5. 海賊と魔法使い
「ううぇ〜っ、うぅっ。」
船の手すりに身を預けて盛大にえずいているアレイシス・ピートランド、略名アルの背中を、レオンは心配そうにさすった。
「大丈夫か?」
「全然、大丈夫じゃない。うぅぇぇ〜。」
お腹にあるものを出し尽くしたのか、今では唾液がだらだらと垂れ流れているだけだった。
出航してしばらくは穏やかだった海が、3日目の午後になると、突如風が強まり、荒波が船を激しく揺らし始めた。船が揺れる感覚を最初は面白がっていたアルも、次第に頭がくらくらし始め、ついには気持ち悪さに耐えられなくなり、船室の階段を這うように上がって甲板へ逃げ出したのだった。
船の手すりには、アルだけでなく、他の乗客たちもプチトマトのようにぶら下がり、その日食べたものを全て吐いていた。
内臓まで吐き出してしまうのではないかと思われたその時、マストの上から緊迫した叫び声が響いた。
「海賊だ!海賊船だ!」
続けて船員たちが走り出し、乗客を急いで船室へ避難させ始めた。
「船室に入ってください!」
「早く、早く!」
「嵐のせいで護衛船が別方向に流されて、こちらには今戦闘員が不足しています。戦える人は武器を持ってこちらへ来てください!」
その声を聞いたレオンは、腰に下げた剣を握り、身を翻した。
「アル、お前は船室に下がってろ。」
「お前は?」
「戦うしかないだろ。」
「じゃあ、僕も。」
「この調子じゃ無理だ。船室で待っていてくれ。」
なだめるように言って、レオンはアルを軽く押して船室へ向かわせ、自分は船首の方へと進んだ。
パニックに陥った乗客の流れに巻き込まれて、船室へ押し込まれそうになっていたアルだったが、ふと足を止め、きっぱりと身を翻した。
(馬小屋、疾風を守らないと。)
馬小屋に行かねばならない。海賊が狙う最も高価な財宝は、船室の下にある馬小屋の馬たちに違いなかった。
エレンシアの馬祭りでは、競馬、馬上試合、乗馬大会など様々なイベントが開かれると同時に、大規模な馬市場も開催される。普段、馬の輸出を厳しく制限しているエレンシアだけあって、馬市場は大陸の商人や貴族らが血眼になって集まる一大イベントだった。そして今、この船の船室の下には疾風をはじめ、大陸へ渡る馬たちが載せられていた。
出航前、フィオール国王から受けた命がアルの脳裏に浮かんだ。
「ピートランド卿、君の任務は何があっても疾風を守ることだ。疾風の体の隅々を自らの体だと思い、必ず守り抜いてくれたまえ。」
何を言われているのか理解できず、そっと目を泳がせるアルに、フィオールは厳かに念を押した。
「もし疾風が怪我をしたり、その美しい体に傷がついたりすれば、君の体の同じ部位にも同じことが起きると思いたまえ。」
その言葉を聞いて凍りついたアルに、フィオールは冗談だと笑ってみせたが、アルは知っていた。少なくとも半分、いや、それ以上は本気であることを。
(絶対に、守らないと。俺の体、いや、疾風を。)
アルはローブの裾を掴み、必死で動き始めた。
疾風は、馬小屋のあちこちから聞こえる馬たちの嘶き声や嘔吐の音に嫌気が差していた。自分自身も気分は悪かったが、それ以上に周囲の騒がしさが気に障った。
船の揺れを軽減するために、馬たちはそれぞれロープを持って、ある程度の余裕を持って固定されていたため、船が大きく揺れても倒れたり怪我をしたりする心配はなかった。しかし、船酔いだけはどうしようもなかった。
馬小屋にいる2人の飼育係は、貴重な馬に何か起こらないよう、せわしなく馬たちの様子を見回っていた。疾風の隣にいる〈タマ〉という名の馬は、床に一杯吐いた後も、絶えずケホケホと苦しそうに咳をしていた。
〈タマ〉という可愛らしい名とは裏腹に、あいつは立派な牡馬だった。全身が淡い栗毛で覆われた彼の額には丸く白い模様があり、それを理由に飼い主のアルが名付けたのだ。
疾風はずっと、レオンの命名センスは悪いと思っていたが、タマの名を知った時、レオンが自分の飼い主でよかったと思った。
(あいつ、大丈夫かな? 倒れたりしたら、どうしょう。)
そんなことを思いつつ、タマの方を憐れんでいるときだった。馬小屋の扉が突然バンッと開き、武装した男3人が入ってきた。揃いの服装を見る限り、この船の護衛兵のようだった。
「海賊だ!海賊が攻めてきた!」
「馬が傷つかないように、もっと奥に追いやれ!」
「えっ?海賊ですって?」
飼育係の人が不思議そうに尋ねると、男の1人が大声で急かした。
「この時期にはありえない嵐を起こして、護送船を変な方向に流しやがった。それに、うちの船をヤツらの方へ引き寄せたんだ。ヤツらには相当な魔法使いがついてるに違いない!」
「でも、ここでは魔法が使えないようにしてあるから、大丈夫じゃないですか?」
「そうだが、抗魔法陣を壊して魔法を使おうとするかもしれない。それを防がないといけない。」
疾風に近づいた飼育係が、彼を中に押し込もうとした。
「ここにいたら、怪我するかもしれない。早く中に入れ。」
どういう状況なのか、気になって中に入るのを拒む疾風を、飼育係は力任せに内側へ押し込んだ。
「おい、頼むから入ってくれ!」
疾風が飼育係とせめぎ合いをしていると、バキッという何かが壊れる音がした。続いて、武器がぶつかり合う鋭い金属音が鳴り響いた。そして、悲鳴とともに護送兵の一人が疾風の前に転がり込んできた。
「ひっ!」
怯えた飼育係の腕から力が抜けた瞬間、疾風は彼を突き飛ばして身をかわした。しかし、体を拘束するロープと胸の高さで閉ざされた頑丈な戸に阻まれ、それ以上前に進むことはできなかった。
首をぐっと伸ばして横を覗くと、海賊が4人いて、すでに護送兵の一人が大きな怪我を負って倒れている状況だった。
‒ レオン!
大変なことになってしまったと気付いた疾風は、思わずレオンを呼んだ。当然ながら、彼の喉から出たのは力強い馬のいななきだった。
疾風の呼び声に応えるかのように、馬小屋の扉が勢いよく開いた。疾風は反射的にその方向を見た。
期待とは裏腹に、扉を蹴破って入ってきたのは、アルだった。疾風は絶望感に襲われて目を閉じた。
(魔法が使えないところに、よりによって駆けついたのが魔法使いだなんて。)
ところがアルは、躊躇することなく倒れた護送兵に近づき、腰をかがめて、彼の剣を手に取った。アルが顔を上げる瞬間、彼の顔を狙って短剣が飛んできた。アルは素早く剣を振り、短剣を弾き飛ばした。そして、そのまま短剣を投げた海賊に突進し、大きく剣を振りかざして一撃で首を斬りつけた。
(何、これ?)
予想外の展開に疾風の口がぽかんと開いた。
(魔法使いじゃなかったの?)
ローブの裾を翻しながら、果敢に海賊たちに立ち向かうアルの姿に、これまでの魔法使いのイメージが崩れていく。
(まさか、ステータスを全部力に振った筋肉魔法使いか?)
アルが他の護送兵と共闘して、3人目の海賊を倒した直後だった。
「ほぉ、なかなかやるじゃないか、小僧。」
その向こうには、見慣れない中年の男が立っていた。黒いローブを身にまとっているところを見ると、魔法使いのようだった。
(魔法も使えないっていうのに、あれは一体何者だ?)
疾風が口をとがらせた瞬間、そんな彼の考えを見透かしたかのように、男が天井を指差し、不気味な笑みを浮かべた。
「見ての通り、抗魔法陣の一部が損傷している。」
天井に大きく描かれた魔法陣には、ペンキのような白い汚れがあちこちに広がっていた。海賊たちの仕業に違いなかった。
中年の男は、懐から赤黒く光る親指ほどの大きさの石を取り出した。
「これが何だか分かるか? カルテガーの魔石だ。一定時間、抗魔法の効果を無効化するんだよ。」
男が薄ら笑いを浮かべて、魔石を床に投げつけると、魔石から赤い光が放たれ、四方に広がった。直後、男の手から激しい水流が吹き出し、アルに襲いかかった。
(危ない!)
何をどうすればいいのか分からなかったが、何かしなければと思った疾風は、どうにかして扉を蹴破ろうと突進の構えをとった。
そのとき、アルの目の前で水流が瞬時に凍りついた。そして初めて、アルが口を開いた。
「…そうか。」
少し間を置いて、アルの声が続いた。
「じゃあ、俺の方が有利だな。」
アルの手から突風が生成され、彼の目の前に浮かんでいる氷の破片を巻き込んでは、一斉に敵へと飛びかかった。
中年男が防御魔法でそれを防ぐと、アルは風の魔法を剣にかけて、その男にまっすぐ投げた。
「ウァッ!」
断末魔の悲鳴を上げて、中年男が地面に倒れ込んだ。
アルはゆっくりと男に歩み寄り、次の魔法を発動させた。倒れた男の体の周囲に青い魔法陣が浮かび上がった。アルが自分の髪を結んでいた紐を解くと、それはすぐに暗い金属製の輪へと変化した。
「これが何だか分かるだろう? ティルヘススの拘束具だ。魔力を封じるものでね。俺より強い術士じゃないと解けない。」
アルの手から離れた金属の輪は、生きている蛇のように動き、男の首にするすると巻き付き、カチンという音を立てて閉じた。
これまで疾風が見てきた、能天気でよく笑う無邪気なアルの姿とはあまりにも違っていた。
(本当に魔法使いなんだ。)
疾風の中で、アルの評価が一変した。
そのとき、外から騒がしい音がして、レオンが兵士たちを引き連れて入ってきた。
「なんてことだ! 一体何があったんだ?」
レオンが声を張り上げると、アルが振り返った。
「うっ、汚い。」
青白い顔に、滝のような唾液をだらだら垂らすアルの姿に、レオンを含めて、その場にいる全員がぎょっとして立ち止まった。ローブや服の裾がかなり湿っている様子からして、ずっとその状態で戦っていたことが明らかだった。
「どうして、今頃来たの?」
アルの青い瞳には涙が浮かんでいた。
「悪かった。海賊船に渡っていたんだ。ヤツらが強力な魔法使いを連れて馬を奪おうとしていると判断したからな。」
レオンが現れたことで緊張が解けたのか、アルはその場にへたり込み、再びえづき始めた。レオンはアルを支えて立ち上がらせると、背後で呻いている中年男に目を向けた。
「そいつは?」
「海賊側の、魔法使いだ。急所は外してるから、傷の手当てさえすれば大丈夫だ。」
どうにか言い終えたアルは、前に崩れ落ちた。
レオンは彼を背負い上げて、人々に言った。
「私は友人を連れて先に戻ります。後片付けをお願いします。」
まだ体に水分が残っているのか、半ば意識を失って、レオンの背中をよだれで濡らしているアルの姿を見て、疾風の中でアルへの評価が若干下がった。