3. 月の宮殿(2)
疾風は、なんだか厄介なことになりそうで、だんだん不安になってきた。王位継承権第3位、公爵―この言葉だけでも、相当な家柄に巻き込まれたことが確実だった。
エレンシアの王フィオールの申し出も断ってここまで来たというのに、こんな場違いなところで、主が変わるような事態だけは避けたかった。
(貴族の馬小屋送りになるなら、いっそ王の馬小屋の方がよかったじゃないかよ。まさか、レオンが折れるなんてことはないよな?
いやいや、ここは厳然たる身分制社会じゃないか。折れないことで、トラブルにでも巻き込まれたら、どうしょう?)
頼むから、クリスの父親が理性的に判断して、現れないでほしいと願ったものの、クリスは本当に父スティアーズ公爵を馬小屋に連れてきてしまい、ついには、レオンとアルが親子の前に呼び出される羽目になった。
「エレンシア王国の王国魔法団所属、アレイウス・ピートランドでございます。疾風は、フィオール・ノアセルン陛下の厳命により、フィオール・ノアセルン陛下以外のどなたにも譲渡することは許されません。」
アルはその日、すでに月の宮殿で疾風を欲しがり話しかけてきた他の人々に、何度となく繰り返したセリフを再び口にした。
スティアーズ公爵は、最初は息子クリスがしつこく頼むから、仕方なく来たが、疾風を目にした途端、強烈な所有欲に駆られた。
名馬の産地エレンシアの馬祭りで、馬上武闘大会と競走大会を同時に制覇したという伝説的な馬の噂は、すでにブレイツリーにも広まっていた。疾風を見て、噂のあの馬だとすぐに分かったのだ。
王位継承権第3位の公爵という高い身分に加え、名高い騎士でもある彼は、若造のレオンとアルが自分の前で全く怯む様子もなく、堂々としているのがあまり気に入らなかった。
さらに、アルがエレンシアの国王まで持ち出してきたことで、公爵の機嫌はますます悪くなった。
「ここはブレイツリー王国だ。エレンシアではないぞ。」
公爵がぶっきらぼうに放つ言葉に、アルの目が揺らいだ。これまでこんな口調で話してきた人間はいなかった。堪えきれなくなったレオンが口を開こうとしたが、アルは目で彼を制した。
(今は俺に任せろ。)
レオンは渋々口を閉じた。
アルは一呼吸おいて姿勢を正し、しっかりと背筋を伸ばした。
「エレンシア王国は中立国として、ブレイトリー王国をはじめとする大陸諸国と友好的な関係を築いてきました。そして重ねて申し上げますが、疾風はフィオール・ノアセルン陛下の格別な関心と庇護を受けております。
今回、私どもが疾風を連れてくることができたのは、エレンシア王国とブレイツリー王国の長年の友好と信頼を基盤に、フィオール陛下のお許しがあったからに他なりません。
どうか公爵様におかれましても、その点をご理解いただけますようお願い申し上げます。」
「たかが一頭の馬を巡って、外交問題まで待ちだすつもりか?」
公爵は獣のような鋭い目でアルを睨みつけた。しかしアルは一歩も引かず、毅然として応じた。
「私の言葉を正確にご理解いただけたようで何よりです。」
一触即発の空気の中、集まった人々は次の展開を半分興味深く、半分心配しながら見守っていた。
その場に割り込むように、一人の女性が現れた。30代半ばに見えるハーフエルフの女性だった。彼女は二人の間に進み出て、穏やかに挨拶をした。
「月の宮殿の総括管理を務めるベルノア・エストと申します。スティアーズ公爵様と、遠方からお越しの客人との間で少々誤解が生じたようですね。」
公爵が口を開く前に、ベルノアは公爵をまっすぐ見据え、声を張り上げた。
「アデルライド陛下が月の宮殿を広く公開されたのは、ここが多くの方々にとって、憩いと親交の場となることを願われたからです。
この場で争いを起こすことは、陛下のお考えに背く行いとなります。私は、陛下のお命を受け、この場でそのようなことが起きないよう管理する立場にあります。」
公爵の眉が不満そうに吊り上がった。
しかし、ベルノアは気にせず、右手を伸ばして人差し指にはめられた指輪を見せつけた。それはブレイツリー王家の象徴である百合の花と、月の宮殿を象徴する三日月が刻まれた指輪だった。
「月の宮殿で起きたことについては、陛下に代わりこの私が責任を持っております。
どうかお互いの誤解を解き、この場を楽しくお過ごしいただければと思います。」
ベルノアの登場により、事態は一旦収束した。
彼女の指輪は、月の宮殿に関する事柄について、ベルノアが王の代理として権限を行使できることを意味しており、彼女の仲裁を無視することは、王の権威への挑戦に等しかったのだ。
面目を潰されたと思った公爵は、ベルノアを睨みつけ、クリスを連れて、月の宮殿を後にした。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。今後このようなことがないよう管理して参ります。」
ベルノアはレオンとアルに丁寧に謝罪し、そのお詫びとして二人の部屋を2階の特別室に格上げしてくれた。
特別室で窓を開けると、正面に見える月の女神の姿にアルが思わず感嘆の声を上げた。
「いやあ、ここ、ほんとに特別室だな。最高の景色だ。もしかして、ここって王の寝室だったところじゃない?」
「さあ、どうだろうね。」
素晴らしい景色のおかげで、一気に気分がほぐれたアルとは対照的に、レオンの複雑な心境は晴れなかった。今でこそエレンシアの騎士ではあるが、ブレイツリーは父ギデオンが命を懸けて戦った国であり、自分の故郷だった。アルにこんな思いをさせたことが恥ずかしくもあり、腹立たしかった。
ベルノアが仲裁に出なかったら、事態がどれほど大きくなっていたかを考えるだけでもぞっとした。
「さっき、エスト卿が出てきてくれなかったら、どうなってたのだろう?」
アルは即答した。
「ブレイツリーの国王陛下の前まで行くことになっただろうね。疾風のことじゃなくても、俺はエレンシア王国魔法団の魔法使いだし、レオンだって、フィオール陛下から直接叙任を受けた騎士だ。大陸のどの国も、僕たちにそんな不当な扱いをしてはならないよ。」
「正直、お前を見るのが恥ずかしい。故郷だからって来てみたら、こんな目に遭わせるなんて。」
「そんなに深刻に考えるな。どこにだっていい人もいれば、そうじゃない人もいるものさ。スティアーズ公爵って、ブレイツリーでも 3本の指に入る有名な騎士だって聞いたけど、性格はちょっと微妙だね。あまりにご立派な身分だからかな。」
そう言って、アルは窓の外を指さし、レオンに手招きした。
「それより、こっちに来て、この景色を見てよ。」
白い雲を従えた満月が柔らかく空を照らし、青白い月明かりに照らされた月の女神が神秘的な銀色の輝きを放っていた。
「今はこの美しさを楽しもうよ。」
*** ***
公爵親子との一件の後は、すべてが満足のいく流れとなった。ベルノアが手を回してくれたのか、もう誰も疾風について話しかけてくる者はいなく、快適な寝床や細やかなサービス、素晴らしい料理、そして極上の温泉を心ゆくまで堪能できた。
レオンとアルは、2日目の夜、前日に予約しておいた『月夢の湯』という名の露天風呂に入った。月の宮殿にある数多くの大浴場の中でも最も有名なところで、人数制限があるため、宿泊客であっても事前に予約が必要だった。
天然の岩や石を使い、自然の雰囲気を最大限に生かして作られた湯船は、自然の景観と調和し、それだけでも美しかった。そのうえ、ところどころに光る球を持った美しい彫像が配置されており、柔らかな光で満たされていた。
「ここも素晴らしいな。なんで夜に来るべきだって言うのか、よくわかるよ。」
アルはぼんやりした顔で、ゆっくりと温泉に身を沈めた。
「そうだな。子どもの頃は、この辺りには近寄ることすらできなかったから、入ってみるなんて、考えたこともなかった。」
レオンは滑らかな感触の温泉の湯を指の間で弄びながら答えた。
「何か変じゃない?」
アルが首をかしげて、疑問を投げかけた。
「こんな素敵な離宮を、どうして宿泊施設として公開したのだろう? ブレイツリーって、相当な強大国だって聞いてるけど、資金に困ってるわけでもないだろうし。」
「そうだな。」
長い間、王の別荘として厳重に管理されてきた月の宮殿を、なぜ突然一般公開したのか。さまざまな憶測や噂はあったが、これといった定説はなかった。
「おかげで俺らみたいな人間もこんな贅沢を楽しめるんだから、ありがたいことだけどね。」
アルは首までお湯に浸かり、気持ちよさそうに目を閉じた。
レオンは、露天風呂の向こうに広がる森を見つめていた。生い茂る木々で満たされた森は一切の明かりもなく、静寂と暗闇だけが広がっていた。
レオンは何を思ったのか、露天風呂から出ると、腰にタオル一枚だけを巻きつけたまま森の方へ歩き始めた。
「レオン? どこ行くの?」
アルが気になって後を追った。
しばらく進むと木でできた壁が前を遮っていた。森側から露天風呂を覗いたり、人が行き来したりできないようにするための防壁のようだった。防壁の周りには大きな文字で書かれた警告板がいくつも設置されていた。力で防壁を壊そうとしたり、強い衝撃を与えたりすると、防御魔法が発動するという内容だった。
レオンは何かを探している人のように、防壁をじっと見ながら歩いていた。防壁は露天風呂を完全に囲んでおり、出入口のようなものは全く見当たらなかった。
「この防壁を越えて森の向こうに行けると思う?」
レオンが人の背丈をはるかに超える高さの防壁を見上げて尋ねた。アルは防壁の表面を調べて答えた。
「いや、防壁全体が特殊な魔法で処理されている。ここを無理やり突破しようとすると、強力な雷魔法が発動するよ。普通の人間なら即死だね。」
「やっぱりそうか。」
「それにしても、今何やってるの? 足の裏も痛いし、草に擦れて体がかゆいんだけど。」
アルが不満そうに呟いた。温泉に浸かっている途中で、タオル一枚の姿で森を歩き回るなんて、何事かと思ったのだ。
「ああ、ごめん。戻ろう。」
「いきなりどうしてこんなことするのさ?」
「何でもない。この森の向こうが、昔の家の裏の森と繋がってるのかなって思って。」
「それがどうしたの? まだ何か波乱万丈な話が残ってるの?」
「いや、そういうわけじゃない。」
レオンは何かを思い出したように妙な笑みを浮かべ、引き返した。