絹一疋充砂金一両(三十と一夜の短篇第85回)
『……長德元年九月二十七日、實方赴任ノコトニカヽル、加樣ニ名所ヲハ注シテ進セタレ供、勅免ハナカリケル、終ニ奥州名取郡笠島ノ道祖神ニ蹴殺サレニレリ……』
『源平盛衰記』より
「それで?」
と陸奥守橘道貞は不機嫌もあらわに部下に尋ねた。任期を無事に勤め上げられそうだと安心していた所に難題が持ち上がってきた。
「どうして今頃そんな話を持ってくる? 私は私で陸奥の国司の任終にあたって年料分の貢納は既に集めた。それを都に運ぶ算段を計っている。
そこに前の国司がその前の国司の分の砂金を納めないままにしていたという烏滸なことを聞かせるか!」
上司の苛立った声に一瞬怖じるが、いずれ去っていく都人への慇懃さを崩さず部下は言った。
「前の前の国司様――左近衛中将であられた藤原実方様がお勤めの途中でお亡くなりになってから合戦騒ぎもありまして、国衙は大忙しでございました。前の国司の源満正様がおいでになってからも落ち着かず、引継ぎが不十分でございました。
何せこちらが実情を鑑みて申請した事柄を決裁してくださるのにも都は五、六年掛かりましょう? 我ら鄙びた者のすることならもっと時が掛かっても仕方ないではございませぬか」
橘道貞が陸奥守に任じられて陸奥に赴任したのは寛弘元年(西暦1004年)頃だったらしい。任期の終わりはその四、五年後。橘道貞の前の前の陸奥守の藤原実方は有名な歌人で、帝から「陸奥の歌枕を見てまいれ」と言われたとか言われなかったとか伝わっているが、遊んでばかりいた訳ではなく、それなりに睨みを利かせていた。実方が任期途中で亡くなってしまうと、縄張り争いでいがみ合っていた土地の者たちの不満が噴き出して合戦にまで発展した。そんな争乱を治める為に次の陸奥守になったのは源満正で、この人物は大江山の鬼退治の伝承で有名な源頼光の叔父で、もう武士と呼んでも差し支えないだろう。これら前任者たちからの引継ぎを考えて、橘道貞は柔弱な性格をしているとは考えられない。
現地出身の部下の言い分に納得していないが、怒鳴り散らしてもことは解決しないと道貞は憤りを抑えた。
「なるほど。しかし、前々司の実方の未払いの年料を私が払うのもおかしなことだ。実方とて任期中から年料を集めていたのではないか。その分はどうしたのだ?」
話を全て聞くと今度こそ道貞は怒鳴り声を上げた。
「引継ぎで聞かされていなかったから全部満正が持って帰っただと!」
掴みかからんばかりの勢いに、部下は後ずさった。
「何故止めなかった? 蔵にあるのは前任者の分も含まれていると教えれば済んだことを今頃持ち出しおって、私を舐めているのか!」
「そのようなことはございませぬ……。てっきり納めてくださったものとばかりおりまして、消息文での遣り取りでどうも話が噛み合わぬと判りまして……」
「満正め、欲を掻きおって!」
バキリと乾いた音がした。
道貞はへし折った扇を投げつけた。物に当たらなければ怒りがどこに向かうか知れなかった。国司はせっせと任地の富をかき集め、国に定められた品物を納めれば残った分を自分の懐に入れられる。国司になれば大きな貯えが得られると、公卿になれる見込みのない貴族は喜ぶ。だが蓄財だけが国司の仕事ではない。客死した実方が自分の年料を納めていなかったと蔵の中を見れば判っただろうに、引継ぎの不充分を理由に満正は知らぬ振りで手に入れたのだ。陸奥で黄金が見付かって、大伴家持が「天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く」と詠んだのは寧楽に都があった天平の昔。それ以降陸奥は黄金を都に納め続けた。ただ黄金がいつもいつも大量に得られるとは限らない。二十年ばかり前も大宰府での取引に使う陸奥の砂金が不足していると朝廷の議題になったくらいだ。砂金の貢納は陸奥守の大事な役目の一つであるのに、どうしてくれよう。
「小田郡に出向いて黄金山を自ら切り崩してやる」
「いくらなんでも無茶が過ぎます」
「そなたからの言上で知ってしまったからには知らぬ存ぜぬでは済まされぬ。それが国司の務め。報告申し上げれば必ず実方の分の未納を陸奥国に求められよう。前々司が治めぬまま亡くなったからといって払わずに済むで通じると思っているのなら甘い!
さて、実方の分は私の任の内に果たせと命じられるやも知れぬ。これまで掻き集めたのと同じだけの量の砂金が要り用だ。
山に入って岩を鑿で打ち金を掘るのも、盥や笊を持って川で砂金を採るのも並々ならぬ労苦があると私とて知っている。取ってこいと命じて子どもの使いのように手にして戻ってこられるのか? 私が小田郡の黄金山神社で祈れば砂金が湧いて出てくるのか?」
「どうかお鎮まりください」
「侮るのもいい加減せよ! 満正が持ち帰った黄金はお偉い方々へお贈りしたり、手下に気前よく振る舞ったりで手元に幾らも残っておるまい。鼻薬を嗅がされたのが効いて実方の分が改めてこちらに回ってくるぞ。
私が山で金を掘るのを止めるなら、そなたが民への取り立てに励んでくれるか?」
部下の気まずそうな顔に少し気が晴れた。
気を取り直して橘道貞は行政官僚らしく、まずは文書で朝廷に申請した。
『謹みて啓す
未封の砂金の事
前々司実方の任を終えての年料の黄金を、交替の際に役人が前司満正に伝えておらず、未納のままになっております。前司の責任と思料いたしますが、前司の任終年分の黄金を私が弁済すべきでしょうか。年料に値する余分の砂金がございません。貢納せよとお下知があれば陸奥の民にまた働いてもらうことになります。黄金を産する郡部の民は租庸調が免ぜられているせめてものご恩にと夙夜川に入り泥や川砂をより分けて砂金を得ます。川の水の冷たさに手も足もあかぎれて血が滲み、撫でさする暇もございません。岩山を鑿と鏨で砕く者はその手も腕も同じく損ねています。どうか民を安んじられますよう考慮いただければと……、うんぬんかんぬん。
陸奥守』
私が帰京するまで決まらなかったら私は知らない、他人の分まで払わない、と道貞は皮肉な気分で決めた。陸奥国司の貢納の不足に今の今まで気付かなかった大蔵省は腑抜けが過ぎる。
内裏で道貞の申請で実方の分の年料をどうするか、議題に上ってもなかなか結論が出なかった。払わなかった分は不問に付す、とはならなかった。払ってもらう。ただ誰が責任を持って負担するか、宮廷でいつまでも決められなかった。
道貞は都に戻った。次の陸奥守の藤原済家にまで未納を持ち越すのもおかしい、実方の分を引き継ぐ責任があったのは源満正だとやっと当たり前の話に落ち着いた。
とっくに摂関家への賄賂と手下への分け前に振る舞って、満正の手元に砂金も練金も既にない。仕方なくなく満正は黄金の代わりに絹布で納めると申し出て、許された。以降、陸奥国司が金で納められない時に絹布で納める前例となった。誤魔化せると思ったら大間違い、かえって大きな負債と不面目となる、と橘道貞は鼻で笑った。
平安時代中期の貴族の橘道貞は歌人の和泉式部の最初の夫、同じく歌人の小式部内侍の父親として知られている。悲しいことに橘道貞個人の業績はほとんど伝わっていない。橘道貞個人に関しては和泉国、陸奥国などの国司に任じられた記録に残り、時の権力者藤原道長の信頼があったらしいと考えられている。歴史の中に名を残した人物として、和泉国に単身赴任中に妻が弾正宮為尊親王と恋仲になったと知らされた橘道貞と、夫婦同姓の法律のある時代であったが為に本来自分の姓であるのに与謝野晶子の旦那って誰だっけ? と言われる与謝野鉄幹とどちらが不仕合せなのか、よく判らない。
ごめんなさい、また史料の沼にハマりました。
奈良時代に日本で初めて黄金を産出したのが陸奥国の小田郡、現在の宮城県遠田郡涌谷町で、天平ろまん館があります。
参 考
『大日本史料』 東京大学史料編纂所
『Wikipedia』
『摂関期古記録データベース』 国際日本文化研究センター
『涌谷町史 上』
『多賀城市史 第3巻 民俗・文学』など