61. 欺瞞者アスモデス(3/3)
レオンたちは、フローラが作り出した地下空間で時間を過ごしていた。思ったより空気の通りが良く、ほのかに木の根の香りが漂い、息苦しさは感じなかった。ユニスが発光する魔法の玉を照明代わりにしていたので、暗さも気にならなかった。
アルは依然として苦しげにうめいて、身動きひとつ取れず、フローラも意識を失ったまま、目を覚まさなかった。アルの荷物から治療ポーションと回復ポーションを見つけ、応急処置として傷を癒し、ある程度の体力を回復させたものの、今のところは2人が目を覚ますのを待つしかなかった。
マックスボーンは欺瞞者の策略に引っかかってしまったことをひどく恥じ、何度も頭を下げながらレオンに謝罪した。 最初は『仲間を殺して金と宝石を独り占めしよう』と誘惑されたが、マックスボーンがそれに乗らなかったため、今度は山賊の襲撃によって故郷が滅ぼされ、家族や親しい者たちが無惨に殺される幻影を見せることで、彼の精神を蝕んでいったのだった。
キアンはひどく苦しげな顔で、謝罪の言葉を口にし、それからはフローラのそばを片時も離れず、ずっと看病し続けた。
フローラは悪夢でも見ているのか、青ざめた顔で身をよじらせ、時折体を震わせた。長い睫毛がかすかに震え、何かを言おうとするかのように唇がかすかに動いた。
キアンは彼女の言葉を聞き取ろうと身をかがめた。
「怖い。私だけ置いていかないで。死んじゃダメ、お願い…。」
かすれたすすり泣きが、乾いた唇の隙間からようやく漏れ出た。 恐怖と苦痛をこらえるように歪んだ顔。きつく閉じられた瞼から、静かに涙がこぼれ落ちた。
今までフローラが見せてきた明るく自信に満ちた姿を、キアンは漠然と彼女が影のない環境で育ってきた証だと考えていた。そんな彼女が、どこか羨ましくもあった。同時に、それは自分には決してまねできない、別の世界の人間だからこそ持ち得る輝きだと、そう思っていた。
しかし、欺瞞者が死んだ今もなお彼女を苦しめているこの悪夢は、欺瞞者が作り出した幻想ではなく、彼女自身が抑え込んできた暗い記憶のはずだ。この少女は、一体どれほどの悲しみと恐怖を経験してきたのだろうか?
キアンはそっと彼女の涙を拭い、フローラの手を握った。小さくて柔らかい手が、すっぽりと彼の手の中に収まる。
細い手首、華奢な腕、小さくて白い顔。フローラがこんなにも儚く、小さな少女だったことを、今さらのように実感した。
理性を失い、今まで自分を支えていたすべてを投げ捨て、崩れ落ちそうになったあの瞬間 ― 必死に自分の名前を呼ぶフローラの声が聞こえた。その声が、救いの光のように彼を現実へと導いてくれた。
(ごめん。僕は、君のそばにいる資格などない。だけど。』
キアンは唇を噛みしめ、フローラの手をそっと握り直した。少し力を込めるだけで壊れてしまいそうな、儚くて小さな手を握って、心の中で誓った。
(もう二度と迷わない。君を守れる人間になる。たとえ、君が二度と僕を振り向いてくれないとしても。)
*** ***
毛布にくるまれて、うんうんとうなされていたアルは、薄っすらと目を開けるなり、大粒の涙をぽろぽろと流した。
「うぅぅ〜、痛い! 全身の骨が全部砕けたみたいだ。 レオン、俺の手足、ちゃんとくっついてるの?」
「心配すんな。手足は無事についてるぞ。」
「嘘つくな! どこかが砕けたか、重傷を負ったんじゃなきゃ、こんなに痛いはずないでしょ!」
「身体強化と筋力強化を同時にかけたせいなだけで、ケガはしてないよ。痛みさえ引けば、元に戻るわ。」
横からユニスがそう言うと、アルは目を見開き、怒りをあらわにした。
「何だと? 一つじゃなくて二つも同時にかけたって? だから、こんな死ぬほど痛いわけだ! いったい俺が何したっていうんだ! あれをむやみにかけるなって、言っただろ! それに、魔法使いなら魔法で戦うべきなのに、どうして俺を肉弾戦に巻き込むんだよ!」
ユニスも負けじと言い返した。
「あの状況じゃ、魔法よりこっちの方がずっと効果的だったのよ。そのおかげで欺瞞者を倒せたからね。」
「え? あいつが欺瞞者だったの? 俺たちが倒したのか?」
どうやらユニスに振り回されるあまり、敵の正体すら気づいていなかったようだった。
「そうよ。すごいでしょ? アル、感謝しなさい。私がちゃんと欺瞞者に騙されないようにしてあげたんだから!」
「まさか、その『助ける』っていうのが、あれなの?」
アルは、片目鳥の目を思い出し、再び興奮した。
「はやくよこせ!」
ユニスに向かって腕をばたつかせるアルだったが、すぐに激しい筋肉痛に襲われ、レオンにしがみついて涙を流した。
「痛すぎる〜! レオン、代わりに復讐してくれ! 俺、欺瞞者よりユニスの方が怖いよ〜!」
「動くなって。まずは、じっと横になって休め。回復ポーションでも飲むか?」
泣きじゃくるアルをなだめるレオンだったが、その向こうでユニスが悪戯っぽい顔でクスクス笑いながら、黒い瞳が埋め込まれた魔石を2ついじっているのを見て、嫌な予感がした。
確か最初に出会った頃は、アルの方がユニスをからかってばかりだったはずなのに、いつから立場が逆転したのか、とも思った。
(今、知ったところで余計に騒ぐだけだ。)
そう思い、レオンは不憫なアルをそっと宥めた。
*** ***
長く苦しい夢の中からようやく抜け出し、目を開けたフローラが最初に見たのは、自分を覗き込むキアンの心配そうな瞳だった。
「大丈夫?」
フローラは小さく頷き、身を起こそうとした。
キアンは彼女を支えて座らせ、背中に毛布を当ててから、水を差し出した。
フローラはゆっくりと味わうように、少しずつ喉を潤していった。
「済まない。また君に負担をかけてしまった。」
キアンは姿勢を正し、フローラに頭を下げた。
今まで何度もフローラが機会を与えてくれたというのに、またしても情けない姿を見せてしまった。たとえ、彼女がもう以前のように自分を扱ってくれないとしても、受け入れるしかないと覚悟していた。
フローラは、そっとキアンの手の上に自分の手を重ねた。
「あなたの心の奥深くにある闇は、あなたのせいではないわ。」
キアンが顔を上げた。
目が合うと、フローラは真っ直ぐに彼の瞳を見つめて続けた。
「でも、これ以上その闇に振り回されてはいけない。それに屈することは、あなたの敗北であり、あなたの敵の勝利になるのよ。」
「分かっている。」
キアンはフローラの視線を逸らさず、強い決意を込めて答えた。
フローラは満足したように微笑んだ。そしてアイテム袋からポーションを取り出すと、飲み物を飲むように魔力ポーションや回復ポーションを次々と一気に飲み干し、何事もなかったかのように立ち上がった。そして、仲間方を向くと、傷を治し、回復術をかけていった。
*** ***
疾風のもとへ歩み寄ったフローラは、彼の活躍を称えつつ尋ねた。
「今回の功労者は間違いなく疾風ね。あなたがいなかったら、もっと長くて厳しい戦いになっていたはずよ。どうやって欺瞞者の策略を跳ね除けたの?」
疾風は飾らず率直に答えた。
「跳ね除けたというより、ただの勘違いの産物さ。あいつ、自分を神だとか言って近づいてきたからさ。」
「神?」
「そう。僕に、『君を創造した』とか、『愛している』とか、わけの分からないことを言ってきたから、カッとなって前脚で額を思いっきり叩いてやったのさ。」
「神ではないと、見抜いたの?」
「いや、そのときはそうなのかって思ってた。」
この言葉に、さすがのフローラも驚いた。
「神だと思いながらも、叩いたの?」
「当たり前だろう。だって僕を馬にしたじゃないか? なのに、偉そうに大層な恩恵でも与えたような顔をするんだから。」
疾風の素っ気ない言葉に、フローラは思わず吹き出した。
そばにいるマックスボーンは別の意味で感嘆した。
「神すら恐れぬ戦士の気概! さすが英雄戦士!」
(違うって、言ったでしょう。)
疾風は反論しようとしたが、その言葉は声にならなかった。こういう時に限って、声を出させない精霊王アオイデに、疾風は内心で睨みをきかせた。
アオイデはずうずうしく囁いた。
‒ 神すら恐れぬ英雄戦士! かっこいいじゃないか?
精霊王の性格がこんな調子なのを見ると、自分が馬にされたのも、性格がねじ曲がった神の気まぐれだったのではないかと、疾風は本気で疑い始めた。
欺瞞者の死体の前に立ったフローラは、じっとそれを見下ろしていた。身長は2メートルほど。上半身は長い黒髪を垂らした人間の姿をしているが、顔や体からは性別を判別することができなかった。両手には長さ10センチほどの血のように赤黒い長い爪が生えており、下半身は太いガラガラヘビの姿をしていた。
「私も、欺瞞者を解体した経験はありません。魔石が2種類もありますし、いろいろと貴重な素材が取れるので、迂闊に手をつけられません。このまま持ち帰って、ドワーフに解体を任せたほうがいいと思います。」
フローラの言葉を聞いて、レオンが提案した。
「それなら、ここからキベレまでは距離があるし、シエストに戻るのはどうかな? フローラも、アルも、そこでしっかり休んで回復したほうがいいだろう。解体はグーレンおじさんに頼めばいいし。」
「そうしよう。アルが回復するには、時間がかかりそうだし。」
ユニスが、いまだに唸りつつ寝転がっているアルを指さした。マックスボーンもキアンも賛成したため、一行はシエストへ戻る準備を始めた。
*** ***
欺瞞者の死体を毛布で丁寧に包み、アイテム袋に収納していたレオンが、ふとフローラに尋ねた。
「そういえば、欺瞞者から手に入るアイテムに〈欺瞞者のマント〉っていうのがあったよな?」
「はい。欺瞞者の髪の毛と皮で作ると聞いています。」
「それを使うと、どんな姿にも変身できるって話だけど、疾風にも効果があるかな?」
その言葉に、疾風の耳がピクンと動いた。
「さあ、どうでしょう。人間が使うとそうなるとは聞いていますが、疾風には。」
フローラは横目で疾風を見た。
「試してみないと、分かりませんね。」
可能性があると聞いた途端、疾風の期待感が風船のように膨らんだ。本当に人の姿になれるのだろうか?
― 無能な人間になるのが怖いって言ってなかったか?
アオイデが意地悪く問いかけた。
疾風は勝ち誇ったように笑った。
(アオイデさんがいるじゃないですか? 直接戦うのは無理でも、精霊術なら使えますし、どうにかなるでしょう。)
― 英雄戦士のイメージはどうするんだ?
(知りませんよ、そんなの。リュートでも弾いて、歌う吟遊詩人にでもなりますかね?)
― 我は英雄戦士の方がいいんだが?
(うるさいです! さっき欺瞞者が来たときは黙って消えていたくせに、全部終わってからしゃしゃり出てくるんですね?)
― 君は何も分かってないな。我の歌で君の精神を保ってやったおかげで、あいつにすっかり飲まれずに済んだんだぞ。感謝しろよ。だから、君は我の言う通り、英雄戦士として。
(聞こえない、あああ〜。)
疾風が頭の中でアオイデと口論を繰り広げている間に、フローラが術法を解除した。彼らを取り囲んでいた植物の根が素早く消えていき、元の地形へと戻っていった。
馬に乗る前に、フローラがレオンに尋ねた。
「もし疾風が人間になったら、レオンはどうするつもりですか?」
レオンは疾風の首元を軽く叩きながら答えた。
「寂しくなるけど、他の馬に乗るしかないな。」
「それでも大丈夫ですか?」
レオンは疾風の目を見つめて、にっこりと微笑んだ。
「友達だろう。望む道を進ませてやりたい。まあ、他の馬に乗るようになったら、今まで疾風のおかげで過大評価されていたのが、ちょうどいい具合にバレるだろう。」
「二人ともやめて。まだどうなるかもわからないのに、何をそんなに話し込んでる?」
疾風がわざとぶっきらぼうに言った。内心、レオンの言葉がとても嬉しかったが、口に出すのが何となく気恥ずかしかったのだ。
一行はそれぞれ馬に乗り、シエストへと向かった。
アルはまともに馬に座っていることすら難しく、タマの背中に跨らせ、縄と布を使って固定することにした。
「身体強化って、後遺症がすごいですね。」
マックスボーンが気の毒そうな目でアルを見た。
ユニスは少し申し訳なさそうに、はにかんで笑った。
「身体強化に加えて、筋力強化も同時にかけたから余計にね。状況があまりにも切迫していて、選んでる余裕がなかったです。
欺瞞者に隙を見せたら、すぐに反撃されるかもしれなかったし。」
「幻術って、実際にかかってみると、本当に怖いものですね。あのときは、あれが全部現実だと信じ込んでしまいました。
自分の体を傷つけて正気を取り戻すなんて、ヴァルラス卿は若いのにすごい精神力を持っていますね。」
マックスボーンは先を行くレオンを見て感心した。
ユニスが彼を慰めた。
「マックスボーンさんも、よく耐えたと思います。最初から欺瞞者に飲み込まれていたら、もっと危険な状況になっていたでしょう。心の闇が深く、隙が多いほど、あいつの餌食になりやすいと言われています。」
「ところで、ピートランド卿はどうして欺瞞者に飲み込まれなかったんですか? やっぱり魔法使いだから、そういうのに耐性が強いんでしょうか?」
マックスボーンの問いに、ユニスは黒い瞳が埋め込まれた片目鳥の目を取り出し、にっと片目をつぶってマックスボーンに身を寄せ、小声で言った。
「これを見せたら、他のこと全部忘れてましたよ。」
そして、内緒と言わんばかりに、指を自分の唇に当てた。
マックスボーンは笑いをこらえて、わかったとこくりと頷いた。




