1.ことのはじまり
それは、ある日、馬小屋でのことだった。
(何だ、これ? 私、馬になったの?)
信じられない思いで、ユリは自分の体を見下ろした。
視界に映るのは、長くしなやかな脚と蹄鉄が打たれた馬の蹄。頭を振るたびに、目元をふわりとかすめる柔らかいたてがみ。どう見ても間違いなく馬だった。足元までの高さを考えても、かなり成長した馬のようだった。
(いや、なんで? どうして、馬? しかも、なんで雄馬なの? 私は女なのに。)
全くわけは分からないが、21世紀の地球の人間だった有馬ユリがここ、まだ名前も知らない異世界で馬になっていることだけは分かった。
明け方に馬小屋で目が覚めて、見慣れない光景にびっくりして目を大きく開いた瞬間、前世の記憶が一気に頭の中になだれ込んできた。
眠気でぼやけていた頭の中は、あふれる情報と記憶でごちゃごちゃと混乱し始めた。
前世での最後の記憶は、休日の昼間、横断歩道を渡る途中、乗用車にひかれそうになった子供たちを助けようとしたことだった。
(やっぱりあの時、私、死んじゃったんだ。)
あきれたというか、悔しいというか、複雑な思いがした。どこかで聞いた話では、人が死を迎える瞬間、人生がパノラマのように繰り広げられるとしたが、そんなこともなく、朝起きるやいなやこんなありさまだとは。
(これって、確か異世界に来る王道ルートのはずなのに、どうしてこうなってるの?)
人を助けるほどの最期を迎えたなら、特別な力を手にして異世界で素晴らしい人生を謳歌するのが定番のはずだ。それがユニコーンでもなく、ただの馬だなんて。どう考えてもおかしな話だった。
(ブラック企業でこき使われて、社畜同然の生活をしてたのも悔しいのに、ほんものの家畜になるなんて、あり得ない!このまま畜生として終わらせてたまるもんか!)
「畜生」という言葉は、以前使った覚えはあまりないのに、妙に馴染んだ。
(もしかして、魔法みたいなものを使えないかな?)
そう考えたら、少し希望が湧いてきた。もし魔法を使えるなら、状況をひっくり返すことができるかもしれない。漫画やアニメで見たことを思い出し、ファイアボールや雷の魔法などを一生懸命イメージしてみたが、何も起こらなかった。
(やっぱりただの馬なのか。もしかして、この世界には魔法そのものがないんじゃない?)
これからどうすればいいのか、悩んでいる時だった。
「おあよう、疾風」
耳元で優しい声が聞こえてきた。隣には金髪の10代後半の少年が、にこやかに微笑みながら立っていた。少年は細やかな手つきでたてがみを撫で、愛おしそうな眼差しを向けてきた。
疾風は、少年を見てすぐに思い出した。生まれたばかりで母馬のお腹から出て、ふらつきながら四つ足で立とうとしていた自分を、熱い眼差しで見つめていた緑色の瞳。柔らかな草を摘んで直接食べさせて、たてがみや体全体を優しくブラッシングしてくれる愛情深い手と温かい声。
初めて迎える冬のある日。少年は、馬小屋に毛布を持ち込んで体を包み込むので足りず、こっそりと疾風を自分の部屋まで連れて行った。
少年の目を見た瞬間、疾風は不思議な喜びに胸を躍らせ、思わずその少年の名を呼んだ。
‒ レオン!
しかし残念ながら、疾風の喉から出たのはヒヒーン〜という、誰が聞いても明らかな馬の鳴き声だった。
‒ 何だよ、チクショウ!
疾風は喉を鳴らし、何とかして言葉を話そうと必死に努力してみたが、すればするほどヒヒーン、プルルッ、イヒヒーン〜といった馬の鳴き声が騒がしく響くだけだった。
(人言がしゃべれないのか。)
苦々しい現実が、目の前に巨大な壁として立ちはだかった。言葉をできないのなら、ただの頭の良い畜生で終わるしかないのか?
(ディズニーのアニメじゃ、ロバだろうが猫だろうが魚だろうが、果ては燭台までもが、ペラペラ喋ってるのに、なんで私だけ。)
悲しくなった疾風は首を垂れた。だが、そんな彼の気持ちを知る由もないレオンは、水桶の水を取り替え、飼い葉桶に干し草をたっぷりと詰めた。
ユリ―いや、疾風は飼い葉桶をじっと見下ろした。お腹は空いていたが、どうしても食べたくなかった。あれを食べたら、このまま畜生としての人生を受け入れることになりそうな気がした。
疾風が全く動かずにいると、不思議に思ったレオンがなだめ始めた。
「どうしたの? 食欲がない?」
いくら宥めても反応を見せない疾風に、レオンはニンジンを持ってきて口元に差し出した。
「どこか具合でも悪いの? これ、食べて。」
(ニンジンなんて。存在論的な悩みに囚われている私に、そんなものなんか。)
と思った瞬間、疾風の口はすでにニンジンをムシャムシャとかじり始めていた。
(おい! そうじゃないだろ! 今はニンジンなんて、食べてる場合じゃ。)
怒りが込み上げてくる中でも、口は止まらず夢中でニンジンをポリポリと噛み続けていた。
(ああ、こんなじゃダメだ。でも、なんで、これがこんなにおいしいの!)
口の中に広がる甘くてほのかなニンジンの風味が、存在論的な悩みを遠くへ追いやってしまった。疾風は〈ハンガーストライキ〉なんて誰にでもできることではないと痛感した。
*** ***
疾風にとって2度目の危機は、その日の午後に訪れた。レオンが疾風に鞍を乗せたのだ。
最初はそれが何なのかよく分からず、思わず受け入れてしまった。しかし、レオンが鐙に片足を掛けて背中に乗ろうとした瞬間、疾風は体を激しく揺らして抵抗した。
尻もちをついたレオンは、驚いた顔で疾風を見つめた。
「どうしたんだ、疾風?」
まだ馬として生きる覚悟なんて、できていなかった。誰かを背中に乗せたくなかった。このすべての状況が、ただ腹立たしくて仕方なかった。
レオンが疾風のため困り果てていると、馬の調教や馬小屋の管理をしているジョサイアが加勢してきた。しかし、疾風は激しく暴れて徹底に抵抗した。
「この野郎、急にどうしたんだ? おとなしくしろよ。」
ついにジョサイアは鞭を手に取った。だが、レオンがそれを止めた。
「やめてください。今日はなんだか機嫌が悪いみたいですから、少し休ませておきましょう。」
ジョサイアは鞭を下ろして、首をかしげた。
「おかしいな。普段こんなことないのに。反抗期が遅れて来たのか。」
結局、疾風はその日、馬小屋でひとり過ごすことになった。レオンは合間を見ては、疾風の様子を見に来て、なんとか機嫌を直そうと努めた。しかし、疾風の気分は一向に晴れることはなかった。
極度のストレスのせいか、食欲もなく食事も抜いて、疾風はひたすら自分の状況を反芻していた。考えてみれば、前世でも冴えない人生だった。自分なりに頑張ってきたつもりなのに、何もかも思うとおりにならなかった。
なんとか大学に入って、卒業し就職もしたけど、いわゆるブラック企業で過労の日々が続いた。せっかくの休みの日、ひさびさに友達に会う約束を決めて、浮かれて出かけたのに、このありさまだなんて。
(とうして私だけ、こんな目に遭うんだ!」
考えれば考えるほど、耐え難い怒りが込み上げてきた。煮えたぎる怒りに胸が震え、体が小刻みに震え始めた。じっとしていられず、地団駄を踏んでいた疾風は、前足を高く振り上げ、後ろ足で立ち上がって頭で馬小屋の壁に全力で突っ込んでしまった。
ゴンッ!と響く音が、壁が壊れる音なのか、自分の頭が砕ける音なのかも区別がつかなかった。頭がぐるぐる回り、体が崩れ落ちた。
(ああ、馬も横になれるもんだな。)
そう思ったのを最後に、意識が遠のいた。
ぼんやりと意識を取り戻すと、目の前にレオンの心配そうな顔が映った。疾風のそばには、家族全員が集まっていた。自分の額の上に感じる白いものが気になり、目をぱちくりさせて見ると、それはレオンの母親であるレイナの手だった。レイナの手からは淡い緑色の粒子がこぼれ落ちていた。
「大丈夫でしょうか?」
レオンが不安げに尋ねると、レイナはうなずいた。
「額が裂けただけで、骨には異常ないし、首も無事よ。治療すればすぐ良くなるわ。」
額に感じていた鋭い痛みが次第に和らぎ、暖かい感覚が広がっていった。
(回復魔法か? 魔法があるんだ、この世界。)
その不思議な感覚に、一瞬、自分の状況を忘れそうになった。
「壁に頭をぶつけるなんて、一体どうしたんだ?」
レオンの剣術の師匠であるロートリックがジョサイアに尋ねた。
「極度に興奮したり怒ったりすると、こういうことをする場合もありますけど。なぜこうなったのかは分かりません。今朝からずっと様子がおかしかったんですよ。」
疾風自身も、なぜ壁に突っ込んだのか分からなかった。我慢ならないほど怒りが込み上げてきたのは事実だが、どれだけ怒りや絶望を感じても、今まで自傷行為などしたことがなかった。ただ、馬としての本能に無意識のうちに従ったとしか説明がつかなかった。
(馬の本能が人間の理性を圧倒したのか。)
疾風は苦々しく、自分が馬になってしまった現実を改めて実感した。
レイナは疾風の傷に軟膏を塗り、包帯を巻いてくれた。回復術で傷口は塞がれ、もう血は出ていなかった。人々は疾風がまた壁に突っ込まないよう、壁に毛布などを重ねて対策をして休ませた。
疾風は、自分の身に起きていることをじっくりと思い返してみた。まず、このすべての状況が夢ではなく、自分は別の世界で馬として生まれ、この世界には魔法のようなものが存在している。
(魔法がある世界なら、私にも何か可能性があるかもしれない。今は魔法が使えなくても、後になって人間に変身できるようになるとか、あるいは進化するとか。何にしても、前世の記憶を持っていて、人間の理性もあるわけだし。これには何か意味があるのだろう?)
疾風はどうにか希望を見出そうと努力した。