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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
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第1部.発症と出会い 1-6.チヨの料理

 1992年6月、健次はいつものようにチヨが準備した昼飯を二人で食べた。副食おかずはカボチャの煮つけと赤味噌漬けの白身魚の焼きもので、健次の好物であり美味しく食べることができた。ところが、1時間もしないうちに健次は急に気持ちが悪くなり、しばらくすると猛烈な吐き気に襲われ酷い嘔吐があった。家庭薬を飲んで横になったが、30分後に2度目の嘔吐が来た。暫くするとチヨも嘔吐した。

「おい、チヨ。古くて傷んだものでも料理したのか?」

「そんなことするもんですか。新鮮なものしかお父さんには食べさせていませんよ」

 チヨは怒ったような声で答えたが、健次はチヨの料理にあまり信頼感が持てなくなっていた。その日の夕食は念のためお粥にしたがいつもと変わりなく食べることができたし、胃の痛みも特になく、少し安心して床に入った。翌日から5日間は健次ばかりでなくチヨにも何も異常が出なかったので、健次は嘔吐したことを忘れかけていた。


 酷い嘔吐からちょうど1週間後、自治会の役員をしていた健次は午後から地域の集会所にレーザーカラオケを導入するのに立ち会った。あれやこれや納入業者に指示を出していたが、2時半過ぎ頃から気分が悪くなり、立ち会うどころではなくなってしまった。他の役員に任せて椅子に座ったが、しばらくすると冷や汗が出てきて便意も催してきた。

「聖滝さん、どうしたの? 顔が真っ青だよ。早く帰って寝た方がいいんじゃない」

 仲間の役員が心配そうに声を掛けてくれた。

「うん、悪いけどそうさせてもらうよ」

 健次は苦痛に堪えながら何とか帰宅し、直ちにトイレへ駆け込むと大量の下血があった。

 チヨに病院への手配を頼みたかったが、無理だと判断した健次は掛かりつけのN医院に電話した。しかし、対応してくれた看護師から医師は不在で翌日も休診だと告げられ、H病院で診てもらったらとのアドバイスを得た。健次はがっかりしたが仕方なくそこに電話すると、幸い直ぐに診てくれるとのことであったので、淳一の家に電話して由美子に車を出してくれるよう頼んだ。弟の泰蔵の家にも電話して状況を伝えた。しばらくすると、由美子が慌ただしくやって来て、健次と不安になってただおろおろしているチヨを車に乗せてH病院まで走った。


 救急受付に行くと直ぐに診察してもらうことができたが、担当してくれた医師の指示で即入院となり、救急病棟に入れられてしまった。そこに泰蔵と妻の英子が心配して駆け付けて来てくれた。救急担当医の触診では直腸に異常は見られなかったとのことであったが、どこが悪いのかは分からなかった。由美子とチヨ、それに泰蔵夫妻はずっと心配そうに付き添っていたが、健次の状態は特に悪くなるということもなく、時間はじれったい程ゆっくりと流れた。

 面会時間が終わる頃、看護師が健次のベッドの傍に来た。

「聖滝さんはだいぶ落ち着かれた様子なので、後は私たちにお任せになって、ご家族の方たちはお帰りください」

「そうですか、それでは明日朝また参ります。よろしくお願い致します。お義母さん、一緒に帰りましょう」

「お父さんが心配だから、私はここにいるよ」

 由美子は看護師に深々とお辞儀をすると、嫌がるチヨの腕を強引に引っ張り、泰蔵夫妻を促して病室を出た。駐車場まで来るとチヨは由美子の想像とは違って素直に車に乗り込んでくれた。大子温泉での出来事が強く頭に残っていた由美子は『お義母さんは自分たちの家を守ることが頭に浮かんだので、私の言う事を聞いてくれたのかもしれない』と思った。


 淳一の家に泊まったチヨを連れて由美子は翌朝も病院にやって来て健次に付き添った。この日は丸一日絶食して経過観察となったが、特に異常は出なかった。夜、会社帰りの淳一が顔を出すと、健次は手招きし、チヨには聞こえないように小さな声で訴えた。

「俺はな、先週チヨが作ったカボチャの煮つけと赤味噌漬けの白身魚の焼きものが傷んでいたのが原因だと思うんだよ。もうチヨの料理は怖くて、安心して食うこともできないよ、全く……」

「まあ、食中毒の場合、ある程度時間が経たないと症状が出ないっていうし、まだ急いで決めつける必要もないから、先生の判断をお聞きしてからでいいんじゃない?」

 そう言って慰めたが、健次の思い込みが変わる気配は窺えなかった。淳一はしばらく健次の様子を見ていたが、思ったほど深刻な状況には見えなかったので、少し安心した。それからもずっと病室にいたが、面会時刻の終了間際になったところで由美子とチヨを引き連れて家に帰った。


 3日目の朝、健次に少し下血があった。若い担当医に告げると、直ぐに胃の内視鏡検査が行われた。

「食道の噴門付近に少し荒れた所があります。それと胃にポリープが3カ所あって、そのうちの1カ所には血が付いていますが、ここからの大量出血は考えられません。十二指腸には潰瘍ができ易い部位があるのですが、そこにも異常は見られません。腸管のうち検査ができていない所は大腸だけですね。もし食道からの出血だとすれば、逆流性食道炎が考えられます」

 検査が終わった担当医は健次にそう告げた。


 夜になって年配の主治医が健次の病室に入ってきた。

「聖滝さん、大腸検査をして問題がなければ食道が原因で、逆流性食道炎ということになります。この病気は胃の内容物や胃酸そのものが食道に逆流してしまって、強い酸性に対する防御力が低い食道の粘膜がただれたり潰瘍ができたりする病気で、高齢者に多いとされています。本来は胃と食道の境界部は食べ物が通る時以外は括約筋の働きで閉じられているのですが、そこが老化や手術などのために衰えてしまうと、胃の内容物が食道に逆流してしまって病気になるんです。今は逆流性食道炎には良い薬が出来ましたからお腹を切らずに治るんです。今晩からそのお薬の投与も始めましょう。後でネットリした薬も飲んでください。内視鏡検査をした後、胸部と腹部のレントゲン検査もやりましたし、胃のポリープの組織も生検しています。結果が出るまでだいたい1週間くらいかかります。それまで様子を見ていきましょう」

「有難うございます。よろしくお願い致します」

 健次は素直に感謝の気持ちを表した。

「お忙しいところ、本当に有難うございます」

 健次の挨拶に続き、チヨも甲斐甲斐しく主治医に挨拶した。由美子もチヨに合わせて深々と頭を下げた。主治医はチヨが全く普通の状態でいる人に見えたようで優しく頷いた。健次はその様子を若干苦々しげに見つめた。


 4日目も引き続き絶食となり、点滴が続けられた。朝の巡回では内視鏡検査を担当した若い医師が来てくれた。

「先生、今朝、少しですけど血便が出ました」

「そうですか。まあ、大きな問題ではないと思います。それで、聖滝さんは今日、一般病棟へ移動していただきます」

「はい、分かりました。よろしくお願いします」

 午後になってから看護師が来て、健次はベッドに寝かされたまま一般病棟に移動した。


 5日目の土曜日、健次は依然として絶食が続いていた。会社がようやく休みになった淳一も由美子やチヨと一緒に朝から病院にやってきた。午前中に主治医の回診があった。

「いかがですか?」

「今のところ状態は安定しているように思います」

「そうですか。それは良かったですね。それでは今度の木曜日までは今のまま絶食を続けて様子を見ましょうか。その頃には検査の結果が分かるでしょうから」

「えっ、そんなに長く食べられないのですか?」

「ええ、無理をしないほうが良いですからね」

「分かりました。我慢します」

 健次は沈んだ声で言った。しばらくすると、真理と裕子とが連れ立って心配そうな顔をして病室に入ってきた。

「お父さんはどう?」

「うん、今は安定しているから、そんなに心配しなくても良いみたいだね」

 淳一の言葉に二人は安堵の表情を見せた。


 それからも健次の絶食は続いたが容体は特に悪くなることもなく推移した。翌週の木曜日の午後、大腸検査が行われた。夜になってから検査した担当医が病室にやってきた。

「聖滝さん、良かったですね。大腸検査の結果、どこにも異常はありませんでしたよ」

「ああ、良かった。有難うございました」

「これまでの検査結果を総合的に考えますと、聖滝さんは逆流性食道炎だったとしか考えられません。明日朝一番で胃カメラをやって食道と胃を再検査しましょう。それで何ともなければ、明日昼は重湯、夜はお粥、明後日から徐々に普通食に戻していき、便中血液の検査を行うことにしましょう」

「はい、分かりました。早く食べたくてうずうずしていますので、本当に明日が待ち遠しいです。有難うございました」

 健次は満面の笑みを浮かべてお礼を言った。


 翌日も朝は絶食し、午前中の早い時間に食道と胃の内視鏡検査と組織の採取が行なわれた。昼前になると主治医が病室に現れた。

「聖滝さん、調子はいかがですか?」

「はい、お蔭様で気分は良いです」

「そうですか、それは良かった。検査では、食道の潰瘍は治りつつありまして瘢痕化しています。原因がそこだとすると、出血の心配はもうありません。昼から重湯やお茶などの水分が摂れますよ。ただですね、水分の多い食事なのですが、直ぐに飲み込まず、ゆっくりと噛むようにして食べてください。その後、貧血にならないように注意しながらご飯にしていく予定です」

 昼になって10日ぶりに健次は本当に美味しそうな顔をして重湯をすすることができた。


 翌日の日曜日には朝から全粥となった。

「ああ、美味しい!」

 健次は心の底から感嘆の声を上げた。

 昼過ぎに健次担当の看護師がやってきた。

「聖滝さんは月曜か火曜に退院ですよ」

「だけど、俺はまだ全粥だから、退院できるのは普通食になってからだろう?」

「いいえ、あの先生なら全粥の時でも退院させると思いますよ」

「そうなるといいなあ」

 月曜日の昼直前、主治医と若い担当医が回診にやってきた。

「聖滝さんは経過が良いし、出血した所も瘢痕化しているので、今週中に退院していただくことになります」

「そうですか。良かった」

「ただですね、食事は始めのうちは刺激物を避けて柔らかい物を食べるようにしてください」

「酒は半年くらいダメなんでしょうね?」

「そんなに長くなくても……。まあ、体の調子を見てやってください。ただし、飲み過ぎないようにしてくださいよ」

 医師たちが病室を出ていくのを健次は嬉しそうに見送った。

 午後になって主治医がまたやってきた。

「それでは明日退院していただきます。その後は7月7日に一般外来で担当の先生の診察を受けてください」

「はい、分かりました。本当に有難うございました」


 火曜日の午前中、会計を済ませた後、めでたく健次は退院し、由美子が運転する車で久しぶりに自宅に帰ることができた。三人で家の中に入ると、健次は心から安心したような表情になった。そんな様子を感じ取ることができたのか、チヨも嬉しそうな顔になった。


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