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畜生脱出〜後は異世界冒険  作者: 星を数える
Ⅲ 混沌の地
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59. 欺瞞者アスモデス(1/3)

 欺瞞者アスモデウスは、彼なりの方法で人間を愛する魔獣だった。人間ほど彼に満足感と喜びをもたらす存在はなかった。彼らの貪欲、疑念、不安、恐怖は、何よりも美味な餌であった。


 彼は、自分が何者なのか、なぜこの混沌の地を目的もなく彷徨(さまよ)っているのか、知らなかった。彼が知るのは、虚無と、果てしなく口を開け続ける飢えと渇きだけだった。それを満たす唯一の手段は、人間を欺き、対立を煽り、破滅へと導くこと。その瞬間だけが、生を実感させる歓喜と快楽をもたらしてくれた。


「最近は面白いことがないな。簡単すぎて、やる気が出ないよ。」

 精神が崩壊し、錯乱状態に陥り、よろめきながら遠ざかる一人の生存者を見つめ、欺瞞者は退屈そうに呟いた。彼はいつも獲物の中から一人を生存者として残しておいた。自身への恐怖を植え付けるためだった。人々の間に彼の噂が広まり、恐怖が増せば増すほど、彼の力は強大になった。


「しばらくはこの辺りに、人間が寄りつかなくなるだろうな。さて、次はどこへ行こうか。」

 欺瞞者は三叉の舌をちらつかせ、湿地をゆっくりと横切った。


        ***      ***


 丘の森の外れにある平地では、一団の人々が焚き火を囲んで集まっていた。誰もが荒々しく、険しい雰囲気を漂わせていた。


「恋人の心臓をバイアフで売ったなら、相当な大金を手に入れたはずだな。」

「少なくとも、キベレの大金貨3000枚は軽く超えているだろう。」

「いやあ、久しぶりに大きな獲物がかかったな。」


「でも、本当に6人だけか? まさか人数をごまかしているんじゃないだろうな?」

「決して侮れる相手じゃないぞ。聞いた話じゃ、火の鳥を仕留めてもみな無傷だったらしい。騎士2人がサイコロ勝負で上着を脱いでいたが、火傷の跡すらなかったそうだ。」


「すごい回復術士でもついていたのか?」

「光明神の神官だとか。まだ若い貴族の娘らしい。」


「魔法使いは?」

「体格のいい若い男だ。戦闘力も相当なものらしい。ああ、それと従者が一人いて、盾兵のようだ。体格も良く、なかなかの腕前に見えるとの話だ。」


「まあ、いいさ。とにかく戦利品は平等に分けるぞ。後になって文句を言うなよ。」

「何言ってやがる? 情報を掴んでここまで追ってきたのは俺たちだ。当然、取り分は俺たちの方が多くなるべきだろう。」


「どうせ、お前らだけじゃ自信がないから、俺らを呼んだんだろ? 俺たちなしじゃ襲いかかる度胸もないせに。」

「何だと? 貴様らだって大して変わらねえだろ!」

 両者は取り分を巡って唸り声を上げながら、激しく火花を散らしていた。



 欺瞞者は平たい岩に腰掛け、彼らの様子を観察していた。

「戦士8人、ハンター3人、魔法使い2人、邪教の司祭一人、弓使い2人。合わせて16か。二つの群れが手を組んで、何か企んでいるようだが。 退屈な無法者どもめ。」


 欺瞞者は倦怠そうな目をして、口が裂けるほどの大あくびをした。金になれば何でも手を出す無法者は、あまりにも単純な獲物だった。簡単すぎて食指が動かないほどだった。


 人間の中でも最も下賤な部類に属する彼らは、取るに足らない利益にもいとも簡単に仲間を裏切り、わずかに疑念を吹き込むだけで、互いの不信感に火がつく。たまに、持ちこたえる一、二人を除いては、手を下すまでもなく自滅していった。


「こいつらは放っておこう。ゴミを燃やしても、臭いがするだけだからな。」

 無法者たちに興味を失った欺瞞者は、新たな獲物を求めて動き出した。


     ***    ***


「騎士2人、従者一人、森のエルフの弓使い一人、魔法使い一人、光明神の神官らしい得体の知れない女一人、そして妙な馬が一頭。」

 欺瞞者は、遠くから感じ取った新たな獲物の構成を、まるで歌うように口ずさんだ。


 くんっ。彼は突然、大きく鼻を鳴らし、何かを嗅ぎ分けようとした。

「あの女、白き魔女ではないはずだが、なぜか似た匂いがするな。」


 白き魔女は、欺瞞者が唯一忌避する存在だった。会いたくない相手は他にも二つあった。ドラゴンと、彼が〈白杖の男〉と呼ぶ者だった。その二者は、わざわざ欺瞞者に関わろうとはしないため、適当に避けていれば問題なかった。だが、白き魔女だけは、欺瞞者を殺しにかかる可能性があった。


 エルフもまた、欺瞞者にとっては厄介な存在だった。ちょっとした誘惑にも容易く揺さぶられ、隙を見せる人間とは違い、エルフには精神に働きかける攻撃がほとんど通じなかった。ただし、エルフ自身が影響を受けないだけであり、周りの人間が堕ちるのを防げるわけではなかった。


 ほとんどのエルフがそうであるように、あのエルフもまた、仲間の醜悪な本性が露わになった途端、激しい嫌悪に駆られ、その場を捨てて去ることだろう。


 もともと欺瞞者が最も好む手口は、人間の群れに紛れ込み、彼らを仲違いさせ、操ることだった。単独または複数の人間に化け、助けを求めるふりをして潜り込むか、一行から一時的に離れた者を惑わし、精神を支配したうえで、仲間に紛れ込むのが常套(じょうとう)手段だった。


 しかし、今回はあの得体の知れない女のせいで、その方法は断念せざるを得なかった。すぐに見破られ、逆に危険な状況に陥る予感がしたのだ。


 だからといって、諦めるつもりはなかった。目的もなく意味なき退屈に苦しむ彼の人生は、刺激的な出来事に対して激しく反応する。


 人間の知性を持ち、精霊王と契約を交わした馬―それは今までにない興奮と挑戦心を呼び覚ました。


「あの馬はきっと、神に愛される存在なのだろう?」

 神の意志を奉じる聖職者や、特別な祝福を受けた者を堕落させる楽しみは格別だった。ましてや、それが人間ではなく、馬の姿をしているとは。


 あの大きく優雅な獣が狂乱し、人間たちを踏み潰して暴れ回る様子を想像するだけで、たまらなく心が躍った。

「さて―始めようか。」


 欺瞞者は邪悪な笑みを浮かべると、7つの姿へと分かれた。それらは一つでありながら、同時に7つでもあった。一般の分身とは異なる、完全に統一された存在―それが欺瞞者の本質だった。相手が何人であろうと、欺瞞者は常にすべてを同時に攻め立てた。


     ***    ***


(何だこれは? この深く、硬く閉ざされた闇は。)

 欺瞞者は、フローラのことを探るうちに、首をかしげた。


 この女の記憶と心には、確かに濃密な闇が存在していた。だが、その闇はあまりにも深く、そして頑丈に閉ざされていて、入り込む隙間がまるで見えなかった。


 やがて欺瞞者の目が妖しく輝いた。

(見つけたぞ。闇の裂け目!)


      ***     ***


「リエラ! リエラ、早く起きて!」

 焦った声が耳元で響き、誰かの手がフローラを揺さぶって目を覚まさせた。


(リエラ? その名前を知っているのは。師匠?)

 うっすらと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、12、3歳ほどの少女の顔だった。


「セティア姉ちゃん?」

 セティアは怯えた表情を浮かべて、何度も窓の方を横目で見やった。そして、急いでフローラの体を抱き起こした。


 窓の外からは、轟音とともに何かが崩れ落ちる音、爆発音、人々の悲鳴が入り混じって響いていた。

「早く、ここを出ないと!」

 セティアはそう言って、フローラの手を取り、部屋を飛び出した。


 ちょうどその時、一人の男が二人の前に駆け寄ってきた。セティアはその男にフローラを託した。

「ジートおじさん、リエラを連れて、ひとまず避難してください。」


「セティアお嬢さんは?」

「私は母様のところへ行ってみます。」


「お姉ちゃん、一緒に行こう!」

 異様な雰囲気に怯えたフローラが、泣きそうな声で手を伸ばすと、セティアは無理に笑みを作って見せた。

「大丈夫。すぐにお母さんと一緒に追いかけるから。」


 セティアが廊下の向こうへ駆け出すと、ジートはフローラをひょいと抱き上げ、そのまま反対方向へと走り出した。


 階段を降りようとした瞬間、下の方から武器を持った者たちが駆け上がってくるのが見えた。

「女の子だ、捕まえろ!」

 彼らが叫んだ。


 ジートは即座に踵を返し、片手で爆裂魔法を発動させて壁を吹き飛ばし、勢いよく外へと飛び降りた。


「早く追え!」

「子供は絶対に傷つけるな!」


 フローラを抱えたまま、ジートは片手で炎の球を次々と作り出し、追っ手に向かって放ちながら走り続けた。小さな村は地獄絵図と化しており、あちこちから悲鳴が響き渡っていた。


「ぐっ!」

 ジートのうめき声に、フローラははっと顔を上げた。彼の肩に一本の矢が突き刺さっていた。


 フローラは震える手を伸ばし、彼の腕に触れた。すると、彼女の手から白い光が広がり、矢が自然と抜け落ちるとともに、傷口がみるみる塞がっていった。


 いつの間にか、二人は暗い森の中へと逃げ込んでいた。背後から迫る追跡者たちの声が、すぐそこまで聞こえてくる。


「こっちだ!」

「捕まえろ!」

 フローラを抱えたジートの呼吸は、すでに荒れきっていた。


 このままでは、彼が倒れてしまったら。そうなれば、すぐに追っ手に捕まってしまう。

 恐怖に震えていたフローラは、突然、自分の唇を強く噛み締め、目を大きく見開いた。


(これは現実じゃない! ずっと昔に起こったことよ! 私は今。)

 自分にそう言い聞かせ、フローラは口を開いた。

「欺瞞者!」


 その瞬間、ジートの口から聞き慣れない声が漏れた。

「チッ、もう気づいたのか?」


 フローラは両腕に力を込めた。彼女の全身からまばゆい白い光が溢れ出ると、欺瞞者は素早く彼女から飛び退いた。


「フフフ、やはり光明神の神官だな。」

 欺瞞者は長い三つ叉の舌をちらつかせると、スッと姿を消した。



 フローラはすぐに辺りを見渡した。

 キアンの様子がおかしかった。深い悲しみに沈み、絶望的な表情で虚空を見つめている。その瞳から、涙が静かに流れ落ちていた。


「うああああぁぁぁ……!!」

 突然、狂ったように叫ぶと、彼は腰に手を伸ばして、剣を抜こうとした。


 考える余裕もなく、フローラはキアンの背後からしがみつくように抱きしめた。キアンが激しくもがき、振りほどこうとする。その力は凄まじく、今にも腕が引き千切れてしまいそうだった。それでも、フローラは全身の力を振り絞り、必死に耐えた。


「キアン、キアン、しっかりして! それは現実じゃないの!」

 彼の耳元で必死に囁いた。だが、その声はキアンには届いていないようだった。


「うああああぁぁっ!」

 キアンが全身を激しく揺さぶると、フローラの腕がほどけそうになった。フローラは歯を食いしばった。


「ダメ! キイス、お願い!」

 このままでは、キアンの精神が崩壊してしまうかもしれない。

 フローラの体から、眩い白い光が放たれた。


    ***      ***


(姉上が、亡くなられた?)

 キアンは呆然と立ち尽くし、虚ろな目で正面を見つめていた。


 彼の目の前には、血まみれで床に倒れたアデルがいた。純白のドレスを真っ赤に染めたまま、冷たく横たわる彼女の白い顔。焦点の合わない紫の瞳が虚空を見つめ、その死を如実に物語っていた。


「女王を殺したのは、あの者だ!」

「大公が女王を手にかけた!」

「呪われた血筋め!」


「陛下があれほど(かば)い守ってくださったのに、どうしてそんなことを!」

「夫である先王を毒殺しただけでなく、自ら産んだ子までも手にかけようとした女の息子だ。血筋同士で殺し合う呪いにでもかかっているのだろう。」


「貴様のような者が、王族の一員になれるはずがない!」

「あの女にそっくりな、その赤い瞳。見るだけで虫唾が走るわ。」

 呪詛と憎悪、悪意に満ちた罵倒の数々が、魂を引き裂く刃となって響き渡った。


「僕が姉上を殺しただと?」

 キアンは奥歯を噛み締めた。


「今まであれほど執拗に僕を狙っておきながら。今になって、僕が姉上を手にかけたと? そう信じたいのか? それとも、そうであってほしいと願っているのか?」


 キアンの目の奥に赤黒い血のような光が宿り、ぞっとするような狂気が全身に広がっていく。

「貴様らの承認など、求めた覚えはない! 姉上を殺した奴らは、一人残らず地獄へ引きずり込んでやる!」

 血を求める狂気が彼を包み込んだ。


      ***      ***


 焚き火の前で道具箱を(いじ)っていたユニスは、少し前から奇妙な違和感を覚えていた。


 周囲をちらちらと見渡すと、さっきまで談笑していた仲間は、いつの間にか静まり返り、それぞれが自分の考えに没頭しているように見えた。何とも言えない、不快で不吉な空気が漂っていた。


 アルをじっと観察していたユニスは、彼の瞳が妙に変化していくのを敏感に感じ取った。目がぎらつき始め、今まで見たことのない異様な光が宿っている。彼女の知るアルの瞳には、決して存在しないはずの、ぞっとするような冷たい狂気。


(もしかして、欺瞞者?)

 ユニスは素早く小石を拾い、アルの額に向かって勢いよく投げつけた。


「痛っ!」

 アルは夢から覚めたようにビクッと驚き、顔を上げた。


 ユニスはすかさず片目の鳥の目を取り出し、アルの映像を再生した。袖なしのシャツと半ズボン姿で大魔法を発動している自分の姿を見て、アルは目を見開いた。

「えっ、それ!」


 アルが立ち上がると、ユニスはニヤリと笑い、魔石をヒラヒラと揺らして見せた。

「捕まえられたら、これをあげるよ。」


「この野郎、早く返せ!」

 魔石に気を取られたアルは、欺瞞者の誘いも何もかも頭の隅に追いやり、ムキになってユニスに飛びかかった。


 ユニスは楽しそうに笑って、素早く身をかわした。

(とにかく、アル一人でも正気を保たせなきゃ。この先は、フローラ、レオン、マックスボーンの奮闘に期待するしかない。)


 ユニスは焦りを感じながらも、残る仲間たちを横目で確認しつつ、アルを翻弄し続けた。



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