教えてくれ」
呆れながらもアナスタシアは再度丁寧に教えてくれた。
「血管を通して血に流れる因子を循環させる。発汗によって因子を放出させることで冷気を操作できるの。通常人間は発汗によって体温を調節するけれど、このメカニズムを強化拡張して自分の周囲の気温を操作しているということになるわね」
「分かりにくい。もっと説明を柔らかくしてくれ、お前のおっぱいのように」
「ぐっ……自身の血の流れとやりたいことを強くイメージして集中すればいいの!」
「要するに根性論か。それなら得意だ! 『氷血絡』――〈大氷河〉!」
ヴァレリアは指先を運河につけると周囲の冷気を操作し、気温を一気に下げてしまった。その氷結能力によって運河は地面の様にカチカチに凍っている。
これなら迂回せず直進が可能だ。密偵との接触予測地点まで体力を温存できる。満面の笑みのヴァレリアを先頭に運河を徒歩で渡っていく。
「レーラ、こうしていると大戦時を思いだすわね」
「〈ズヴィズター川奇襲戦〉だな。私も同じことを考えていたよ」
運河を凍らせて行軍する様は当時の情景を思い起こさせた。
かつてマチスの軍勢がレヴェート連邦の国土に侵攻してきたとき、最高指導者はアーストンは焦土戦を厳命した。撤退の折、物資や施設を侵攻軍に渡さないために自領を焼き払う作戦である。敵軍が現地で補給できなくなる利点があるが、国民の生活そのものを壊すため諸刃の剣であった。当時防衛軍として参戦していたヴァレリアも、マチスの猛攻を前にズヴィズター川の大橋を爆破して奥地まで撤退せざるを得なかった。
大粛清によって連邦軍の牙は折られ士気は低下している。対してマチス軍は最新武器を携えて練度が高かった。現場の指揮官達は軍議で選択を迫られた。マチス軍に降伏するか、焦土戦を展開し、さらに内地へ撤退するかである。
だが連邦軍の後ろには農耕地が拡がっており、連邦国民の食料の大部分を賄っていた。焦土戦で捨て去るにはあまりに惜しい土地だったのだ。
「もう無理だ。降伏しよう。ここの農地を焼き払えば仮に戦争に勝てたとしても翌年国民は餓死することになる。もう焦土戦はできない」
「駄目だ。降伏はない。徹底抗戦する」
多くの指揮官達は女性軍人であるヴァレリアの意見に耳を貸さなかった。実績から出世を認めざるを得なかったが軍議の発言権は制限されていたのだ。その場にいた女性将軍は皆そうだった。さりとて男性指揮官の意見は二つに割れた。焦土戦か降伏か。前線の下士官達が死んでいく中、時間だけが過ぎていく。
「私にチャンスをくれ。連中に奇襲をかける。その結果を見て決めてほしい」
ヴァレリアは少数の部下達と中流に上った。そして木々に隠れた河幅の狭い場所に目をつける。その場所は夜の冷え込みで明け方まで河が凍ることを知っていたのだ。凍った河を少数の騎馬兵で渡って迂回し、マチス軍の陣地に奇襲を仕掛けたのである。
「騎馬兵だと!? 一体どこから!?」
「迎撃準備! ただちに敵兵を―――ぐっ!」
優秀な狙撃兵、砲兵を持つヴァレリア守備隊は氷が溶ける朝には撤退することで防備が手薄な敵陣地を蹂躙した。夜闇が敵の反撃から自軍を守ってくれた。また、途中で氷河を渡っていると気づいた大量のマチス兵を誘い込み、その重さと仕掛けた爆弾で氷を破壊、凍てつく氷水に沈めて凍死させてしまったのである。この奇襲作戦が陽動となり、マチス軍を押し返すことに成功した。影の立役者たるヴァレリアの名前を知らしめた戦いである。
「まさか。昔の作戦を超能力で再利用することになるとはな」
それだけヴァレリアの立案作戦が優秀だった証だ。あの闘いで女性軍人の発言力も上がったのだから大したものだった。
「レーラのおかげで予定より早く目標と接触できそうよ」
双眼鏡を覗いていたアナスタシアが偵察兵を見つけたようだ。ライフルを担ぎ、毛皮を着こんで狩猟者を装っているが、秩序だった歩法から密偵らしさが隠しきれていなかった。民間人は騙すことはできるかもしれないが、大戦期にスパイを看破したこともあるヴァレリア達にはその微妙な差異を見逃すはずがない。
彼らは無駄な体力を削らないように気を使いながら行軍していた。
「チッ、ルクガン州まで派遣されるなんて。中央勤務の方が良かったぜ」
「おい、サボタージュは許されんぞ」
「俺らもサボる気はねーよ。処刑や強制労働はご免だからなぁ」
「取りあえずウォッカでも飲もうぜ。寒い日にぁ酒が欠かせねーよ」
男達がウォッカを取りだして飲み始めた。直属の密偵らしく価値の高い酒のようだ。
双眼鏡からその銘柄を確認したヴァレリアは大きく舌打ちした。
「良いご身分だね。任務中に酒かよ。クソが」
「事故に見せかけないと駄目だから先走らないでね。あなたの腕ならこの距離の狙撃でも当てられるでしょうけど……」
「いや、私でも無理だな。〝鷹眼〟でもなきゃこの距離は当てられん」
「連邦伝説の狙撃手さんね。やけに彼女を買ってるじゃない。同じ女性軍人だから?」
「それもあるが、個人的な因縁があるのさ。それより良いことを思いついた」
ヴァレリアは密偵達が暖を取っている地点の上に目を向けた。
気配を殺して対象に接近しつつ、『氷血絡』を集中していく。
肉眼でも密偵を捉えられた瞬間、自身が溜めた冷気を爆発させた。凄まじい轟音と共に雪崩が起こり、密偵達を呑みこんでいく。
「ギャ―! 雪崩だぁああ!」
「畜生、仕事の最中だってのに、余計な手間かけさせやがって。ちょっと待ってろ!」
過半数は人工雪崩に巻き込むことに成功するも、残りは未だ顕在だ。力に目覚めたばかりのヴァレリアは上手く冷気を操作できなかったようで全員を始末するには足りなかった。
仲間の救助を始めようとする生き残り組の周りに不自然な猛吹雪が吹き荒ぶ。
「何だぁ!? こんな悪天候見たことねぇぞ!?」
「方向が分からない! みんな、どこにいる!?」
「寒い……助けてくれ」
しばらく、もがいていた彼らは猛吹雪の中で遭難し、体力を削られてその場に倒れていった。仕掛けたのアナスタシアのようだ。力強いヴァレリアの氷血能力と違って彼女のものは持続時間の長さと綿密さに重きを置いているらしい。軍人と医者という職能の違いが『氷血絡』の使い方を分けているのかもしれない。豪雪に埋まる密偵達はまさか人工的な氷雪攻撃を受けたとは思っていないだろう。少々気の毒ではある。アナスタシアの起こした小範囲吹雪が晴れる頃、雪に埋まる密偵達の中に何故かヴァレリアも混じっていた。
「レーラ、あなた何してるの! 大丈夫!?」
「う~……頭が痛い……目眩がする。途中で歩けなくなって、お前の吹雪の中に飛びこんでしまった……そのまま身体が硬直して抜け出せなくて……」
身震いしながら話すヴァレリアの身体は既に冷たくなっている。
「貧血と低体温症ね。調子に乗って能力を濫用するからよ。今後は使い方を考えて。『氷血絡』は簡単に言えば自分の血で氷結能力を発動させてるんだから」
使い方を誤ると死に直結するということを身を持って学んだ瞬間だった。便利な力にはそれ相応の危険もあるということらしい。今後は慎重に能力を使わなければならない。自省している間にアナスタシアが携帯道具で湯を沸かし、手際よく暖を取り始める。
「少し……楽になってきたよ……ヒエル民族といっても普通に凍死するからな」
「まったく、私が医者でよかったわね。初任務で死亡じゃ格好つかないわよ? テントと毛布は用意したしお湯も沸かしたたけど、他に欲しいものない?」
「おっぱいを頼む。こういうときは人肌で温めてもらうのが効率がいい」
冗談を飛ばして自身が回復してきたことをアピールするヴァレリア。拳骨が飛んでくるかと覚悟していたが、アナスタシアは予想外の行動に出た。同じ毛布に入り、ヴァレリアの身体を抱きしめたのだ。弾力のある胸の感触が背中に伝わってくる。自身の肩に乗せられた手と背中から伝わる温もりはヴァレリアの体温を一気に温めた。
「アーニャ? 私が同性愛者と分かって揶揄ってるのか? お、おおおお襲っちゃうぞ!」
「これでも責任感じてるの。自分の技に巻き込んじゃったのもそうだけど、ちゃんとリスクの説明をしてなかったから。ほら、まだこんなに冷めてるじゃない」
真っ赤に染まる耳に吐息を吹きかけ、背中をなぞるとヴァレリアは身震いした。腰に回された腕はあと数センチで自身の秘部に迫ってくる勢いだ。狭いテントの中の毛布ではお互いの匂いを意識せざるを得ない。体温を維持するための呼吸が嬌声にすら聞こえてくる。
(この女……誘ってやがる! いいのか、いっちゃっていいのか!?)
振り返って彼女の身体を抱こうとしたとき、するりと毛布から彼女が抜けだした。
「なーんてね、本気でしないことは大戦時に分かってるわ」
「クソ! やっぱり揶揄ってたのか!」
茶化したように笑うアナスタシアに猛抗議しようとしたとき、一発の銃声が雪原に響いた。弾丸がテントを貫通したらしい。ギリギリ弾は当たらなかったが、テントに向けて発砲してきたということは密偵の中に生き残りがいたことを意味していた。
「テントから出ろ! 敵を迎え撃つぞ!」
素早く脱出したヴァレリア達を追うように何発も射撃される。
辛うじて躱した所で銃を構えた敵と向き合ってしまった。
「動くな! 貴様ら何者だ!?」
まだ万全ではないにしろ彼を殺すことは容易だ。しかしそれでは事故に見せかけて殺す作戦は失敗に終わる。第二の密偵が送られて《第零特務》の拠点を暴かれてしまうだろう。
「ここで何をしていた? 言え!」
「女の子同士でいちゃついていただけだよ」
「ふざけたことを抜かすな!」
「嘘でもないんだが……」
銃を持つ密偵の意識がヴァレリアに向いた所で氷血能力を発動させる。能力を向けるのは銃を持つ男ではなく、彼の背後にある洞穴に対して。冷気を外に逃がして洞穴の気温を上昇させていく。
「本部へ連行する。たっぷり尋問してやるからな」
「えー、勘弁してくださいよー」
「お前達が仲間の救助を手伝うなら減刑してやらんこともない。先程雪崩に巻き込まれた」
「つまり、生き残りはアンタだけってことか」
二人の会話は洞穴から聞こえる獣の唸り声に遮られた。
ヴァレリアが適当に会話を繋いでいる内に準備ができたようだ。
「なんだ今の声は?」
振り向いた密偵の背後に猛突進してきたのは冬眠中の熊だった。『氷血絡』で冷気を逃がされ気温が上昇させられたことで春と勘違いした熊が目を覚ましたのである。密偵は熊に向かってに発砲したがあえなく獣の一撃で屠られることとなった。
餌として洞穴に引きずられていく密偵を見送った一同は一息ついた。この分なら他の密偵達も処分してくれるかもしれない。死体を食べてくれるなら獣害による事故死として演出することが出来る。任務は完全に達成された。
「まさか『氷血絡』を温度上昇に使うとはお前には驚かされる」
ヴァレリアは豪快に笑った。
釣られてアナスタシアも微笑んだ。
河が凍りやすい箇所を使って機動力のある騎馬兵力で迂回させるという
軍人時代の挟み撃ち戦術を『氷血絡』で応用して近道しました。
これで町に迫る秘密警察を雪崩や熊の餌食とすることで始末に成功しました。
次話は新しい任務に赴きます。