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畜生脱出〜後は異世界冒険  作者: 星を数える
Ⅳ キべレ
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4. ニスベット

 朝の陽光を受け、淡い金色に輝く天空の魔塔の最上階で、カラナエルはひとり静かに、眼下に広がるキベレの街並みを見下ろしていた。


 彼の背後に、純白のローブと仮面を身につけたメレディスが姿を現した。彼女は仮面を外し、カラナエルへと歩み寄った。


「カラナエル様。」

 彼女の声に、カラナエルはゆっくりと振り返った。彼女が訪れた理由をすでに察していたかのように、驚いた様子は微塵もなかった。


「レオン・ヴァルラスに課した試練を、撤回してはいただけませんか?」

「ニスベット、君も知っているはずだ。これはキベレの法に則った裁きだ。彼はキベレの禁忌を犯した。」


「わかっています。でも、彼にはそうせざるを得ない理由があったのでは?」

「もし、私にもそうする理由があるとしたら?」

 カラナエルが静かに問い返すと、メレディス―ニスベットの表情が変わった。


「どういう意味でしょうか?」

「君が知っているかは分からないが、先日カリトラムが混沌の地の南で、古代の聖遺物を2つ強奪していった。」


「2つですか? 1つではなく?」

「混沌の地にあった〈忘れられし神殿〉の聖遺物と、西大陸南部に隠されていたもう一つの聖遺物だ。それらは単なる聖遺物ではない。

 彼らは今、決して動かしてはならないものを動かし始めた。」


「それは…どういうことでしょう?」

「そこにあった聖遺物は、〈混沌の力〉を封じていた封印の一つだ。その事件の後、他の封印も不安定になり始めた。そして、彼らは今、混沌の地の北部でさらに別の聖遺物を狙っている。」


「彼らが狙っている聖遺物とは?」

「その聖遺物は、他の封印を弱めるだけでなく、持ち主を選ばず、資格ある者に力を授ける性質を持つ。そのため、他のものよりも特に危険だ。

 私は今回、レオン・ヴァルラスに、それを試練として課そうと考えている。」


「カリトラムが古代帝国の力を利用しようとしているのは知っていますが、まさか彼らが混沌の力を解き放とうとしていると?」

 ニスベットは信じがたい表情で問いかけた。


「今までの流れを見る限り、そうとしか考えられない。」

 カラナエルの答えに、ニスベットは思案に沈んだ。


「彼らに渡してはならない聖遺物をレオン・ヴァルラスへの試練とするということは、彼にその資格があると、お考えなのですね?」

「彼の運命が、ここへと彼を導いたのだと感じる。もちろん、その試練を乗り越えられるかどうかは、彼とその仲間たち次第だ。

 私は彼らの可能性に賭ける。」


「もし失敗すれば、命を落とすこともありうるのですね?」

 カラナエルは否定しなかった。


 ニスベットは決意を固めて言った。

「私も行きます。彼らの仲間の中には、私が守らなければならない人がいます。」


「弟子とブレイツリーの大公か?」

「レオン・ヴァルラスもです。私は彼に借りがあります。彼は、アベルの子を、命を賭けて救ってくれました。その恩があります。」


 カラナエルはじっとニスベットの顔を見つめた。

「今でも、そのことが心を痛めるのだな。」


 哀れむような眼差しを向けながらも、カラナエルは首を横に振った。

「君が行けば、彼の試練はさらに厳しくなるだろう。試練を受ける者は、それぞれの限界を超えねばならない。

 君に課せられる限界が大きくなればなるほど、レオンの負担も増すことになる。」


 その言葉を聞いたニスベットは、気が抜けたように視線を落とした。

 カラナエルはそっと彼女の肩に手を置いた。

「誰であれ、この世の全ての問題を解決することはできない。時には、誰かを信じて待たねばならない時もあるのだ。」


「私は、カラナエル様のように強くはありません。自分の力ではどうすることもできない、そんな状況が…苦しくて、耐えられないのです。」

 カラナエルは、意味深な微笑を浮かべるだけだった。


 ニスベットは顔を上げ、口を開いた。

「少なくとも、私にできることがあるのなら、やらなければなりません。彼らに会うことくらいは許していただけますね?」


「そうするがいい。私の意図は、彼らを死地へ追いやることではないのだから。」

 ニスベットは暗い表情で長く息を吐いた。


「カリトラムが古代の遺物を利用して何かを企んでいると知っていながら、これまでお話ししなかったのは、人間の問題にカラナエル様を巻き込むべきではないと考えたからです。

 しかし、結局は彼らがカラナエル様をもこの世界へ引きずり出してしまいました。彼らは自分たちが何をしようとしているのか、本当に理解しているのでしょうか?」


「おそらく理解しているだろう。だが、いつもそうだが、問題は結果を過信しすぎることにある。」

 カラナエルは苦々しい口調で言った。


         ***     ***


 牢獄でさまざまな思いに沈んでいた一行は、思いがけない訪問者を迎えた。


 長く波打つ白金の髪、青緑色の瞳を持つ美しい女性の来訪に、アルたちは呆気に取られ、フローラは驚きと喜びで硬直した。彼女がキベレの地下牢を訪れたことも意外だが、それ以上に、ニスベットが仮面もヴェールもつけず、素顔をさらしていることが極めて珍しいことだった。


「フローラの師、メレディスです。ここではニスベットと呼ばれています。」

 彼女がそう自己紹介すると、一行は驚いて彼女を見つめた。


 フローラの師であるメレディスは、クロード・ペラミナスの友人だと聞いていたが、そう考えるにはあまりにも若く見えた。


 一方、キアンは別の意味で緊張していた。黒いドレスにヴェールをまとった彼女とは何度も顔を合わせていたが、メレディスの素顔を見るのはこれが初めてだった。


「皆さんが迎える試練について、微力ながら助言をさせていただくために参りました。

 ヴァルラス卿と疾風…でしたね? お二人は別室で少しの間お待ちください。」

 ニスベットの背後に控えていたエルフの騎士が、レオンと疾風を別の部屋へと案内した。


 二人が部屋を出ると、ニスベットは一行に向かって問いかけた。

「ヴァルラス卿の試練に、皆さんも同行されると聞いております。

 その意思に変わりはありませんか?」


 アルが代表して答えた。

「はい。レオンは私たちを止めようとしていますが、私たちは皆、共にするつもりです。」


「そう言っていただけて、感謝します。」

 メレディスは一行の顔をひとりひとり見つめながら言った。


「カラナエル様が課された試練は、権力者の傲慢や気まぐれによるものではありません。キベレの法を超えて、これには非常に重要な意味があるのです。詳しい説明は、皆さんがこの試練を終えた時にお話ししましょう。


 皆さんは、この試練において、自らの全存在を懸けて限界を試されることになります。試練が始まる前に、肉体的にも精神的にも、あらゆる強化術を最大限に活用してください。


 皆さんがどれほど容易く挫けず、どこまで耐え抜けるか─それにヴァルラス卿の成功がかかっています。そのことを忘れないでください。」


 アルが慎重に尋ねた。

「レオンは、あのカラナエル様という方が、このキベレの王であると信じているようですが、本当なのですか?」


「事実です。」

 メレディスが即座に肯定すると、アルはかえって言葉を失った。


 彼の頭の中は混乱していた。キベレの王は、その存在すら疑問視されてきた。人々はキベレの摂政セルディーヌを統治者と見なしており、なぜ彼女が王ではなく摂政と呼ばれるのか、不思議に思っていた。


 だが、その王が実在し、しかも自分たちの運命に関わっているというのなら、この試練は単なる一件ではなく、何か遥かに大きな出来事の一端なのではないかと感じ始めた。



 ニスベットは、深く考え込むアルを後にして、キアンのもとへと歩み寄った。

 キアンは緊張で体を強張らせながら、彼女を見つめた。


(父上が愛した人であり、父上を愛した人。そして、僕を生んだ女を、誰よりも憎む人。)

 メレディスは、アデライドの最も忠実な支援者であり、側近だった。だが、キアンにとって彼女は、恐ろしく、気を遣う相手だった。


 彼は知っていた。メレディスは、母にあまりにも似ているキアンのことを、一度も真正面から見ようとしなかったことを。ヴェール越しに隠された奥に微かに滲む敵意を、そういった感情に敏感なキアンは、痛いほど感じ取っていた。


 アデルが自分を守る限り、メレディスが危害を加えることは決してないと分かっていた。それでも、彼女と向き合うのは難しく、息苦しかった。露骨に侮辱してくる王族や貴族たちよりも、メレディスの沈黙の方が、ずっと彼を委縮させた。


 だが。いざこうして彼女の素顔と向き合ってみると、その眼差しは静かで、どこか柔らかささえ感じられた。


 ニスベットが低い声で言った。

「あのお方のことを想うなら、あなた様はここを去るべきだと言いたいのですが。」


 キアンは彼女の言葉を遮るように、真っ直ぐに目を見つめ、力強く言った。

「レオンと行きます。その決意は変わりません。私は、あの方を守れる者になるために行くのです。」


 ニスベットは、しばしキアンの目を見つめた後、微かに微笑み、静かに励ました。

「乗り越えてください。あなた様ご自身のために、そして、あのお方のために。」

 そう言ってキアンに小さく頷くと、彼を後にして、フローラを連れ、牢の外へと向かった。


 キアンは、少し呆然としたまま、その背中を見送った。

(余計な期待はしてはいけない。これは、レオンとフローラが共に歩む戦いだから、そう言ったのだろう。)


 そう思おうとした。それでも、ニスベットの言葉は確かに彼の心を支えていた。

(僕は正しい選択をしたのだ。この選択に、僕は責任を持たなければならない。)

 キアンは、心の中で強く誓った。



 牢を出てフローラと二人きりになると、ニスベットが口を開いた。

「リエラ、この戦いはカリトラムを阻むことでもあるのよ。彼らが私の一族に、そしてあなたの一族にしてきたこと─それが今回の事態の根源にあるの。

 だからこそ、あなたは必ず耐え抜き、乗り越えなければならないわ。」


「師匠は、この試練の内容をご存じなのですか?」

 ニスベットは首を横に振った。


「私も詳しくは知らないわ。おそらくカラナエル様もそうでしょう。

 大まかな性質を推測しておられるだけよ。

 本来なら、私も共に行くべきだった。けれど、私が行けばバラス卿の負担がさらに増すことになる。カラナエル様がそうおっしゃった。だから残念だけど、今回は待つ立場でいるしかないのよ。」


「カラナエル様とは、どのようなお方なのですか?」

「高貴で、強く、そして賢明な方よ。あなたも気づいているでしょうけど、私たちと同じ古き一族の方でもある。

 私にとっては、師のひとりであり、また、庇護者のような存在でもあるの。この戦いが終わったら、もっと詳しく話してあげるわ。」


         ***     ***


 フローラとの話を終えたニスベットは、別の部屋で待っていたレオンと疾風のもとへ向かった。


「カラナエル様は、ヴァルラス卿がこの試練を受けるのは、運命の導きだとおっしゃいました。

 お父上のこと、疾風との出会い、そして混沌の地での出来事─幾重にも重なった偶然と必然の果てに、あなたはここへ辿り着いたのです。」


 彼女はレオンを真っ直ぐに見つめ、静かに告げた。

「ヴァルラス卿、あなたは魔王の試練を受けることになります。彼は、遥か昔、世界の滅亡を阻む戦いの中で、自らを燃やし尽くした者のひとり。


 魔王は、あなたの意志を試し、資格を証明するよう求めるでしょう。あなたが自らを証明し、彼の認めるに値すると示すまで。


 その間、あなたの仲間たちは、それぞれ過酷な試練を課されることになります。彼らを守るためにも、あなたは耐え抜き、乗り越えなければなりません。」


 次に彼女は疾風を見た。

「疾風、あなたはヴァルラス卿の運命を成す、極めて重要な存在です。この戦いにおいて、あなたの役割は決して軽いものではありません。どれほどの苦痛が伴おうとも、ヴァルラス卿と一心同体となり、最後まで戦い抜いてください。」


「私が、本当にレオンのために、重要な役割を果たせるのですか?」

「ええ。あなたがヴァルラス卿を支えなければ、この試練を乗り越えることはできません。」


 疾風は大きく息を吸い込んだ。

 自分が存在することでレオンに力を与えられる。その言葉は、疾風自身にとっても大きな励ましとなった。

「そう言っていただけるのは嬉しいです。全力を尽くします。」


 ニスベットは彼をじっと見つめ、穏やかに言った。

「あなたは、実に不思議な存在ですね。異世界の人間であったあなたが、この地では過去の記憶を持つ〈馬〉として生まれ、精霊王と契約を交わして声を得、そして今や王の試練を受けることになろうとは。


 カラナエル様は、この試練があなたにとって、大きな転機となるかもしれない、とおっしゃいました。その意味が何なのか、私にもまだ分かりません。ですが、どうか乗り越えて、その転機をお迎えください。」


「ありがとうございます。」

 ニスベットの言葉を聞きながら、疾風は自分の〈馬生〉がパノラマのように浮かび上がるのを感じた。


(ん? これ、死ぬ前に見るって言われてるやつじゃないか? いや、だめた。)

 疾風は慌てて頭をぶんぶんと振り、勝手に広がろうとする〈馬生パノラマ〉を必死に追い払った。


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