2. 覚醒?
数日が過ぎた。溶岩のように煮えたぎっていた怒りは、ある程度収まった。しかし、その後にやってきたのは憂うつ感だった。魔法が存在する世界だから、魔法でなくても、何か特別な能力があるのではないかと、期待してみたものの、やはり考える力以外には特に能力がないようだった。
(このまま馬として生きていくしかないのか? 馬のやることといえば、人を乗せるか、馬車やすきを引くくらいしかないだろう? どれも嫌だ。だとして、人間たちが私を遊ばせてくれるわけもないし。)
いっそのこと、ここを飛び出して野生で生きる道も考えてみたが、生まれながらの都会人だった前世の記憶がその選択を阻んだ。虫や野生動物を相手にする自信がなかったし、冷たい風や夜露にさらされるのも嫌だった。
(結局、人間の近くで生きるしかないか。)
最善の選択などなかった。最悪を避けて次悪を選ぶしかない。それは分かっていても、まったくやる気が湧かなかった。食欲が完全に消えないのは、せめてもの生きる意思の証のようだった。
疾風の様態が表面上は安定しているように見えると、男たちがやってきて、リンゴやニンジンを食べるのに気を取られている間に、疾風に鞍をつけて庭に連れ出した。
「やっぱり無理をさせるのは良くないんじゃ。」
レオンが心配すると、ジョサイアはきっぱりとした口調で答えた。
「いつまでも放っておくわけにはいきません。このままだと、疾風は人を乗せられない馬になってしまいますよ。」
「分かりました。」
レオンは、気乗りしない表情で渋々承諾した。
人を乗せられなくなれば、やっぱり馬車や犂を引く馬になるのだろうか? そんなことを考えていると、ジョサイアが疾風の首に素早く縄を掛けた。
(何?)
腹が立って前足を上げようとすると、ジョサイア、ロートリック、レオンの父ウィレムの3人が飛びかかり、縄に繋がったロープをそれぞれ引っ張って、疾風を押さえつけた。その間に、レオンは疾風に素早くまたがった。3人の男は、疾風が暴れないように必死でロープを引き続けた。
暴れ出しそうだった疾風は、意外にも一瞬立ち止まった。そして、あっという間に男3人を振り払い、まっしぐらに家の外へと走り出した。
「門を開けろ!」
ジョサイアが慌てて叫ぶと、ちょうど門の近くにいたメイドのリリーが急いで門を開けた。
疾風は庭を横切り、外へと飛び出した。ロートリックが自分の馬に乗り、後を追った。疾風が一瞬動きを止めたのは、レオンを傷つけたくなかったためだった。前世では馬と関わりのない人生を送ったが、暴れる馬から落ちたら、大怪我をするか、下手をすれば死ぬこともあることくらいは知っていた。
外に出ると、見覚えがあるようで、初めて見る道が広がっていた。疾風はその道を走り始めた。緊張したレオンが背中に体をぴったりと押し付けているのが分かった。正直、レオンが自分から落ちるのではないかと、少し怖くもあった。レオンが死んだり怪我をしたりするのは、絶対に嫌だった。
(落ちちゃダメ。しっかり掴まっていて。)
そう心の中で願いつつ走っていると、突然視界が広がった。海だった。果てしなく広がる真っ青な海の静かな水面が、日差しを浴びて、まるで金粉を撒いたかのように輝いていた。
その場で立ち止まり、ぼんやりと海を眺めていると、後を追ってきたロートリックの馬が近づいてきた。まだ邪魔されたくはなかった。
疾風は海岸沿いを走り始めた。海風が顔に強く当たり、爽快で気持ち良かった。胸の奥に溜まっていた閉塞感が吹き飛び、解放感があふれてきた。
高校時代の体育の授業以来、運動なんてしたことがないのに、全力で走ることでストレスが解消されるなんて。これが人生―いや、馬生かって、気がした。
力尽きるまで走り抜いた疾風は、結局出発地点である庭に自ら戻ってきた。野生どころか、知らない場所に行く勇気すらまだなかったのだ。
「大丈夫ですか、レオン坊ちゃん?」
ジョサイアが馬小屋から駆け寄り、心配そうに尋ねた。
「ええ、大丈夫です。」
レオンはため息混じりに答え、疾風から降りようとした。しかし、すぐにレオンは、慌てた表情で身をよじった。まるで鞍に貼り付けられたかのように、体が離れなかった。
不審に思ったジョサイアが横に来て、さらに疾風を追いかけて戻ってきたロートリックも加わり、レオンの体を鞍から外そうとしたが、びくともしなかった。
疾風は、3人の男が自分を囲んで四苦八苦している状況にイライラした。思い切り走ったことで少しは気分が晴れたものの、随分と疲れたので、早く休みたいと思う矢先の出来事だった。
ジョサイアとロートリックは、レオンを力いっぱい引っ張ったり押したりしたが、それでもダメだった。仕方なくジョサイアは鞍を外して、鞍ごとレオンを引き下ろそうとしたが、鞍が疾風の体に張り付いているかのようだった。
「何なんだ、これは? 魔法にでもかかっているんじゃないか?」
ジョサイアが息を切らして愚痴を言った。
「馬から降りられなくする魔法などあるか? あるとしたら、呪いだな。」
ロートリックの言葉を聞いた疾風は、先ほど自分が心の中で言ったことを思い出した。もしかしてと思い、疾風は(早く降りて)と言ってみた。
ヒヒーン!
疾風の鳴き声と同時に、嘘のようにレオンの体が鞍ごと疾風からポトリと落ちた。3人はきょとんとして互いを見合い、まさかという表情で疾風に視線を向けた。
(私がやったの?)
疾風も何が何だか分からず、ぼんやりと彼らを見つめていた。しばらくの沈黙の後、ロートリックが口を開いた。
「試してみよう。」
ジョサイアが疾風の鞍を直して、レオンを再び乗せた。
ロートリックがレオンに言った。
「もう一度降りてみろ。」
レオンが問題なく降りると、ロートリックは、疾風の目の前に立って、右手でレオンを指さし、それを振りながら「ほら、これがレオンだ」と言い、左手の甲に右手を立てて落ちない仕草をしながらこう続けた。
「こうやって、レオンを降りなくできるなら、やってみろ。」
(そこまでしなくても、ちゃんと分かるのに。)
と思ったが、それを伝える術がないのが、もどかしかった。ともあれ、疾風も興味が湧いてきたので、レオンが自分に乗ったあと、(降りては、だめだ)と言ってみた。
ヒヒーン!
疾風の鳴き声を合図にして、レオンはまたしても疾風から降りられなくなった。
(おお、本当だわ。私がやったんだ? こんな能力があったなんて!)
疾風の口元が自然に緩んだ。
ロートリックは、再び両手をさっきと同じ形にした後、今度は甲に乗せた手が降りる仕草を見せた。
「疾風、今度はこうやって降りるようにしてみろ。」
気分が良くなった疾風は(降りてもいいよ)と言って、レオンが降りるようにした。
3人の男たちはそれでも信じきれないのか、もう一度同じ試みをした。結果は同じだった。
「私が試してみてもいいですか?」
ジョサイアが疾風に乗ろうとすると、疾風は体をひねって阻んだ。レオンに対しては、情や義理みたいな感情があって乗せてやったが、誰彼構わず乗れるような馬にはなりたくないという、多少子どもじみた気持ちもあった。
何度か試みた末、結局ジョサイアは諦めて頭を掻いた。
「やっぱりレオン坊ちゃま以外は、乗せてくれませんね。」
疾風の能力は、深刻な議論の対象となった。直接目撃した3人に加え、レオンの両親まで馬小屋に集まった。疾風を頭から尻尾まで念入りに調べた人々は、疾風が何か別の存在と入れ替わったのではなく、彼らが知る疾風に間違いないと判断した。
人びとは屋敷に場所を移し、疾風のこの能力が一体何なのか、これからどうするべきかを話し合った。
「こんな能力が現れたということは、疾風の祖先に妖精馬や竜馬がいたのかもしれませんね。」
ジョサイアが言うと、ウィレムが首をかしげた。
「疾風は、うちの馬小屋で生まれたぞ。それなら、同じ母馬から生まれた他の馬もこうなる可能性があるってことか?」
「さあ、それだといいんですが、人間でも兄弟で容姿や能力が違うことが多いでしょう? 疾風が特別なんじゃないですかね。」
「とにかく、馬から落ちる心配がないってのは、大変なことだ。競馬でも戦場でもな。」
ロートリックが真剣な口調で言った。
「このことが外に知られるのは、たぶん良くないでしょうね。」
レオンの言葉に、ロートリックは同意した。
「もし疾風を高値で売るつもりでないなら、無駄に注目を集めて良いことはない。余計なトラブルを招く恐れもある。」
レオンは口を閉ざし、ウィレムを見た。
ウィレムは軽く肩をすくめた。
「疾風はお前の馬じゃないか? 俺を気にする必要なんかないさ。」
ウィレムの言葉を聞いて安心した様子で、レオンが言った。
「疾風はうちで生まれたときからずっと僕と一緒にいました。誰にも渡すつもりなどありません。」
「それなら、隠しておいた方がいいだろう。どこでもそうだろうが、特に馬に格別な思い入れのあるエレンシアで、このような特別な馬がいると知られたら、きっと大騒ぎになる。」
レオンを含む他の人々も、ロートリックの意見に賛同し、疾風の能力を外部に知られないように、と決めた。
「それはそれとして。」
ジョサイアが目を輝かせた。
「レオン坊ちゃん、こうなった以上、馬上武闘大会だけじゃなく、競馬大会も一緒に準備しましょう。馬から絶対に落ちないって、とんでもない能力ですよ。こんな能力を使わないなんて、もったいないです。」
レオンは首をかしげた。
「僕は背丈や体格のせいで、騎手はもう無理だって言ってたじゃないですか?」
「普通はそうです。でも、馬から絶対に落ちない保証があるなら、話は別です。危険を気にせず、思い切って走れるわけですからね。坊ちゃんがこれからもっと背が伸びても、疾風の体格が並外れてますし、まだ成長期ですから、試してみる価値はあります。」
一般に、競馬では騎手の体格が小さい方が圧倒的に有利だった。そのため、ほとんどの場合、騎手は少年か小柄な人だった。レオンの身長と体格は、騎手としてはすでに失格に近い条件だった。
レオンがためらっていると、ジョサイアはさらに積極的に説得を続けた。
「私だったら、迷わずやりますよ。疾風は今でもすごいヤツですが、もっと素晴らしい馬に成長するに違いありません。そのうえ、そんな能力まで持っている。あと、馬上武闘大会よりも競馬大会の方が賞金もうんと大きいです。挑戦してみましょう。」
レオンがウィレムに尋ねた。
「ジョサイアの言う通り、準備してもいいですか?」
「俺が賛成も反対もすることじゃないさ。お前の考えが大事だ。」
ウィレムは、レオンの判断に任せる立場だった。
「競馬大会に出場するつもりか?」
ロートリックが不思議そうに、レオンに尋ねた。
「そうしてみようかと思います。馬に乗るのも好きですし、競馬大会でいい成績を取れたら、その賞金を将来の旅費に充てられると思いまして。」
「旅費なんか、気にするなって言ってるだろう。」
ウィレムが不満そうな顔をしたが、レオンは気まずそうに笑った。
「分かっています。でも、自分でできることはやってみたいです。」
ウィレムはため息をついた。
「分かった。けど、無理だけはするなよ。今までと同じように、疾風に乗るのは、お前だけにしよう。あいつもお前の言うことはよく聞くからな。」
*** ***
疾風は、自分に特別な能力があることがとても鼓舞された。これでただの乗り物や荷物運びの馬以上の可能性が開けたのだ。
(いつまでも自分を哀れんでいても、何も始まらない。とにかく、方法を探してみよう。)
そして、疾風にはもう一つの決心があった。
(私の馬生に繁殖はない。)
疾風は固く決意した。オスであるため、子を孕む心配がないのは幸いだが、だからと言って、あちこちで子孫を作るつもりもなかった。それは、かつて人間だった自分が守りたい最後のプライドだった。