60. 欺瞞者アスモデス(2/3)
レオンは、ニヤニヤと笑みを浮かべるジャクストンと対峙していた。
その背後には、意識を半ば失ったレイナが無残な姿で横たわっていた。ズタズタに裂けた服と、青黒く腫れた腕がレオンの視界に痛々しく映る。
「よう、坊主。母親を守るつもりか? ほら、かかってきなよ。」
ジャクストンは嘲笑を浮かべて、レオンを挑発した。ヤツが手にした長剣が、窓から差し込む月光を反射して不気味に青白く輝く。
やつれた顔のレイナが、弱々しく首を横に振った。血で赤く染まった唇が、かすかに動いた。
「レオン、ダメ…。」
声にはならなかったが、彼女が何を伝えようとしているのかはわかった。
顎がガタガタと震え、剣を握る両手も小刻みに揺れているのが自分でもわかった。レオンは奥歯を噛み締め、両手に力を込めた。
(殺さなきゃダメだ。ここで、あいつを殺さないと。)
ジャクストンを睨みつけるレオンの目に、殺気が滲み始めた。剣を握りしめ、一歩踏み出したその瞬間―奇妙な既視感を覚えた。まるで、かつて同じことを経験したかのような感覚だった。
レオンは急いで自分の体を確認した。剣を持つ手―それは大人の手だった。瞬きをしてもう一度見ると、それは小さな子供の手に戻っていた。
「坊主、かかってこないのか?」
ジャクストンが黄ばんだ歯をむき出しにしながら笑った。今にも襲いかかってきそうな威圧的な構えで、彼が剣を振り上げた。
考えている時間はなかった。レオンは左手で腰の短剣を抜き、迷わず自分の太ももを突き刺した。鋭い激痛が他の全ての感覚をかき消し、まるで白昼夢から目覚めたかのように、目の前の光景が変化した。
ジャクストンも、レイナも、どこにもいなかった。
「よくやったわ、レオン。欺瞞者よ!」
向こうからユニスの声が聞こえた。彼女の後ろでは、アルが両腕を振り回して、必死に追いかけていた。
一方では、フローラがキアンを後ろから抱きしめ、彼の動きを封じていた。
「なんてこと!」
フローラのもとへ駆け寄ろうとした瞬間、ユニスが再び叫んだ。
「後ろに気をつけて!」
レオンの頭を狙い、マックスボーンが荒々しくメイスを振り下ろしてきた。レオンは身をひねって攻撃をかわし、地面に落ちていた盾を拾い上げて続く一撃を受け止めた。
「うおお〜、この山賊どもめ! 皆殺しにしてやるぅ〜!」
目を真っ赤に染めたマックスボーンが、無差別に盾とメイスを振り回しながら襲いかかる。真正面から攻撃するわけにもいかず、レオンは防御しつつ、後退するしかなかった。
*** ***
疾風は、先ほどから不気味な沈黙に陥った仲間たちを不安げに見つめていた。
(アオイデさん、今何か起こってますよね?)
― ふむ、欺瞞者だな。
(欺瞞者って、えっ!? それ、どうにか防げないのですか? 音波とか、何かで!)
― 領域が違う。精神系の攻撃に関しては、上級魔族に匹敵するレベルの相手だ。
(そんなに強いんですか!? じゃあ、どうすれば?)
― みんながなんとか耐えてくれることを祈るしかないな。他人への影響はどうにもできないが、君だけでも影響を軽減させる試みはできる。
そう言って、アオイデは疾風の頭の中に音楽を流し始めた。
映画『マトリックス』のエンディングで流れる『Rage Against The Machine』の『Wake Up』だった。激しいビートが疾風の頭をかき乱す。
(ちょっと待って、何してるんですか? 僕、この曲好きじゃないんだけど。)
― 今の状況にぴったりだろ? さあ、欺瞞者が来るぞ。気をしっかり持てよ。疾風、ファイト!
応援なのか、からかっているのかわからない言葉を残し、アオイデの声は消えた。
頭の中で『Wake Up』が流れる中、疾風は不安げに周囲を見回した。
だが、何も起こらなかった。仲間たちは普段通り会話を交わし、それぞれの作業を続けていた。マックスボーンとレオン、アルは馬の世話をし、ユニスは道具箱を覗き込んで座っている。キアンとフローラは調理器具を片付けていた。
(なんだったんだ?)
疾風は首を傾げた。
さっきまでアオイデと何か話していた気がするのに、内容をまったく思い出せない。
(それに、この曲は。何なの?)
なぜ頭の中でこんなうるさいロック音楽が鳴り響いているのか、疾風にはまったく分からなかった。
(アオイデさん、この音楽、何ですか? なんでこんなのを流してるんです?)
アオイデに尋ねたが、なぜか返事がなかった。
(まったく、必要ない時にはベラベラ喋るくせに、なんでこういう時に黙るんだよ?)
そう思った瞬間、視界が突然、まばゆい光で満たされた。
神聖で荘厳な気配を漂わせる白い光の中から、何かのシルエットがゆっくりと姿を現した。どこかで見覚えのある、長く引きずる白い衣をまとった光り輝く存在が、光の中に立っていた。
限りない慈愛と愛に満ちたまなざしで、彼は言った。
「疾風、我が愛しき被造物よ。我こそが、汝にこの姿と力を授けた者なり。」
疾風は目を大きく見開き、彼を真っ直ぐに見つめた。
「ま、まさか。」
「そうだ。我こそが汝を創造した者である。」
彼は慈悲深い表情で両腕を広げ、疾風へと歩み寄った。
「疾風、愛しき―」
その瞬間、疾風がギリリと歯ぎしりしながら叫んだ。
「ちょうどよかった! この姿にした張本人があんただってわけか!?」
怒りに燃えた疾風は、ボクサーのフックのように身をひねりながら、前脚をまっすぐ突き出し、強烈な一撃を放った。疾風の蹄が、見事に彼の額へとバシィッ!と音を立てて直撃した。
「ぐはぁっ!」
予想だにしない事態に、避ける間もなく直撃を受けた欺瞞者は、後方へごろごろと転がり、そのまま地面に大の字で倒れ込んだ。
時を共にして、キアンの体から力が抜け、フローラはその隙を見逃さず、欺瞞者に向かって術を放った。
「束縛と隷属のフローラ!」
欺瞞者の下から生い茂る蔦が勢いよく伸び、彼の体をグルグルと絡め取っていった。
そうしている間に、意識を取り戻した欺瞞者が立ち上がろうとした。
焦ったフローラは、すかさずアルとユニスに叫んだ。
「アル、ユニス、手伝って! 早く押さえつけなきゃ!」
フローラの声を聞いたユニスは、勢いよく振り向くと、アルの頬を思い切りひっぱたいた。顔が横に吹き飛ぶほどの衝撃に、アルは驚いて正気を取り戻した。
「アル、あいつを押さえて!」
「わ、わかった!」
ヒリヒリする頬をさすり、アルは欺瞞者に向かって魔法を放とうとした。
アルに近寄ったユニスが、彼の方をポンと叩いた。
「身体強化。筋力強化。」
すると、アルの体が白く輝き始め、その身体がみるみる膨れ上がっていった。全身の筋肉がボコボコと盛り上がり、あっという間に体格が巨大化し、彼のローブが破れ飛んだ。
下に着ている半ズボンはとっくに弾け飛び、両サイドも裂け、なんとかギリギリ大事な部分だけは隠れていた。
「えっ? ハルクだ。」
その様子を見ていた疾風が思わずつぶやいた。
「早く行って、あいつを押さえつけて!」
ユニスがそう言うや否や、アルは自分の意思とは関係なく、欺瞞者に向かって猛然と走り出した。
「えっ? 足が勝手に!うわっ、止まらない!」
アルは慌てた声で叫び、ものすごい速度で欺瞞者に向かって突進した。そして、プロレスラーのように、両腕を広げて体ごと飛びかかると、フローラのツルを引きちぎって立ち上がろうとする欺瞞者の胴を押さえつけた。
その間に、ユニスは笛のような道具を取り出し、レオンを攻撃しているマックスボーンの背中に毒針を放った。すぐにマックスボーンの動きが鈍り、地面に崩れ落ちた。
「麻痺毒だから安心して。」
ユニスが言った。
倒れたマックスボーンは悪夢を見ているのか、体を震わせて苦しんでいた。レオンは、マックスボーンの首筋を軽く叩き、気絶させてその苦しみから解放してやった。
「今です、レオン!」
フローラの叫びに、レオンは剣を抜き、欺瞞者に向かって駆け出した。通常なら心臓を狙うのが定番だが、今はアルが欺瞞者の体を横から押さえつけているため、レオンは奴の額を狙った。
「普通の剣では我を倒せないぞ!」
欺瞞者が目をギラつかせて大声で叫んだ。
「ヴルカスの剣なら話は別だ。」
レオンは両手で剣をしっかりと握り、闘気を込めて全身の力を込めて振り下ろした。鋭い剣気を帯びた刃先が、ヤツの硬い額にぶつかり、そこで止まった。刃先がそれ以上食い込まずに、弾かれてしまった。欺瞞者は今にも身を起こそうとしていた。
レオンは歯を食いしばり、全身の力と精神を剣に注ぎ込んだ。闘気を帯びた剣身が青白く輝き、刃先が少しずつ食い込んでいく。そしてついに、ミシッという音とともに、深く突き刺さった。
欺瞞者は恐ろしい悲鳴を上げて身をよじり、そして絶命した。
レオンは欺瞞者の死を確認すると、剣を引き抜き、素早く振って血と脳漿を払い、鞘に納めた。戦闘の緊張のせいで忘れていた太ももの痛みが一気に襲ってきた。
欺瞞者を押さえつけていたアルは、悲しげな声を漏らしていた。
レオンは足を引きずりながらも、アルの体を持ち上げようとしたが、予想以上の重さに驚いた。まるで巨大な岩のようにずっしりとしていて、びくともしなかった。
ユニスがやって来て、アルの隣にしゃがみ込み、アルの体を軽く叩いて言った。
「身体強化と筋力強化をかけたからだわ。欺瞞者を押さえつけるには、それくらいの重さが必要だったの。」
「なるほど、それで筋肉が。」
レオンは、異様に膨れ上がったアルの筋肉を興味深そうに見下ろした。風船から空気が抜けるように、膨らんでいた部分が少しずつ萎んでいき、筋肉は元の状態に戻っていった。
「普通はここまでにはならないけど、アルは普段体を鍛えてるからか、効果が違うね。」
ユニスは、ほぼ全裸に近い状態でうつ伏せになっているアルの姿に、気まずそうな表情を浮かべつつも、思わず笑ってしまった。
「もう効果が切れたから、運んでもいいわよ。」
「このまま運ぶのはヤバイかもな。」
今にも外れそうな下着の残骸を見て、下手をすれば、アルの黒歴史がまた増えてしまうと感じたレオンは、まず焚き火のところに行って、そこから毛布を取ってきた。それをアルの腰にしっかりとかけてから、彼を欺瞞者の体の上からどかしてやった。
その時、ふらつきながら彼らに近づいてきたフローラが口を開いた。かなり疲れているのか、言葉が途切れ途切れだった。
「今の私たち…このままでは危険です。誰か、悪い人にみつかったら、やられてしまいます。…だから、ここでしばらく、隠れていることにしましょう。」
フローラは深く息を吸い込むと、懐から何かを取り出し、地面に投げた。それはまるで植物の種のように見えた。
彼女が目を閉じ、両腕を下に広げたまま呪文を唱えると、種から芽が出て、無数のツルが瞬く間に絡み合いながら成長していった。同時に、木の幹のように太く丈夫な根が、蛇のようにうねりながら地面を掘り進んでいった。それはみんなの足元にまで伸び、彼らの体を支えつつ、猛烈な勢いで地面を削り、掘り下げていった。やがてレオンたちの周りには、無数の太い木の根が絡み合い、巨大な円形の地下空間ができあがった。
さらに、頭上にも根が絡まり合いながら伸び、密集して天井を形成し、最終的には完全に外を覆い隠してしまった。
術が完成すると、フローラは力尽きたように、その場に倒れ込んでしまった。




