第1部.発症と出会い 1-8.順調な研究
K老人病院への入院は直ぐには無理だと分かった健次は、仕方なく自宅から比較的近くにあるT老人病院にチヨを連れて行った。一度老人病院で受診した経験がチヨの抵抗感を弱めてくれたのか、それほど嫌がらずに医師の診察を受けてくれた。
この病院でもK老人病院と同じような問診と検査を行い、結局同じ病名を診断された。当時は有効な薬があったわけではなく、気休め程度の薬物を服用することと、経過観察をしていくことしか対処の方法はなかった。この病気の場合、経過観察をするということは、何もできないということとほぼ同じであり、チヨの病状はゆっくりとそして確実に進行していった。そんなチヨの振る舞いは、ごく稀に微笑ましく感じられることもあったが、そのほとんどは健次をはじめ周囲の人たちにイラつきと悲しみと無力感とを与えた。
一方、淳一の研究はと言えば、一応順調に滑り出し、有望な天然資源が豊富に存在していると期待される東南アジアの国にある機関との共同研究が開始された。これに伴い、淳一は会社の共同研究チームのリーダーとして研究先と行なわれる会議に出席したり、共同研究先の若手研究者が淳一の会社の研究所で一定期間研修を行なう際の受け入れ窓口になったりして、以前の後ろ向きな態度とは著しく異なって精力的に業務を遂行するようになった。
チヨがK老人病院で院長の診察を受けてから1年以上経過した。チヨの症状が若干進んだだけで、チヨと健次の生活環境に好ましい変化を起こすことはできないでいた。
1993年11月、淳一は東南アジアへの出張から帰国した後、無性に岩茸石仙人と話がしたくなった。K老人病院の入院待ちの状況は変わることはないとは思ったが、あの食堂に行くためには大義名分も必要だったので、K老人病院に顔を出し、医療ソーシャルワーカーの大野優子から現状説明をしてもらった。大野は申し訳なさそうな顔をして、入院待ちの患者が更に増えている状況を説明してくれた。この時の淳一は現状をそのまま受け止め、感情が大きく動くようなことはなかった。
K老人病院からの帰り道、淳一は真っ直ぐに『食堂大丹波川』に向かった。引き戸を開けると、客は誰一人いなかった。
「お久しぶりです」
「いらっしゃい」
「今日、仙人が来る予定はありますか?」
「さあ、どうでしょうか……。でも、仙人には聖滝さんがここに来るのが感じ取れるように思えますので、そのうち現れるかもしれませんよ」
「そうですか。それでは、その言葉を信じて一杯いただきながら待たせていただこうかな。実は……」
淳一は恐る恐る自分のバックの中から赤ワインのボトルを取り出して店主に見せた。
「いつも仙人にご馳走してもらうばかりでは申し訳ないと思って、今日は自分で見つけたワインを持ってきたのですが、ここで開けても良いでしょうか?」
店主は笑いながら頷いた。
「済みません。それでは、適当に摘みをお願いします。それから大丹波定食も」
店主は再び笑顔で頷くとワイングラスを1つカウンターの上に置いてから調理場に下がっていった。
淳一は持参してきたワインオープナーでコルク栓を開け、グラスの半分よりも少なめにワインを注ぎ、軽く回して香りを確かめてから一口含んでみた。自分の想像とあまり乖離していなかったので安心して頷いた。
「うん、これなら仙人も飲んでくれるだろう」
そうは言ったものの、それ程ワインに詳しくはない淳一には自信はなかった。店主が出してくれたソーセージとチーズを摘みながら何度もワインの香りと味を確かめてみたが、孤独な状況でそんなことをしていても楽しくなることはなかった。飲み始めてから20分程経ったところで、店主が大丹波定食を淳一の前のカウンターの上に置いた。
「この定食を食べ終わっても仙人が現れなかったたら、残念ですけど今日は引き揚げます」
淳一は寂しそうにそう言ってから定食に手を付けた。
暫くの間、一言も発することなく食べていた淳一の前のお盆の上で、残っているのはほんの少しの魚肉と一口で食べられる程度のライスだけになった。
「仕方ないな、今日は帰るとするか」
淳一がそう呟いた時、引き戸がゆっくりと開けられた。淳一と店主の顔が一気に明るくなった。
「ほら、やっぱり現れたでしょう」
店主は安堵感と満足感とが入り混じった顔をして淳一に言った。淳一は微笑んで店主に称賛の態度を示した後、岩茸石仙人に向かって非常に嬉しそうに言った。
「お待ちしておりました。仙人には私がここに来ることが分っていたのでしょうか?」
「あははは。いや、確実に分かっていたわけではありませんが、もうそろそろ来られるのではないかという気が強くなってきましたので、顔を出してみたのです。おやっ、今日は既に飲んでいるのですね。ご自分で持ってこられたのかな」
「はい、毎回ご馳走になるばかりなので、たまには私が持って来なくてはいけないと思いましてね」
「どれどれ。おお、いつも私が飲んでいるワイナリーのオーガニックワインですね。これに使われているブドウの品種は単一ではなくて、カベルネ・ソーヴィニオン、カルメネール、それからシラーの3種類なんです。香りも味もかなりリッチな感じがする赤ワインですよ。久しぶりに味わえるのは嬉しいですね」
「実は、仙人のお口に合うかどうかさっきから不安で仕方がなかったんです。仙人にそう言っていただけるとほっとします。有難うございます」
二人の会話を聞いていた店主は出すタイミングを見計らっていた新たなワイングラスを仙人のカウンターの上に置いた。淳一はグラスの半分よりは多くならない程度に慎重にワインを注ぎ、自分のグラスにも同じくらいの量を注いでから持ち上げて乾杯した。
「うーん、やはり美味ですね、このオーガニックは。ところで、今日の聖滝さんの表情からすると、お母さんの入院が間近にでもなったのでしょうか? いや、あの病院の状況ではそれ程早く入院できるとは思えませんね」
「はい。残念ながらK老人病院の方に関しては嬉しい情報はありませんでした」
「そうすると、聖滝さんの会社における研究が順調に推移しているというところでしょうか?」
「本当に仙人には何でも分かってしまうのですね。その通りなんです」
淳一は会社における研究の現状を外部の人間に話しても差し障りのない範囲で仙人に説明した。
「そうですか。あなた方がやりたいと思っていた天然物研究がようやく再開され、研究素材を海外に求めて外国の機関と共同研究が開始されたのですね」
「はい、その通りです。本当にようやく我々が考えていた研究に手を付けることができたと思っています」
「研究するための材料はどんな物を求めているのですか?」
「オーソドックスではありますが、昔からそれぞれの地域において民間伝承薬等で使われてきた薬用植物と、まだ十分には研究がされていないような微生物とを用いて研究を進めるつもりです」
「微生物と植物ですか……。ところで、聖滝さん。微生物と植物は、いつ頃この地球上に現れたかご存知ですか?」
「ええと……、あまりきちんとした記憶はありませんが、この地球上で原始生命が誕生したのがおよそ40億年前だったと思います。微生物は単細胞なので、かなり前に現れたと思いますから30億年前くらいでしたか?」
「40億年前、地球では大陸地殻の形成が始まり、原始生命の誕生があったようです。そして、38億年前から35億年前になると、バクテリアが出現したらしいのです」
「そうですか、そんな昔からバクテリアは生きてきたんですね。植物の方は複雑な生命体ですからもっとずっと後になってから現れたのでしょうね。1億年前くらいなのでしょうか?」
「何をもって植物の出現とするかですが、薬用植物を使われるのですから、多細胞系で陸上で生活して光合成できる生物と捉えると、約4億4千万年前頃からのシルル紀に苔類に続いてシダ植物が上陸したと言われていますので、この頃ということになりますね」
「そうですか、シダは4億年以上も前から陸上に生えていたんですね。人類が登場したのは、確か、500万年前くらいだったと思いますから、シダは大先輩という訳ですね」
「そうですね。確かに人類は500万年前から400万年前にアフリカで類人猿から分岐したということになっています。では、今地球上で生きている我々人類、つまり現生人類はいつ頃現れたかご存知ですか?」
「500万年前に類人猿から分岐してそのまま現生人類になったのではないのですか?」
「いや、どうもそうではないらしい。現生人類は約20万年前から10万年前にアフリカに誕生した単一種という説が有力なようです。この他には、約30万年前に誕生したというような説もあるようです。それ以前に存在した人類は全て絶滅したとするのが今の研究者たちの考え方のようですよ」
「そうなんですか……。今、我々は地球上で偉そうにしていますが、本当は極々最近になってこの地球に登場した新参者ということなんですね」
「微生物や植物には、人間が病気になった時に役立つ化合物や蛋白質などをコードしているDNAを持っているものが存在している可能性は十分にあると思います。何故なら、微生物や植物はこの地球の上で非常に長い間生き続けてきているわけで、地球上で何度も起こった非常事態に対し、いろいろな対応をして生き抜いてきているのですから。長い地球の歴史では、生命を繋ぐことが非常に難しい状況は何度もあったと考えられます。現時点では、微生物や植物が保有している、人間を救ってくれる化合物や蛋白質などの全てが発見され尽しているとは考え難いと思います。まだ残っていると信じたいですね」
「そうですよね。今、仙人がお話してくれたように考えれば、私たちは希望を持って研究していくことができます。本当に有難うございました」
淳一は仙人に頭を深々と下げ、飲みかけのワインボトルは仙人に引き受けてもらうことにし、生き生きとした表情で食堂を出た。