1. レオンの故郷ノクシ
海賊船を撃退した後、船は元の航路に戻った。アルは丸一日ベッドから出られず弱りきっていたが、体を起こすと、すぐにエレンシア人らしく愛馬のタマに会いに馬小屋へ降りてきた。
「タマ、この前は驚いたよね? 俺がいなくて寂しくなかった?」
青白い顔のまま、タマの額や鼻筋に何度もキスをするアルの隣で、レオンは疾風の毛並みをブラシで整えていた。
「みんな、お前の正体が何なのか大騒ぎしてるよ。剣で海賊を3人も倒して、上級魔法使いを魔法で制圧するなんて、一体どっちなんだってさ。」
「当然魔法使いだよ。見ての通りローブを着てるだろ?」
アルは当たり前のように答えると、説明を付け加えた。
「実は、元々騎士修行を受けてたんだ。僕の家は騎士の家系だからね。でも途中で魔法の才能があるって分かって、進路を変えたわけ。騎士の家系では、異端児みたいなものだね。」
「そんなこともあるんだな。」
「珍しいけど、あるよ。」
「それで魔法使いにしては、フィジカルが桁外れだったわけだ。騎士としても、その実力なら、かなりの腕前じゃないか?」
「まあ、それなりにはね。」
アルは誇らしげに口元をゆるめた。
「レオンお前もなかなか活躍したって聞いたよ。海賊船に乗り込んで、敵の魔法使いを捕まえたんだって?」
「運が良かっただけ。こっちにちょうど腕の立つ冒険者パーティーがいたから、一緒に動いたんだ。」
レオンは大したことではないとばかりに手を振った。
「それより、みんな今回の海賊は規模が違ったって言ってた。天候を操れる上級魔法使いが2人もいて、高価な魔法アイテムまで持ち出すなんて、あまり聞いたことがないそうだ。疾風を狙っていたんじゃないか?」
レオンの心配に、アルは首を振った。
「ついでだった可能性はあるけど、それが主目的ではないと思うよ。レースでどの馬が優勝するか、その馬がエレンシアの外に出るかどうかなんて、誰が分かる?
お前の言う通り、ここまで準備するには、海賊たちも相当な時間と手間をかけたはずだ。おそらく今回の馬市で、大陸の貴族や商人がエレンシアの馬をたくさん買っていくだろうから、それと人質の身代金が目当てだっただろう。」
「そうだといいが。」
「まあ、でも、こっちが海賊船を丸ごと捕まえたんだから、本当にざまぁみろって感じだよね? 大陸に着いたら、報奨金もかなりもらえるらしいし、それで豪華に温泉旅行でもしようぜ。」
アルはその想像だけで楽しいのか、クスクス笑い出した。
温泉旅行という言葉を聞いて、疾風は寂しそうに舌打ちした。
(私だって、温泉好きなんだけどな。でも、馬用の温泉なんてないだろ? 前世ではお風呂で体をほぐした後、冷たいジュースを飲むのが喜びだったのに。馬の体じゃそういう場所にも入れやしない。)
しょんぼりして地面を見つめる疾風の憂つうそうな目をじっと見ていたレオンが、ブラシを止めて低くつぶやいた。
「もしかしたら、陛下に疾風を差し上げるのが、こいつにとって一番良かったのかもしれないな。そしたら、こんな心配も苦労もせず、穏やかで楽な生活が送れただろうに。俺の欲で無理やり苦労させるような気がする。」
「それで後悔してるの?」
アルが笑みを引っ込めて、真剣に尋ねた。
「いや、俺は疾風と一緒にいたい。ただ、疾風には悪いことをしたようで。」
「なら、それでいいじゃない。」
アルは、レオンの肩を軽く叩いた。
「もし疾風に選ぶ権利があったとしても、きっとお前と一緒にいる方を選ぶさ。こいつは、そもそもお前以外の人を乗せもしないじゃないか。黄金の飼い葉桶や宝石で飾られた鞍なんて、疾風にとって何の意味がある? そんなのは、全部人間の自己満足に過ぎないよ。」
疾風はその通りだと思い、頷いた。自分に惚れ込んで大騒ぎするフィオール王が嫌いではなかったが、アルの言う通り、馬としての贅沢や豪華さにはあまり興味がなかった。どんなに贅沢したって、せいぜい華麗な馬小屋や、蜂蜜水、リンゴ、ニンジン、上質な牧草や穀物くらいが関の山だろう。
今の疾風にとって一番大事なのは、広い世界に出て自分の新しい可能性を探ることだった。このまま馬として一生を終えるのではなく、獣の体を抜け出し、異世界ライフの真の意味を見つける旅が、いよいよ始まろうとしていた。
(もし私が人間だったら、話はまた別だけどな。若くてイケメンな王様が私に惚れて、猛アプローチしてきたら、仕方ないって感じで受け入れたかも。
でも、フィオール王はもう結婚してる中年おっさんだから、ダメだな。そういえば、フィオール王に息子さんとかいたっけ?いや、父親に似てたら顔は正直微妙かも。顔で言えば、レオンのほうが私の好みなんだよな。レオンみたいな男が、私に執着して付きまとったりしたら、まあ悪くないかも。)
ロマンスファンタジーの主人公になったつもりで、妄想を膨らませて、1人で口をぽかんと開け楽しんでいる疾風を見ていたアルの目が、何かを悟ったように輝いた。
「たまに思うんだけどさ。疾風のヤツ、俺たちの話が全部分かってるんじゃない?」
この言葉に、疾風の耳がぴくっと動いた。
(お〜、ついに気づいたか! さすが魔法使い! さあ、早く魔法を使うなりして、私のことを試して!)
疾風は目を輝かせて、もっと押してみろと言わんばかりに力強く頷いて応えた。
しかし、レオンは軽く首を振って言い切った。
「うーん、俺もたまにそんな風に思うことはある。でも、いくら賢いとはいえ、まさか人の話が全部分かるってわけじゃないだろ。」
「そうかな?」
アルは納得がいかないような顔で首をかしげた。
「確かめる方法ってないの?」
考え込むアルに、レオンが尋ねた。
「動物とコミュニケーションできる魔法とか?」
その質問に、疾風の目は期待に満ちて大きく見開かれた。だが、アルはあり得ないという表情で笑い飛ばした。
「そんな魔法あるわけないでしょ? もしあったら、魔法界の革命だよ。」
「疾風が特に賢いのは間違いないし、そう感じるのも無理はない。でも、他の馬だって、自分の話をされているのは結構察するもんだよ。」
「そうかな? 確かに、タマも自分の話をしてるときはよく気づくよな。」
そう言うや否や、タマがプルルッと鼻を鳴らし、アルに頭を擦り寄せ、甘える仕草を見せた。
それ見たことかと、レオンが肩をすくめてみせた。疾風はやれやれという顔でタマをじろりと睨みつけ、心の中で不満をぶつぶつと呟いた。
(空気も読めない、この馬頭め!)
*** ***
レオンとアルは馬に乗ったまま、とある田舎の家の前に立っていた。家の裏手にはうっ蒼とした森が広がり、丘の上に位置するため、下の村がよく見渡せた。村の家々や近くの農家より少し大きめではあるが、質素な雰囲気の2階建ての建物だった。低い木の柵に囲まれた庭では、おもちゃの剣を手に遊んでいる6歳前後の男の子が、興味深げに彼らを見上げていた。
「この家?」
「うん。」
レオンの視線は、小さな三角窓のついた屋根裏部屋から二階の窓、分厚い木製の扉が付いた玄関へとゆっくり移動した。庭の片隅にある馬小屋や、その横で大きな枝を広げている一本の大木。すべてを目に焼き付けるように見回していた彼は、庭にいる少年と目が合うと、微笑んでは馬の向きを変えた。
「中に入らないの?」
アルが不思議そうに尋ねた。
「もう俺の家じゃないからな。外から見れば十分だ。」
レオンは、ゆっくりと疾風を村の方へと進ませた。口を挟むのは良くない気がして、アルは黙って彼の後ろに続いた。
村の入り口に差し掛かったころ、誰かが彼らを呼び止めた。
「もしかして、レオン坊ちゃま?」
レオンが疾風を止めて振り返ると、人の良さそうな中年の女性が彼の顔を見て、声を弾ませた。
「間違いないですね。レオン坊ちゃまですよね?」
レオンは疾風から降りて、親しげに女性に挨拶をした。
「お元気でしたか、アンヌおばさん。」
「ああ、無事だったんですね。」
アンヌが目に涙を浮かべ、声を震わせた。
「夜中にあんな風に奥様と一緒に急に姿を消してしまって、みんなどれほど心配したことか。レイナ様はお元気ですか?」
「ええ、エレンシアにいらっしゃいます。皆さんによろしくとおっしゃっていました。」
「やっぱりエレンシアに行かれたんですね。そうだと思っていました。本当に良かったです。」
アンヌは涙をぬぐいながらも、突然目を輝かせて、勢いよく話し始めた。
「それで、あの男のことですけどね。あの憎たらしいジャクストンのヤツ、数年前にブレイツリー軍が戻ってきたとき、鼠みたいにこっそり村を出ようとしてたところを、鍛冶屋のトーマさんが捕まえたんですよ。
それからですね、村中を引き回して、たっぷり殴り倒して、あっちの広場の柱に吊るしてやったんです。その時の、血まみれで泣きながら這いずってるあいつの姿を、奥様と坊ちゃまにも見せたかったくらいです。」
身振り手振りを交えて、アンヌはその日の様子を、まるでお祭りの実況でもするかのように、楽しげに話した。自分が投げた石がジャクストンの鼻に見事命中し、派手に鼻血を出させたと、豪快に笑い飛ばすアンヌを見ながら、アルは苦笑していた。
しかし、ふといつもとは違うレオンの雰囲気に驚いた。広場の真ん中にある柱を冷たい目で睨みつけたまま、レオンが低く呟いた。
「俺の手で殺しておくべきだった。」
その後、アンヌは通りがかる人々や近所の家の人たちに、レオンが帰ってきたと大声で知らせた。すぐさま多くの人々が彼らの周りに集まり、安否を尋ねたり挨拶を交わしたりして、静かだった村は一気に賑やかになった。
村人たちは、レオンにせっかく帰ってきたのだから、何日か滞在していくよう勧めたが、レオンは他に用があると言い、次の機会にゆっくり訪れると丁寧に断った。
村人とレオンのやり取りの中、アルは口を挟む隙もなく黙っていたが、村を出たところでようやくずっと気になっていたことを尋ねた。
「いい人たちだね。」
「ああ。」
「でも、どうしてみんなお前をお父さんに似ているって言うんだ?」
アルは、エレンシアを出発する前に挨拶を交わしたレオンの父親を思い浮かべた。ウィレムはがっちりした体格と温和な印象を持つ人物だが、正直なところ、レオンとはまったく似ているところがなかった。村人たちが話しているレオンの父親は、別の人物なのではないかという気がした。
「エレンシアにいる父さんは継父なんだ。ここで言ってるのは、俺の実の父親のことさ。」
レオンは淡々と、今まで口にしなかった過去のことを語り始めた。
回復術士だったレオンの母親レイナは、冒険者に憧れて大陸へ旅をして、レオンの父親ギデオンに出会い、パーティーを組んで冒険者生活を送っていた。ギデオンはミレーシン領主の家臣家であるフィンブス家に仕える騎士の家系に生まれた。家業を継ぐのではなく、冒険者の道を選んだが、レイナと結婚してからは故郷に帰り、家業を継いだのだった。
レオンの記憶にあるギデオンは、幼いレオンを膝に乗せて本を読んでくれたり、自ら削った木製の玩具の剣を使って剣術を教えてくれたりする、優しく頼もしい父親だった。
しかし、レオンが8歳の時、隣国カリトラムの侵略が起き、戦争はブレイツリーの勝利で終わったものの、騎士として出陣したギデオンは戻らなかった。フィンブス家の当主を危機から救ったのを最後に、ギデオンを見た者はいなかった。レイナは回復術士として働きながら、レオンと共にギデオンの帰りを待ち続けた。
村人たちが広場の柱に吊るしたというジャクストンは、ギデオンの代わりに村を管理するようになった男だった。彼は初めからレイナに邪な思いを抱き、親切を装って近づいてきた。幼心にも母親を守らなければと思ったレオンは、ギデオンに教わったことを思い出し、毎日家の裏の森で何時間も剣術の練習をしていた。
それでもしばらくの間は、フィンブス家の保護があったおかげで、ジャクストンも簡単には手を出せなかった。だが、レオンが11歳の時、再びカリトラム軍が侵攻し、ブレイツリーが敗北してミレーシンがカリトラムに占領されると、状況は一変した。ジャクストンはすぐさまカリトラム側につき、己の地位を保った。そしてその時から、露骨にレイナとレオンに嫌がらせをし始めた。
ある夜、大量に酒を飲んで酔っ払ったジャクストンが母子の家に押しかけ、レイナを無理やり犯そうとした。その日、レオンは家にあった父親の剣を手に取った。レオンの剣でジャクストンが倒れた後、ふらつきながら身を起こしたレイナは震えるレオンの手から剣を取り上げ、横に置いた。そして、ジャクストンに応急処置を施し始めた。
「治療なんてしないで!こんなヤツ、死ぬべきだよ!」
レオンが涙声で叫ぶと、レイナは静かにレオンの目を見つめ、悲しげな目で言った。
「わかっているわ。でも、誰かの命を奪うには、あなたはまだ幼すぎる。」
ジャクストンが死なないように処置を終えた後、レイナは少しの衣類と貴重品をまとめ、レオンを抱いて馬に乗った。レオンを胸にしっかりと抱きしめて、2頭の馬を交互に乗り換えながら、彼女は走り続けた。耳元で聞こえていたレイナの心臓の鼓動と、絶え間なく響いていた馬の蹄の音は、その後も長い間、レオンの頭の中でこだまするように消えなかった。
「優雅で上品な方だと思っていたけど、すごく強い方なんだね。」
「ああ、強い人だよ。」
「今回来たのは、もしジャクストンというヤツがまだ生きていたら、始末するつもりだったのかい?」
「その男が死んでいるのは知っていたよ。師匠を通じて調べたんだ。」
レオンの剣術の師匠であるロートリックはブレイツリーの出身で、休養と旅を兼ねてエレンシアを訪れ、レオンの村で2年ほど滞在しながら剣術の先生をしていた。今回の旅の目的の一つには、ロートリックの家を訪れることも含まれていた。
「てっきり坊ちゃんののんびり旅かと思ったら、意外と真剣な旅だったんだね。」
「エレンシアではのんびり育った坊ちゃんで間違いないよ。船主であり村長の息子なんだから。」
レオンがふっと笑みを浮かべた。
その笑顔に、気が楽になったアルは大きく伸びをしながら呻き声を漏らした。
「うーん、ずっと馬に乗って移動してたから、全身が痛いよ。とにかく『月の宮殿』に行って、何日かゆっくり休もう。じゃないと、本当に倒れちゃいそうだ。」