4. 執着王
「もうすぐ始まるよ、疾風。」
疾風のたてがみをなでながら話すレオンの声は、緊張のせいで少し震えていた。
疾風は背中にいるレオンの重さを感じつつ、正面を見据えた。一直線に伸びた王城の大通り、その両脇には観客がぎっしり詰めかけ、期待に満ちたざわめきが聞こえてくる。その中には、応援に来たレオンの家族や村の人々もいるはずだった。周りの建物の屋根にも、多くの人がひしめき合って立っていた。
今、疾風とレオンの左右には、11頭の馬と騎手が整列していた。これはエレンシア各地の競馬大会の優勝者が集まり、エレンシア最高を決める場だった。馬の名産地として名高いエレンシアで2年に一度開催されるこの大会を観るために、エレンシア国内のみならず、大陸各国からも多くの貴族や富豪が訪れていた。
ここに立つまで、疾風とレオンは、地方予選を含む数々の大会を勝ち抜いてきた。その間にレオンは背がさらに伸び、いよいよ少年から青年へと変わりつつあった。
(いろいろあったな。)
スタートの合図を待つわずかな時間、疾風は感慨にふけった。地方大会では、微妙な嫌がらせや妨害も少なくなかった。しかし、王城で行われる本大会は、やはりレベルが違った。馬のケアから厩舎の管理に至るまで、どれも細やかで徹底していた。おかげで、疾風は最高の調子で決勝に臨むことができた。
「必ず優勝して、一緒に大陸へ行こう。」
低くささやくレオンに、疾風は固い決意を込めて頷いた。
緊張と興奮で体が軽く震えるのを感じる。アドレナリンが血液を駆け巡り、全身の筋肉が弓のように張り詰めていく。ここでの人生(馬生)で初めて感じた、この独特の感覚は、今では自分のものとしてすっかり馴染んでいた。
(ここまで来たんだ、優勝まで行くぞ!そして、ついに大・陸・旅・行!)
ヒューン!
国王が空高く放った矢が、鋭く甲高い音を引いて空を飛んだ。それを合図に、12頭の馬が一斉に駆け出した。
王宮の前に伸びる大通りを疾走する馬に向けて、群衆は歓声を上げ、熱狂した。コースはやがて市街地を抜け、曲がりくねった住宅街を通り、城門へと続いていった。堀を横切る橋を渡り、農地が広がる平野、そしてその先の森へと馬たちは走り抜けていった。
森の中には、かなり幅の広い小川や急な斜面の森道、足が取られるぬかるみがあり、さらには所々に障害物まで設置されていた。自然の景観を活用しながらも、明らかに人為的に作られたレースコースだった。そしてその長い区間の至る所には、競技を監督する管理官や、少なくない観客がいた。
レオンは、疾風の背に身をぴったりと密着させて、後方から聞こえる蹄の音に耳を澄ませていた。その音が遠く感じられることから、かなりの差を広げていることは間違いなかった。疾風から決して落ちないという確信は、大きな自信へと繋がり、疾風と一体となり、果敢な疾走を可能にした。
決勝まで進んできた馬は、〈馬の島〉とまで呼ばれるエレンシアでも最高の馬であった。中には、前回と前々回の大会で連続優勝を果たした、あの有名な〈青い稲妻〉もいた。その青い稲妻ですら、今は疾風を追いかけるのに必死になっていた。
「最後まで、ゴールの瞬間まで集中するんだ。疾風みたいなヤツに乗っていながら優勝できないなら、俺は主人失格だ。」
レオンは覚悟を決め、歯を食いしばった。
*** ***
エレンシアの国王、フィオール‧ノーセレンは、中庭で金色の陽光を浴びて、堂々と立っている疾風を、飽きることなく、魅入られたかのように何時間も見つめていた。
一般の馬を遥かに上回る立派な体格、しなやかで完璧なバランスを誇る筋肉質な体躯。漆黒のように黒く滑らかな毛並みと、美しくなびく豊かなたてがみ。聡明に輝く黄金の瞳。それはまさに伝説の竜馬そのものだった。
〈馬の祭典〉が開かれている期間中、疾風とレオンは、圧倒的な関心と話題を巻き起こしていた。馬に乗り、武を競う馬上武闘大会の優勝者が、レースの騎手として出場しただけでも、十分な注目に値した。他の騎手とは格段に異なる体格を持つレオンが、レースの決勝にまで進出したことは、極めて異例の出来事だった。スピードと敏捷性を競うレースにおいて、重量のある騎手は大きなマイナス要素にほかならない。
しかし、他の馬を圧倒する疾風のフィジカルは、それを軽々と無視してしまった。レオンを乗せて疾走する疾風の姿は、戦場で敵陣を切り裂き、単身で突破していく旗手を見るような感動とカタルシスを人々に与えた。
フィオールは、疾風を見た瞬間から、熱烈な恋に落ちた。彼は馬への愛が溢れすぎて〈馬オタク」とまで呼ばれるエレンシアの人々の中でも、まさに王級と言える人物だった。
フィオールは疾風を自分のものにしようと、果敢に突進した。ありとあらゆる甘い条件や莫大な金額を提示しても動じないレオンに対し、ついには王級の究極技「いくらだ? いくらならいいんだ?」まで言ったのだが、それでも効果はなかった。放っておけば、王国さえ売りかねない勢いだったため、王妃と大臣らが説得に乗り出し、ようやくフィオールは涙ながらに疾風を諦めることにした。
その代わり、フィオールは疾風の姿を等身大の絵に残し、自らの執務室に飾ると宣言。現在、3人の画家に、それぞれ異なる角度から疾風の絵を描かせている最中だった。
エレンシアには、たとえ王であっても馬の持ち主が望まない限り、強制に馬を奪うことはできないという鉄則が存在した。権力者が力ずくで優秀な馬を奪い独占してしまえば、人々は優れた馬を隠したり海外に流出させたりするようになる。それにより、馬の品種保存や改良に自発的に取り組む文化も失われてしまうからだ。さらに重要なのは、馬オタクのエレンシア人にとって、そのような横暴は暴動や反乱の火種になりかねないという点だった。
フィオールにとって唯一の慰めは、王としての特権を行使し、もし疾風の所有者が変わる場合、自分が最優先権を持つこと、そして将来疾風から生まれる最初の子馬を購入できる権利があることだった。フィオールは、この特権を行使することを厳かに公言し、それを確実にするため、レオンの両親に相当な額の前金を支払った。
数時間もの間、じっと立ち続けているのは退屈なはずだったが、疾風は時折レオンが近づいて撫でたり励ましたりするだけで落ち着いた様子を見せていた。
「はぁ、俺もあんなふうに撫でたりしたいな。」
レオンと疾風の仲睦まじい姿に、フィオールは嫉妬を感じた。
疾風はその眩い外見だけでなく、驚くほど賢い馬だった。レオン以外の人の手を断固として拒む彼が、フィオールの身分を察してか、フィオールが近づくこと自体は拒まなかった。しかし、固い姿勢で睨むその視線は『あなたを俺の主人と認めるわけではない』というメッセージをはっきりと伝えていた。その尊大な黄金の瞳すらも、フィオールの心を鷲掴みにした。
その時、若い侍従が来て、フィオールのすぐ後ろに控えている執事長に小声で何かを報告した。執事長はすぐさまフィオールに伝えた。
「陛下。ピートランド卿が到着いたしました。」
「そうか。ここに呼び入れなさい。」
執事長に指示を出したフィオールは、疾風から視線を外して、レオンを目で示した。
「それから、ヴァルラス卿もこちらへ。」
フィオールは、レオンに騎士爵を授けていた。これは馬上武闘大会の優勝に対する表彰を兼ねて行われたものだった。
「承知致しました。」
執事長は従者にフィオールの指示を伝えた。間もなくして、レオンがフィオールの前に進み出た。
頭を下げるレオンに対し、フィオールは軽く手を振ってそれを制した。
「挨拶はさっき済ませたから、もういい。」
フィオールは疾風に視線を移してから、再びレオンの顔を見た。
「ヴァルラス卿は、大陸への旅に出る予定だと言っていたな?」
「はい、そのつもりです。」
フィオールは少し眉をひそめた。
「君はまだ若いから分からないかもしれないが、エレンシアの馬は大陸で非常に価値がある。まして疾風のような馬であればなおさらだ。大陸で疾風に乗るということは、生きて動く黄金の塊に乗っているようなものだ。」
〈生きて動く黄金の塊〉という表現に、レオンは思わず笑いそうになった。だが、フィオールは至って真剣だった。
「ヴァルラス卿が優れた騎士であることは、私も知っている。しかし、何事も慎重に越したことはない。そこでだ、君と疾風の護衛兼道連れをつけようと思っているが。」
どういうことかと、レオンがフィオールを見つめると、彼らのそばに誰かが近づいてくる気配がした。
「ああ、ちょうど来たな。」
フィオールはニッコリ笑った。
レオンの隣に立った男が、フィオールに頭を下げて挨拶をした。
「アレイシス・ピートランド。陛下のお呼びにより参りました。」
「よく来たな、ピートランド卿。ヴァルラス卿、挨拶をしなさい。こちらがピートランド卿だ。君の道連れになる人さ。」
突然の展開にレオンは戸惑ったが、とりあえず隣の男と挨拶を交わした。彼は淡い水色の生地に金糸で模様が刺繍され、濃紺の縁取りが施されたローブをまとい、淡い茶色の髪を持つレオンと同年代の若い男だった。
「見ての通り、ピートランド卿は王国魔法団に所属する魔法使いだ。若いが、非常に高く評価されている有望な人材だ。」
「も、もったいないお言葉です。」
アレイシスは顔を赤らめ、恥ずかしそうにしていた。
(これは、断れない提案というやつか。)
レオンは、渋々とした気持ちで、アレイシスの横顔をちらりと見た。
一般の魔法使いのイメージとは違い、彼はレオンよりも背が高く、体つきもたくましそうだった。ローブではなく鎧を着ていれば騎士と思えるほどの体格だった。とにかく、フィオールの話しぶりからして、アレイシスとの同行は選択ではなく、必須であることは明らかだった。
「ピートランド卿には、疾風の護衛以外にも、もう一つ重要な任務がある。疾風が大陸のどこぞの馬の骨と交わることがないようにすることだ。エレンシア公認の雌馬以外との交配は絶対に許されない。」
(まるで貴族家の血筋みたいな話だな。)
とレオンは、ふと思ったが、フィオールの言うことは、彼もよく理解していた。何しろ馬に本気なエレンシア人は、子女の結婚よりも馬の繁殖問題に気を配ると言われるほどだった。
「断ることはできないよ。」
フィオールは、膝の上で両手を組み、はっきりと釘を刺した。
「ヴァルラス卿も知っていると思うが、私はエレンシアの国王として、特定の馬が島の外に出ることを禁じる権利を持っている。それにもかかわらず、私は、君と疾風の大陸旅行を許しているのだぞ。」
レオンは、すぐに答えざるを得なかった。
「陛下の寛大なお心遣いに感謝申し上げます。」