26. 湿地の魔獣、ティルヘスス(2)
「疾風!」
後ろからマックスボーンがソヨカゼに飛び乗り、追いかけてきた。
「またこの人たちは。」
それを見たフローラは、仕方がないと、ため息をつき、魔法ステッキを取り出して正面へと掲げた。
「混濁した泥の中で咲く、清らかで高貴なる美しさよ―安定と均衡のフローラ!」
フローラの足元から、数え切れないほどの巨大な睡蓮の茎が絡み合いながら一気に地面に伸び、広がっていった。あっという間に、大きな葉が次々と開き、ぬかるんだ湿地の表面をびっしりと覆っていく。その合間には、純白の睡蓮が華やかに蕾を開いていった。
疾風はまるで絨毯を駆けるように、睡蓮の葉を踏みしめ、風のように疾走した。
その後ろを追いながら、マックスボーンは盾を構えた。
「ウオオォォォッ!」
再び疾風の口からバーバリアンの猛々しい咆哮が轟き、重厚な振動が周囲に広がった。
続いて、軽快なリズムの歌声が彼の口から響き渡った。
「ハヤイデ スゲーナー / ヌイテル カケテル / オカネモ カケテル / ヤバイデ タノムデ / ゴノレースニ タマシイ カケテル / ダァア! ニゲテ ヌイテ /ダイヨンコーナー バグンノ セリアイ…」
(えっ!これって、競馬のCMソングじゃないですか。何でこれですか?)
― だって、馬が走る場面とぴったりの歌が見当たらなくてさ。
(僕は今まで競馬場なんか、行ったこともないですよ!)
― 何を言っておる? 直接出場して、優勝までしたくせに。
(そ、それは…。)
―ほれ、そろそろ終わるぞ。
アオイデの言葉を聞き、疾風は現実に戻った。
歌声に乗せられた強力な音波がティルヘススを直撃し、怪物の大口が強風を受けたようにぶるぶると震えながら大きく開いた。
その隙を突き、レオン、アル、キアンがすかさず飛びかかり、触手を次々と切り落とした。そして、キアンが最後の触手の根元を断ち切った瞬間、魔法制限が解かれたアルが爆裂魔法を発動し、怪物の口内に叩き込んだ。
「グオオオォォ〜!」
ティルヘススの体内で、爆裂魔法が激しい爆発を引き起こし、魔獣は全身を激しく痙攣させた後、力尽きて崩れ落ちた。
疾風はすぐに残るもう一体の魔獣に向き直り、またもや音波攻撃を放った。
(バーバリアンのウォークライに続き、 《競馬のCMソング》とは。)
この状況に、疾風は恥ずかしさで顔を上げられないほどだったが、アオイデはすっかり上機嫌だった。
― 英雄戦士のお出ましだぞ〜!
(もう、どうにでもなれ。)
ここまで恥をかいたのなら、いっそやるしかない。疾風は半ば投げやりになりながらも、全力で戦うことを決意し、魔獣に向かって駆け出した。
クリトフィラを捕らえた時と同じように〈威圧〉をかけ、魔獣の動きを一瞬止めると、体を大きく持ち上げ、前足で怪物の胴体下部を思い切り踏みつけた。粘液に覆われた体のせいで少し足が滑ったものの、攻撃としては十分な威力だった。
ティルヘススは身をよじり、苦しそうにのたうち回った。
これを好機と見た騎士と戦士、さらに遅れて駆けつけた弓使いが加勢し、ついに触手をすべて切断することに成功した。そして、背後で待機していた魔法使いが爆裂魔法を怪物の口内へと撃ち込み、とどめを刺した。
すべての戦闘が終わると、双方は簡単に挨拶をした。
騎士の名はラダメイン、女戦士はアジャル、女の弓使いはソティ、魔法使いはジーフレット、神官はマケオだった。
ラダメイン一行は、レオンたちの助力に深く感謝の意を示した。
「誠にありがとうございます。おかげで命拾いしました。」
「いいえ、たまたま近くを通りかかっただけです。それにしても、大型の魔獣が2体同時に現れるとは驚きですね。」
レオンが倒れた2体の魔獣を見つめて言うと、魔法使いのジーフレットがため息混じりに答えた。
「そうですね。大雨の影響なのかもしれませんが、こんなことは初めてです。」
その時、フローラが近づいて声をかけた。
「詳しい話は後にして、まずはこちらに集まってください。広域回復術を使いますね。」
両方のパーティーのメンバーを集めた後、フローラは〈愛と平和のフローラ〉を展開し、一面の花畑を作り出した。
ティルヘススと戦った者たちは、それぞれ程度の差はあれど、負傷だけでなく、吸血による被害も少なからず受けており、治療と回復が何よりも必要だった。湿っぽくぬかるんだ沼地に疲れ切っていたこともあり、今回は誰もが花畑をありがたく思ったようだった。
ラダメイン一行はより重傷だったため、花畑を眺める余裕もなく、ただひたすら治療に専念していた。
「だいぶ良くなったけど、いつもより回復が遅いな。まだ筋肉痛が残ってるし、すごく体がだるい。どうしてだ?」
花畑が消えた後、アルがフローラに尋ねた。
「おそらく、疾風が使ったスキルの影響です。『力を倍加させる』というのは、ないものを生み出すのではなく、結局のところ自らの能力を最大限まで引き出すということです。
だから、戦闘が終わった後には、その反動が体に現れるのです。しっかり食べて、十分休めば元に戻るので、心配することはありません。」
すると、ユニスが口を挟んだ。
「私たちが使う〈身体強化〉に似ているのかもね。エルフの私たちは平気だけど、人間に使うと後から反動が来るって聞いたことがあるわ。」
「〈身体強化〉のほうが反動はきついんじゃないか? 全身が砕けそうな激しい筋肉痛が襲ってくるって聞いた。だから、俺たちが頼むまでは、勝手に使うなよ。」
アルは頭を振り、ユニスに釘を刺した。
一方、その頃、疾風は大きく決心し、マックスボーンに話しかけた。戦闘になるたびに、マックスボーンが危険を冒してまで、自分について来ることが気になっていたのだ。
「マックスボーン、フィオール陛下には、妖精馬の仔馬を贈ればいいんだから、もう僕を守るために危険を冒す必要はないよ。」
マックスボーンは頭をかきながら答えた。
「でも、それが俺の仕事だからな。俺はフィオール陛下に、お前の世話と護衛をする任務を任されてる。それは、この旅が終わるまで変わらない。それに、俺はお前の盾兵であることを誇りに思ってるんだ。」
その純朴でありながらも揺るぎない眼差しを見つめると、疾風はそれ以上言葉を続けられなかった。
(マックスボーン。僕は、君が思ってるような英雄戦士なんかじゃない。頼むから、夢から覚めてくれよ。)
心の中でそう嘆き、疾風は視線を逸らした。
― ほう、この男、気に入ったぞ。我の盾兵、というわけか?
またしてもアオイデが口を挟んできた。
(勝手に〈あなたの〉盾兵にするのはやめてください。)
疾風が毒づくと、アオイデはしれっとした様子で言い返した。
― 我は君の声で、君は我の体なのだ。我の盾兵で間違いないだろう?
いちいち相手をするのも疲れ果てた疾風は、ぎゅっと目をつぶった。まるで昔話に出てくる、意地悪な瘤取り爺さんになった気分だった。瘤を取ろうとして、逆にもう一つ瘤をくっつけられた、まさにそんな状況だった。




