1. 混沌の地、入場
レオン一行が向かう〈混沌の地〉は、〈安全都市〉と呼ばれるいくつかの都市を除けば、地形や植生が不規則に変化する奇妙な場所だった。
鬱蒼とした森かと思えば、突然草原に変わり、湿った湿地や乾いた砂漠に様変わりするなど、すべてが予測不可能であり、さらにあらゆる魔獣が湧き出る危険な土地だった。
遥か昔、大陸を支配していた古代の魔法帝国が、何らかの理由で滅びた後に生まれた場所と言われていた。混沌の地は、大陸の中央を南北に貫き広がっており、そのため大陸東部と西部は完全に分断されていた。両地域を結ぶ唯一の道は、混沌の地の中央を東西に横断する〈大陸回廊〉だけだった。
あまりにも過酷な環境のため、人が住める場所ではない上に、どの国の支配も及ばない、いわば無法地帯だった。しかし、その地の魔獣からは、さまざまな魔導具の材料となる素材や、種類豊富な魔石が手に入った。特に魔石は、高価な魔導具の材料や宝石として高値で取引されるため、修行や冒険を目的とする騎士や魔法使いだけでなく、一攫千金を狙う冒険者が絶えなかった。
一度混沌の地に入ったら、どのような環境に直面するか分からないため、入る前に食糧や水、薬品などの必要物資を買いそろえるのは必須だった。辺境都市チェトラミの市場は、レオンたちと同じ目的を持つ人々で賑わっていた。
「牧草ばかりこんなに買いこんで、どうするんですか? アイテム袋は無限ではありません。きれいな水だって用意しないといけないのに、こんな調子だと食料を入れる場所がなくなっちゃいますよ?」
アイテム袋に牧草の山を押し込んでいたフローラが、不満を言った。
「これが一番重要なんです。環境がどう変わるか分からない以上、馬たちの食料を確保しないと。私たちが食べる干し肉やパンなんかは分けて馬に積めばいいんです。」
骨の髄までエレンシア人のマクスボーンの言葉に、ブレイツリー出身のキアンを除いた2人の男は、当然だという反応を見せた。
「そうだな。新鮮な牧草は大事だよ。」
アルが相槌を打った。
フローラはアルやレオン、マクスボーンに、自分は彼らより年下だから気軽に話してほしいと頼んだ。アルとレオンは、そうすることにしたが、マクスボーンだけは立場の違いがあるからと、敬語を崩さないことを頑固に主張し、互いに丁寧語で話していた。
「疾風以外の馬は置いていくか、売ればいいじゃないですか? 混沌の地で馬なんて贅沢品です。乗り物が必要なら、あそこにラクダがいるでしょう? ラクダのほうがずっと実用的です。荷物もたくさん運べるし、水も少なくて済むし、過酷な環境でもよく耐えます。」
フローラは、市場の一角で活発に取引されているラクダを指さした。疾風の目には、地球の一峰ラクダに似ているが、額に丸い角が一本生えているのが唯一の違いだった。
「断る!」
アルのきっぱりとした答えに、レオンとマクスボーンは決意を込めてうなずいた。
「知りませんよ。あとで文句言わないでよ。」
フローラは唇を尖らせて、アイテム袋に牧草を次々と詰め込んだ。これから、どんな展開が待ち受けているか、知る由もないエレンシアの男たちは、ただ馬中心の準備に没頭していた。
*** ***
チェトラミで3日間滞在して準備を整えた一行は、4日目の早朝にチェトラミを出発した。
半日ほど移動を続けると、やがて人家が全く見当たらない薄暗い湿地が広がってきた。
夏本番の時期で、じっとしているだけでも暑いのに、不気味な静寂とねっとりとした不快な空気が漂い、ますます気が滅入るところだった。じめじめした湿地をひたすら進み、日が沈む頃になった。
「ところで、どこからが混沌の地ですか? 何か境界線みたいなものはないんですかね?」
マクスボーンが周囲を見回した。
「俺の知る限り、そんなものは特にありません。ただこうして。」
アルの言葉が終わる前に、周り全体が大きく揺れるような感覚がしたかと思うと、一瞬にして景色が一変した。さっきまであった湿地は跡形もなく消え、果てしなく広がる荒涼とした礫砂漠の真ん中に立っていた。先ほどよりもさらに強烈な熱気が押し寄せてきた。
「混沌の地に入ったな。」
レオンが苦笑いを浮かべた。
瞬間移動でもしたかのように突然変わった環境に、一行は呆然としてしばらくの間ぼんやりしていた。
ふとフローラが沈黙を破り、手を挙げてある方向を指差した。
「ほら、あの夕焼けを見て。すごく綺麗ですね。」
果てしなく続く地平線の向こうに、夕日が沈んでいくところだった。柔らかな黄金色の太陽が赤みを帯びていき、やがて青い絵の具を混ぜたような幻想的な色合いに変わっていった。夕焼けに照らされた荒野は、寂しげでありながら、もの静かな趣を醸し出していた。誰もが暑さも忘れ、その壮大な光景を見つめていた。
「すごいな。母さんが話してくれた通りだよ、疾風。」
レオンが疾風のたてがみを撫でながら、ため息のように言った。疾風も夕焼けから目を離せずにいた。
(世の中にこんな風景があるんだ。)
この異世界に生まれてから、前世では経験し得なかった多くのものを見てきたが、中でも最も圧倒的で美しい光景と言えるものだった。
「さて、そろそろ夕食と寝床の準備をしましょう。あそこの岩陰が良さそうですね。」
フローラが馬を進め、一行を近くの大きな岩の下へと案内していった。
「レオンとアルは、周りから薪になりそうなものを集めてきてください。マクスボーンさんは小石を集めて焚き火の場所を作ってください。キアン、あなたはここに残って夕食の準備を手伝って。」
フローラは男たちに役割を割り振り、アイテム袋から食材を取り出した。その様子があまりにも自然で、まるで以前からずっとこうしてきたかのような雰囲気さえした。
男たちは素直に、フローラの指示に従ってそれぞれの役割に取り掛かった。
「まずはこれを下ごしらえして。」
フローラは、キアンにニンジンとジャガイモを手渡した。自分がキアンより1歳年上だと知った時から、彼女は自然とキアンにタメ口で話していた。
「はい。」
「もっと気楽に話してよ。」
「あ、うん。」
キアンの不器用な包丁さばきを見ていたフローラは、隣にぴたりと座り込むと、彼の包丁を握る手をがっしりと掴んだ。
「そのやり方だと怪我しちゃうわよ。ほら、こう持って、こうやるの。」
突然の身体接触にキアンが戸惑うのとは対照的に、フローラは全く気にしない様子だった。
「これからは食事の準備をするとき、あなたが私を手伝うのよ。他の人たちもそれぞれ役割があるから。」
「うん。」
キアンは余計な考えを振り払い、野菜の下ごしらえに集中した。
マクスボーンが集めた小石で円形に囲んだ炉を作り、周りから集めた草や乾いた低木を入れて火をつけると、本格的に料理が始まった。フローラがシチューを作っている間、レオンたちは馬に牧草と水を与えたり、寝床を整えたりした。
食前の祈りが終わり、フローラのシチューを口にした一同は、チェトラミで商人団が別れるときにどうしてあれほど料理の話ばかりしていたのか納得した。
肉と野菜がたっぷり入ったシチューは、野菜スープの甘い旨味と、とろけるように柔らかく煮込まれた肉の食感が絶妙に調和し、心も体も温かく満たしてくれた。
「まさに極上の味だ!」
「シチューってこんな料理だったのか。」
「野宿でこんなに美味しいものが食べられるなんて、想像できませんでした。」
男たちはフローラが仲間に加わったことに改めて感謝し、和気あいあいとした雰囲気の中で夕食を楽しんだ。
食事が終わる頃、フローラが言った。
「今日明日くらいは持ってきた食材を使いますが、それ以降は基本的に現地調達でいきます。持ってきた食材は非常時のためにできるだけ節約しておいたほうがいいからね。」
もっともな意見に皆は頷いたものの、この荒涼とした地で一体どうやって食材を調達するつもりなのか、誰も想像することができなかった。




