11. 疾風、人間になる?
疾風は自室へ戻ろうとしたが、どうしてもレオンが気になり、もう一度彼の部屋を訪れた。
扉を開けて中を覗いた瞬間、疾風は気絶しそうになった。レオンが包帯だらけの体で呻きながら、床に伏せたまま腕立て伏せをしていたのだ。回復術で塞がれていた傷が開き、包帯は血で真っ赤に染まり、滴る血が床に落ちていた。
「何してるんだ! 傷が開いちゃってるじゃないか!」
疾風が叫んだが、レオンは何の反応も示さなかった。
レオンを担当するエルフ、グレイムが慌てて中へ入り、レオンを止めようとしたが、彼は意識を切り離したように、ただ黙々と腕立て伏せを続けた。
疾風は歯がゆさに足踏みした。今すぐにでも止めなければならないのに、馬の体では何もできなかった。
血を流しながら、こんな状態で鍛錬を続けるなんて、どう考えても正気ではない。
(もし僕が人間だったら。こんなの、無理やりにでも止めて、血を拭いて、包帯を巻いてやれるのに。)
生まれた日からずっとレオンの手で育てられてきたのに、今は彼が血を流しているのを見ていることしかできない。その無力感に、悔しさと悲しみがこみ上げた。
「レオン、レオン、しっかりして。」
気づけば、涙が溢れ出していた。疾風はすすり泣き、壁に頭を何度もぶつけた。
そのとき、誰かの手が優しく彼の体に触れた。顔を上げると、そこにはカラナエルがいた。彼は部屋の中を目配せし、静かに言った。
「入って、友を助けるといい。」
「馬の蹄でどうしろっていうんですか? あんなに血が出てるのに、拭いてやることもできないし、包帯も巻けないのに!」
カラナエルは穏やかに微笑んだ。
「もうできるはずだ。まだ気づいていないようだな。さあ、入って包帯を巻いてやりなさい。」
泣いているところをからかわれているのかと、問い詰めようとしたその瞬間、部屋の中からグレイムの緊迫した声が響いた。
「大変、血が止まらない! 誰か、手伝ってください!」
疾風は考える間もなく、部屋へ飛び込んだ。
床にはすでに血が広がっていた。慌ててグレイムを手伝って、レオンの体を抱き起こし、震える手で包帯を剥がした。
その時だった。疾風は、自分の手を見て息を呑んだ。それは、人間の手だった。
(僕、人間になった?)
呆然としていると、グレイムが声をかけた。
「傷が広がる前に、早く血を拭いて、薬を塗らないといけません。」
疾風は考えるのを後回しにして、グレイムを手伝った。血に染まった包帯を剥がし、全身についた血を丁寧に拭き取った。そして、自分の手を消毒し、傷口に薬を慎重に塗った。
その間も、レオンは空っぽの目で、ただ棒立ちしていた。
薬を塗り終えると、グレイムが新しい包帯を巻き始めた。
「私も手伝います。やり方を教えてください。」
疾風は教わった通りに、レオンの腕に包帯を巻いた。
「上手ですね。その調子で。」
今まで包帯を触ったことすらなかったが、なんとかできているようだった。
「初めてお見かけしますが、ヴァルラス殿のご友人ですか?」
「あ、ええ。」
「では、今お食事をお持ちしますので、しばらくお待ちください。」
その言葉に、ようやく我に返り、扉の方を見ると、すでにカラナエルの姿は消えていた。
レオンと二人きりになった疾風は、自分の手足や身体を不思議に観察した。黒い服をまとい、軽装の鎧を身につけた男の体だった。
(アオイデさん、これは一体どういうことですか? カラナエル様が何かしてくれたのですか?)
― 本当に鈍いな。魔王の試練の最後に何があったか覚えてないの?
(魔王の馬が僕に向かって突っ込んできましたよね。)
― それだよ。それで、君は魔王の竜馬―つまり、竜馬族のロードであるフェリクセイスの能力と融合したってわけ。アイツは魔王の剣とセットみたいな存在だからな。
最後に見た魔王の愛馬―人型の姿から駆け出しながら馬へと変わった光景が脳裏に蘇った。
(じゃあ、僕は本当に人間になったと?)
― 正確には違うな。人間になったのではなくて、人の姿を取ることができるようになったのだ。
レオンが騎馬戦をするなら、当然君は魔王の剣とセットになって、彼を乗せることになる。
(剣と馬をセットにするなんて、魔王もエレンシアの人たちみたいに相当な馬好きだったんですね。)
― メレディスとかニスベットとかいう女が言っていただろう? 君の役割が重要だって。
たぶん、魔王の試練では、戦士自身の実力と闘志が最も重要だが、勇猛で主人との一体感が強い軍馬も必要だったんだろうな。
(つまり、僕のせいで、レオンがこの試練を受けることになったってことですか?)
― いや、レオンにその資格と能力があってこそからのことだ。君だけでは試練にならないからな。
アオイデの説明で、やっとことの流れが理解できた。
― ほらな? 我がいて、助かるだろ?
ここぞとばかりに、アオイデが誇らしげに言った。
(確かに助かってはいますけど。こういう時のアオイデさんって精霊王じゃなくて、恩着せ王って感じですよね。)
― 君は、余計な一言を付け足さないと気が済まないのか。ただ『ありがとうございます』って言えばいいのに。
ちょうどその時、グレイムがサービングカートのようなものを押してきた。そこに乗せられた食事の量を見て、疾風は目を見開いた。どう見ても4、5人前以上はある。
「誰か他に来る予定ですか?」
疾風が尋ねると、グレイムは首を横に振った。
「ヴァルラス殿がお召し上がりになります。」
「これをレオンが一人で全部食べるんですか?」
「はい。」
グレイムが食卓いっぱいに料理を並べると、レオンはその前に座り、ものすごい勢いで食べ始めた。
疾風はあっけに取られ、しばらく呆然と見つめていた。もともと食にこだわらず何でもよく食べる方だが、フードファイターのようにがっついている姿は初めて見た。
無表情でぼんやりした顔のまま、食卓の料理を一口も残さず平らげたレオンは、立ち上がるとそのままベッドの端に手をつき、再び運動を始めようとした。
疾風は慌ててレオンを引き止めた。
「何してるんだ!? 食べたばかりだろ。少しは消化くらい、いや、そもそも今運動する状況じゃない!」
疾風を振り払って、また運動を続けようとするレオンを見て、グレイムが困ったように言った。
「目を覚ましてからずっとこの調子です。」
グレイムが食器を片付けて部屋を出て行った後も、疾風はレオンを止めようと必死に格闘していた。
その時、突然疾風の頭の中に、聞き慣れない声が響いた。
― 我らの主には、それが必要だ。
低く、冷ややかで抑揚のない女性の声だった。
(誰だ? アオイデさん?)
― 我ではない。
疾風は部屋を見回したが、自分とレオン以外誰もいなかった。
(アオイデさん、冗談やめてよ。こっちは今真剣なんだから。)
― だから、我ではないって言っているだろう。あそこだよ、あそこ。
(あそこってどこ?)
アオイデは呆れたように言い放った。
― 魔王の剣だよ。
疾風は、ベッドのそばに立てかけられている鉤型の魔剣を見た。
今はほぼ円環に近い、得体の知れない鈍い銀色の物体のように見える。
(君が僕に話しかけたの?)
魔剣を見つめて問いかけると、答えが返ってきた。
― 我らの主は自らを鍛え、成長しなければならない。今のまま、私を使えば、すぐに死ぬことになる。
疾風は驚愕した。試練を受けるだけでも死にかけたというのに、魔剣を使うためにも条件があるとは。思わず苛立ち、魔剣に食ってかかった。
(ふざけるなよ! あんな目に遭わせておいて、まだ何かしろって言うのか?)
― 人間の体で私を扱うには、器を大きくする必要がある。
魔剣は淡々とそう告げると、再び沈黙した。
(ちょっと待て、もっと説明しなさい。それってどういう意味だ?)
疾風が問い詰めたが、魔剣が口にしたのはたった一言だった。
― 我が名はルナティアス。
(いや、名前なんか聞いてないよ! ちゃんと説明しろって。はぁ〜、イライラする。AIでも君よりはマシに喋るぞ。)
ぼやく疾風に、アオイデが言った。
― 元々そういうヤツなのか、それともレオンの力量に合わせて、こんな調子なのかはわからんが、後でアルに聞いてみろ。魔法使いなら、その手のことは詳しいはずだ。
疾風はもどかしさにため息をついた。
それ以降、疾風は、レオンのそばに付き添い、ずっと彼の世話をした。夜になり、レオンが眠ると、自分の部屋に戻って馬の姿に戻り、眠った。
人型の姿を保つことに時間の制限はないようだったが、一定の魔力を消費するため、時折馬の姿に戻るほうがいいというアオイデの助言に従ったのだった。
*** ***
そんな状態で5日が過ぎた。
朝早く起きてレオンの元へ行くと、彼は眠ったまま身をよじらせ、苦しそうにしていた。濡れた布で額の汗を拭っていると、レオンがうっすらと目を開けた。
「誰…?」
疾風の顔を見たレオンが尋ねた。その瞳にかつての輝きが戻ってきた気がした。
「僕だよ、疾風。」
レオンはぼんやりとした意識を覚醒させようとしながら、目を大きく見開き疾風を見つめた。
窓から差し込む朝日を背に、疾風の黄金の瞳をじっと見つめたレオンが再び尋ねた。
「本当に、疾風なの?」
「うん。」
疾風が大きく頷くと、レオンは勢いよく起き上がろうとしたが、傷が痛んだのか、「ぐっ……」と苦しげに唸った。
疾風はすぐに彼を支え、ゆっくりと起こして座らせた。
「どうなったんだ? 魔王が何か言ったあたりから、何も覚えていない。」
「話せば長くなるよ。」
疾風はその直後の出来事や仲間の様子、アオイデや魔剣から聞いた話を簡単に説明した。
「魔王の竜馬と融合した、ということか。でも、見た感じ魔族というよりは森のエルフみたいだな。特に耳が。」
「そう?」
レオンのことを気にするあまり、自分の姿をじっくり見る暇もなかった。
「僕の部屋にもここにも鏡がないから、まだちゃんと見てないんだ。男の身体になったのは分かるけど。変な姿になってないよな? 馬みたいに顔が長いとか。」
「いや、とても格好いいよ。まさにお前そのものだ。黒い髪も、黄金の瞳も、そのまま。不思議なくらいにな。」
レオンが微笑んだ。
「前から、お前が人間になったら、どんな姿だろうって、たまに想像してたよ。でも、こうして真正面から向き合って話すなんて。」
疾風の目に涙がにじんだ。
「本当に、戻ってきたんだな、レオン。君がどうなるか分からなくて、どれだけ心配したことか。レオン!」
疾風はレオンの首に抱きつき、しゃくり上げた。
その時、ノックの音がして扉が開いた。
「ヴァルラス殿、包帯を。」
入ってきたグレイムは、2人の様子を見て動揺し、慌てて後ずさった。
「あ、えっと、それじゃ、また後で。」
そそくさと扉を閉めて出て行くグレイムを、疾風は冷ややかな顔で振り返った。
「なんだよ。何を勘違いした?」
その夜、自室に戻った疾風は、馬の姿に戻る前にグレイムに頼んで持ってきてもらった大きな鏡を壁に立てかけ、自分の姿を映してみた。
レオンが言った通り、やや跳ねた長い黒髪に黄金の瞳、白い肌、そしてエルフのように長い耳を持つ端正な姿だった。
馬だった時の体格が反映されたのか、身長もレオンよりやや高かった。
(2メートルはあるな? ふっ、なかなかイケてるじゃない。)
自分で見てもかっこいいと思い、しばらく鏡の前で時間を過ごしていた疾風だが、ふとこのような姿を他人に見せてはいけないという危機感を覚えた。
(これじゃ、ナルシストだと思われるのがオチだな。いくらイケメンでも、そんなのやったら、マジで引く。ダサいやつ扱いされないように気をつけよう。)
鏡はできるだけ一人の時にだけ見ることにしよう、と自分なりのルールを決めた。
それでも、ようやく畜生脱出の長い旅が終わりを迎えたのだという実感が湧いてきた。
― 終わりではないぞ。人間になったわけじゃなく、人の姿を取れるようになっただけだろう?
アオイデが冷水を浴びせた。
(これ以上変化する余地はなさそうですけどね? だったら、もう終わりでしょう。まさかこの状態から完全な人間に変身、なんてことはないでしょうし。それに。)
後半は恥ずかしくて言葉を飲み込んだが、アオイデはすかさず察して茶化してきた。
― 今の姿、気に入っているだろう? ククッ、まあ、我もそう思うぞ。このくらいの見た目じゃないと、我の契約者、英雄戦士とは言えないからな!
(知りませんよ。僕は戦えませんから。吟遊詩人としてデビューして、弦楽器と歌の練習でもしようかと。)
― ダメだ。君は我の言う通り、英雄戦士に。
アオイデが何を言おうと気にせず、疾風は馬の姿に戻ると、勢いよく水を飲んだ。




