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畜生脱出〜後は異世界冒険  作者: 星を数える
Ⅱ ブレイツリー
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2. 月の宮殿(1)

 ブレイツリー国王の別荘だった『月の宮殿』は、5年前、ブレイツリーがミレーシンを奪還した後、王室の管理下で宿泊・休養施設として一般公開された。


 本館と中央庭園付きの施設は宿泊費が高額で、貴族や裕福な商人でなければ利用が難しいが、外部の施設は比較的安価で、多くの人が利用できるようになっていた。


 初夏に差し掛かる時期で、本来であれば温泉地としての特性から閑散期に入るはずだが、『月の宮殿』の名声ゆえ、周辺の大通りは往来する馬車や人々で混雑していた。レオンとアルはゆっくりと馬を進め、『月の宮殿』に向かっていた。


 緩やかな坂道を登っていると、彼らの向かい側から荷物を積んだ馬車が下ってきた。御者台には若い男性と5〜6歳くらいの女の子が座っていた。女の子は隣の男性に楽しそうに話しかけながら、手に持つ人形を振っていた。


 そのうち、女の子の手から人形が滑り落ちてしまった。女の子は人形を取ろうと身を乗り出し、誤って下に落ちてしまった。御者台の男性が慌てて手を伸ばしたが、掴むことはできず、なんとか馬車の車輪を避けるように子どもを馬車の中央へ押しやった。


「伏せろ!」

 男性が必死に叫ぶと、女の子は反射的にその指示に従った。馬車ががたつきながら彼女の体の上を通り過ぎると、女の子は驚いた顔でようやく頭を上げた。


 しかし、その後ろから別の馬車が迫ってきていた。女の子は恐怖で体が動かなくなり、その場で固まってしまった。


「危ない!」

「どうしよう!」

 道端の人々がその様子を見て、一様に悲鳴を上げた。後ろの馬車の御者が女の子に気づいて驚き、馬車を止めようとしたものの、下り坂のため車輪が転がり続け、思うように止まらなかった。今にも馬の脚が女の子にぶつかりそうな瞬間だった。


 スパっと駆け出したレオンが、片手で手綱を握った状態で、体を完全に馬から離し、もう片方の腕で女の子の体を抱き上げた。レオンが女の子を抱き上げると同時に、疾風は馬車と衝突しないよう素早くその場を離れた。


 緊張して見守っていた人々の間から拍手と歓声が湧き起こった。少し先に止まった馬車からは、御者台に座っていた男性と若い女性が青ざめた顔で駆け寄ってきた。

「ミア!」


 レオンが疾風から降りて女の子を渡すと、子どもを抱きしめた女性はへたり込んで泣き出した。女の子もやっと緊張が解けたのか、声をあげて泣き始めた。男性は涙を拭いて何度もレオンに頭を下げた。

「ありがとうございます。本当にありがとうございます。」


「無事でよかったです。」

 若い商人夫婦は、娘を助けてもらったお礼がしたいと、何かを渡そうとした。


 レオンが遠慮しても、商人は荷台から小さな木製の酒樽を取り出し、どうしても受け取ってほしいと差し出した。


「これだけでも受け取ってください。娘を助けていただいたのに、何もせずにお別れするわけにはいきません。ミレーシン特産のお酒です。」


 そこまで断ることもできず、仕方なく受け取ることにした。酒樽をアルの馬タマに積むと、アルが少しジト目でレオンを見てぼやいた。


「危なかったよ、レオン。下手したら、君も疾風もひどい怪我をしてたかもしれないんだぞ。」

「ごめん。考える暇はなかったんだ。」


「まったく。お前も疾風も肝が据わってて、腕もいいけどさ。お願いだから、俺のためにももうちょっと気をつけてくれ。俺は長生きしたいんだから。」

「何だよ、それ。」

「知らなくていい。」


 酒樽をしっかり固定して、それぞれの馬に乗ろうとするレオンとアルの横を、後ろに止まっていた馬車が通り過ぎていった。前後には護衛の騎士を従えた、大きくて豪華な馬車だった。馬車の中からは銀灰色の髪をした少年が目を丸くして、レオンと疾風をじっと見つめていた。



「お父様、お父様! 起きてください! 今、すごい馬を見ましたよ!」

 馬車の中でぐっすり眠っていたスティアーズ公爵は、息子のクリスに激しく揺り動かされて、仕方なく目を開けた。


 クリスは窓から馬車の外に身を乗り出して興奮していた。


「何だ、どうしたんだ?」

 やや不機嫌そうに問うと、クリスは外を指差した。

「ほら、あれを見てください!」


 クリスの催促に負けて、スティアーズは仕方なく体をひねって窓の外を見た。遠くに疾風とレオンの姿が見えた。

「素晴らしい馬だな。」


 少し距離は離れていたが、疾風の姿はすぐに彼の目を引いた。眠気が一気に吹き飛ぶような感覚だった。


「でしょう? 本当にすごい馬なんです!」

 クリスはさっき見た光景を興奮気味に説明した。


「ふむ。馬も確かにすごいが、あの騎士の腕もなかなかのものだな。あのような状況では、普通はバランスを崩して馬から落ちるだろうに。」

 スティアーズは興味深そうに呟いた。


「騎士のことなんて、どうでもいいです! あの馬をちゃんとご覧になりましたか? 本当に素敵な馬です。お父様にぴったりの馬なんです!」

 クリスは名残惜しそうに、疾風の姿が見えなくなるまでじっと見つめていた。


 *** ***


 月の宮殿に着いたレオンとアルは、海賊船討伐の報奨金を使い、豪華にも本館に宿泊することにした。


「月の女神だ〜!」

 3日分の宿泊費を前払いした後、中央庭園の入口に足を踏み入れるやいなや、アルは子どものようにはしゃいで、本館前の噴水の方へと駆け出した。


 本館の正面に広がる中央庭園の真ん中には大きな噴水があり、そこには乳白色の大理石で彫られた月の女神の彫像が置かれていた。


 横目で視線を向けて空に顔を少し傾け、一方の手を高く掲げた姿で、細い三日月に軽やかに腰掛けた女神の姿は、妖艶で美しかった。女神の体を包むように柔らかくひるがえる布は、今にも空に舞い上がりそうで、生き生きとしていた。この彫像こそが、ここが『月の宮殿』と呼ばれる理由でもあった。


「本当に美しいな。古代帝国の遺物だっていうのも納得だよ。」

 アルは目が離せず、噴水の周りをぐるりと回りながら、女神の彫像に熱い視線を送っていた。


 そんなアルに、彫像を鑑賞していた他の男性が話しかけてきた。

「実に素晴らしいですよね。何度見ても驚嘆してしまいます。あまりに魅力的で、かつてカリトラムが撤退する前に、この女神像を持ち去ろうとしたそうです。」


「えっ? そんなことがあったのですか?」

「ええ。でも、神の怒りに触れたのか、この彫像に手をかけた途端、ここ一帯の土地が揺れだして、慌てて撤退したと言われています。」


「さすが古代の宝物!」

 噴水の前で一向に立ち去る気配を見せないアルに、レオンが手を振って呼びかけた。

「アル、疾風とタマを馬小屋に入れて、荷物を解こう。月の女神はあとでゆっくり鑑賞すればいい。」


「あっ、そうだね。」

 アルは、名残惜しそうに彫像から離れ、本館の裏手にある馬小屋へ疾風とタマを連れて行った。途中で、人々の視線が彼らに注がれているのが感じられた。正確には、疾風に向けられた好奇心と感嘆の眼差しだった。


「あの馬、何だ? すごいな。」

「もしかして、今回エレンシアで優勝したっていうあの。」

 あちこちで人々がひそひそと囁いていた。


(もう噂がここまで広まっているのか?)

 アルは、疾風を大陸の人々から守らねばならないという使命感を改めて胸に刻み、拳をぎゅっと握りしめた。



 月の宮殿に来ても、疾風は当然のように馬小屋でタマと並んで牧草を噛んでいた。

(温泉に来たって、結局は馬小屋だもんな。ああ、この馬生。)


 気分が沈み、牧草をもぐもぐしている疾風の隣では、タマがここの牧草は味も香りも口に合うと楽しそうにしていた。


(いいな。考えが単純で。)

 動物にも好き嫌いや、楽しさや喜び、怒りや恐怖といった感情があり、同じ動物同士である程度コミュニケーションを取ることもできた。ただし、人間のように深く具体的な思考や概念は持っていなかった。


 疾風は孤独だった。タマとはニンジンや牧草の味とか、誰が好きで、誰は嫌いだとか、今日は疲れた、もうすぐ雨が降りそうだといったくらいのことしか話せなかった。温泉について説明して未練をこぼしたときも、タマはほとんど理解していない様子だった。


 獣の身体に人間の知性―どう考えてもそれは罰に近いもののように思えた。

(私が一体何をしたっていうのよ?)


 長い間、押し殺してきた怒りが再びこみ上げてきた。前世で見た数々の異世界ものでは、どんな形で死を迎えるにしろ、異世界でチートを授けられて順調に成長し、華やかな異世界ライフを送っていた。だが、自分は人を助けて死んだのに、せいぜい馬に生まれ変わるなんて。


 もちろん平凡な馬ではないが、所詮馬は馬で、今やりたいこともできず、目的地すら自由に選べない身だった。


(魔法使いに会ったら、何とかなると思ったけど、それも駄目か。魔法使いもいろいろみたいだな。アルは攻撃魔法の専門で、こういう分野は門外漢みたいだし。

 大賢者級の魔法使いくらいじゃないと、ダメかも。ところで、大賢者って、一体どこにいる? 会えばすぐに分かるものなのか? 額に『大賢者』なんて書いてあるわけでもないだろうし。)


 そんな考えにふけっていると、目の前で何かがチラチラ動いていた。下を見下ろすと、12歳くらいの少年が長い棒を持って疾風の目の前で振り回していた。


 疾風の注意を引こうとしていたのか、疾風がその少年を見つめると、少年は棒を下ろして疾風の目をじっと見上げ、こう言った。

「お前、さっき見たあいつだろ?」


 疾風は何のことか分からず、少年をじっくり観察したが、記憶にはない顔だった。

(気分が滅入ってるのに、今度は何?)

 疾風は苛立ち、冷淡に顔をそむけた。


 クリスはつばをゴクリと飲み込み、疾風にぐっと近づいてきた。

「クリス坊ちゃん、危ないので、そんなことをなさらないでください。下手をすれば怪我をしますよ。」

 召使らしき男性が驚いてクリスを引き止めた。


「坊ちゃんの馬はあちらにおります。」

「僕はこの馬が気に入った。」


「この馬には、持ち主がいますよ。坊ちゃんの馬にお乗りください。」

「乗るのは僕じゃない。この馬には父上が乗るべきだ。この馬の持ち主は誰だ?」

 クリスは馬小屋の担当者を探した。


 クリスの前に現れた馬小屋の担当者は、困った顔をして手をもじもじさせながら答えた。

「坊ちゃん、この馬を買うのは、たぶん難しいと思います。この馬はエレンシアから来た客人の馬でして、ブレイツリーのものではありません。」


 すると、クリスは突然怒り出し、大声で叫んだ。

「僕が買うと言ったら、買うんだ! 僕の父上は王位継承権第2位であり、ブレイツリー王国最高の騎士、スティアーズ公爵だぞ! 父上こそ、この馬にふさわしい持ち主だ! すぐに父上にお話しして、この馬を買うぞ!」

 そう言い放つと、クリスは馬小屋を飛び出して行った。


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