第1部.発症と出会い 1-5.再会
1週間弱の短い日数ではあったが、チヨと共に過ごした淳一と由美子は、改めて健次の大変さを実感した。淳一が研究所の図書室で母の病状について調べてみると、チヨはアルツハイマー型の痴呆症を発症したように考えられた。そうだとすると、現状では良くなることは全く期待できないと記載してあった。このままじっと待っていても何も解決しないことが明白になったように思われた淳一は、今の苦境から逃れるきっかけにしたいとの思いで、1991年11月初め、もう一度K老人病院に行って現状報告を行ない、入院する方向で話を訊いてみることにした。
K老人病院では前回と同じく大野優子が対応してくれた。淳一はこの1年間のチヨの様子を事細かに報告した。
淳一の説明が終わるのを待ってから、大野はK老人病院の現状を要領よくまとめて説明してくれた。大枠は前回の説明と大差はなかったが、淳一が酷く驚いたのは、この間に入院を希望する患者数は減るどころかずいぶんと増えてしまったという事実であった。淳一はこの病院の評判の良さを改めて思い知らされた気持ちになった。
かなりの時間を割いて大野と話をさせてもらっているうちに、淳一は次第に自分の考えが一つに収束されていくように思えた。それは、『できるだけ早くチヨをこの病院に連れてきて受診させることから始めなければ状況は変わらない』ということであった。
帰りの送迎バスの中で、淳一は自分や両親が置かれている現状を恨めしく思った。会社では自分がやりたい研究はできず、専門外の分野の研究を強いられていて、成果なんて挙げられるはずのない状況であり、当然のことながら仕事に対する意欲は湧き上がってこなかった。その上、母チヨがこのような状態になり、本来温厚で物事を達観しているはずの健次までもが精神的に不安定になってしまっていた。
「一体、自分や両親がどんな悪いことをしたと言うんだ。これまで真面目に生きてきたというのに、あんまりじゃないか」
世の中が恨めしくさえ思われた。
送迎バスを降りると、ふと昨年飲んだワインのことが淳一の頭を過ぎった。
「あの仙人、今日もあの食堂にいるのかな? 腹も空いたし、あそこに行ってみようかな」
淳一は線路に沿った道を1年前とは違ってかなり速足で歩いた。目的の食堂に到着すると、期待と不安とが入り混じった気持ちで重たかったはずの引き戸を力一杯開け始めた。すると、戸は思いの外軽く、大きな音をさせて全開になった後、半分位まで戻ってしまった。
「あっ、ご免なさい。以前は随分と重かったように記憶していたものですから」
淳一は驚いた表情でこちらを見た店主に謝った。
「いや、いいんです。先週、引き戸の滑りがよくなるよう調整したばかりだったんです。前はそんなに重かったんですね。こっちが謝らなければいけませんね」
店主の笑顔と言葉とで淳一は救われた気持ちになって前回座ったのと同じ長い方のカウンターの端に腰を落ち着けた。
「今日は岩茸石仙人がこの店に来る予定はないのでしょうか?」
「あの人はちょくちょく来るわけではないんですけど、ちょうど今日は間もなく来ると連絡がありました。お客さんはラッキーですね。あははは」
「そうですか。それは良かった。それじゃ、大丹波定食でもいただきながら待たせてもらおうかな。いいですか?」
「はい、勿論です」
そう言って店主はコップに入れた水とポリ袋に入ったおしぼりを淳一の前のカウンターの上に置いた。淳一は前回仙人と初めて会った時の話のいくつかを思い出してみた。今日はどんな会話ができるのか楽しみだなと思ったところに定食が出された。
「はい、お待たせしました。この梅干しはこの辺りで栽培された梅を漬けたものです。サービスしますので食べてみてください」
「それは有り難い。いただきます」
淳一が味噌汁を一口啜ると入口の引き戸が静かに開けられた。入口から柔らかな風が入り込んで来るかのように、滑らかな動きで岩茸石仙人が入って来た。
仙人の風貌は身に着けているものも含めて1年前とほとんど変わりないように淳一には思われた。仙人は淳一が仙人を見ているのを全く感知していないかのような素振りで、自分の定位置であるL字型のカウンターの短い方の隅に座った。
店主は何も訊かずに黙ったままワイングラスを仙人の前に置き、注文を待った。
「ああ、いつものでいいよ」
店主は黙ったまま頷くとキッチンに入り、しばらくしてからニジマスの塩焼きとワサビ漬けを仙人の前のカウンターの上に静かに置いた。仙人はリュックから赤ワインを取り出し、スクリューキャップを捻ってワイングラスに注ぎ、芳香を楽しんだ後一口含み、舌の上で転がしてから本当に美味そうに飲み込んだ。
淳一は自分の食事には手を付けず、仙人の様子をずっと見ていたが、相手は一向に淳一のことを自分の視界に入れてくれなかった。
「仙人、先ほどからあちらの方がお待ちになっているんですけど」
しびれを切らした店主が仙人を促した。
「ああ、そうでしたか……」
そう言って仙人は淳一の方に視線を送ったが、直ぐには誰だか分からない様子であった。
「あのー、1年前にここで赤ワインをご馳走になった者ですけど、覚えておられませんか?」
そう言われて仙人はさらに集中して淳一を見つめるとようやく顔が綻んだ。
「ああ、思い出しました。あの時、私と一緒にワインを飲んでくれた人でしたね」
「あの時はご馳走様でした」
「いやいや。高価なワインならいざ知らず、安物のワインなんですからあまり感謝されてしまうとこっちの居心地が悪くなってしまいますよ。あははは」
仙人は優しく笑った。
「今日も一緒に飲みますか?」
「はい、できれば」
「それなら、その席は遠過ぎます。私の近くに来ませんか?」
淳一は嬉しそうに自分の定食のお盆を持ってカウンターの長い辺のもう一方の端に移動した。淳一が座ると店主が間髪を入れずにワイングラスを淳一の前に置いた。仙人がグラスに注いでくれるのを待って軽く乾杯し、一口含んで改めてその香りと味を楽しんだ。
「ところで、あなたのお名前は何といわれるのですか? 乾杯したのにどなたかも知らないのでは悲しいですからね。おっと、先ず自分の方から名乗るのが礼儀でした。私は『おくたまゆうと』ということになっているんです。『おくたま』はこれより奥の地域名の『奥多摩』で、『ゆうと』は『遊び人』と書くんです。それで『奥多摩遊人』です。よろしくお願いします」
それを聞いた店主が口を挟んだ。
「お客さん、奥多摩遊人っていうのは多分ペンネームか何かですよ。誰もこの人の本名は知らないんです。まあ、だれも本名なんて知りたいとは思いませんけどね。岩茸石仙人で十分ですから」
仙人は店主に対して反論もせずにこにこ笑っているだけであった。淳一は多分そんなところであろうと思いながら自己紹介を始めた。
「はい、それでは私も仙人と呼ばせていただきます。申し遅れましたが、私は聖滝淳一と申します。つくば市にある製薬会社の研究員をしております。実は、母がどうも痴呆症になってしまったようで、一緒に暮らしている父が本当に大変そうなのです。それで、何とかしてあげたいと思っているんです」
「ああ、それで評判のすこぶる良いK老人病院に来たということですね」
「はい、その通りです」
仙人は淳一の素性と行動目的が分かったためか穏やかな表情でしばらくの間黙って魚を摘み、ワインを味わっていた。淳一も自分の食事を食べることに専念した。淳一が食べ終わるのを確認したのか、仙人は店主に追加の注文をした。
「マスター、ワインの摘みになるようなものを出してくれませんか」
店主は頷くと奥に下がり、ウインナソーセージを炒めたものとチーズを出してくれた。
「こんなメニューもあったんですね、この店には」
淳一が驚いたように言うと、店主は苦笑いしながら応えた。
「これは仙人専用の裏メニューなんです。普通のお客さんには出しませんよ」
淳一は頷くだけにしておき、ご相伴に預かった。暫くの間、二人は静かにワインを飲んでいたが、仙人が沈黙を破った。
「ところで、聖滝さんのお母さんの病状は相当進行しているのですか?」
「いつも母と一緒に暮らしている父は、母の病状はもう我慢の限界を超えていると思っているようです。最近父が中国旅行に行きました。たった1週間弱だったのですけれど、母を私の家に連れてきて一緒に過ごしたのです。母の面倒を看るのは本当に大変でした。父の心情が少しは理解できたような気持になって、今日再びK老人病院の様子を訊きに来たのです。ただ、母は病院に行くことを酷く嫌っていますので、まだお医者さんに診察していただいたことはないのです」
「なるほど。それじゃ、お母さんはまだ自分の意思で歩いたりできるわけですね?」
「はい、昔から足は達者だったので、今も元気に歩くことができています」
「聞くところによると、K老人病院では徘徊のある患者は入院することができないそうですよ。聖滝さんのお母さんが痴呆症だとして、体は元気に動くようですと、徘徊は避けて通れないことなのかもしれませんしね」
「そうなんですか……。うちの母は徘徊するかもしれないんだ……」
「徘徊のことはとりあえず置いておくことにして、あの病院じゃ、入院待ちの患者が沢山いるそうですから、聖滝さんも早めにお母さんを連れてきて診察を受けておいた方が良いのではないでしょうか」
「はい、医療ソーシャルワーカーの方にもそう言われました」
淳一はすっかり気持ちが沈んできて暫らくの間黙ってワインを飲むだけになった。仙人も静かに飲んでいたが、また質問した。
「聖滝さんは製薬会社で研究されていると言われていましたね。今、製薬業界はグローバルに競うようになってきたので、大変でしょう? 日本で1番くらいのことじゃダメで、世界で1番の薬を創らないと、世の中に製品として送り出すこともできないそうですね」
「本当にそうなんです。仙人はよくご存知ですね」
「いや、上っ面だけしか知りませんけど。昔は一応海外勤務などを長くしていたものですから、グローバルな視点で物事を見る習慣が付いたようです」
「私はずっと植物や微生物などの天然物から薬の種になる化合物を探す研究をやってきたのです」
「ほう、面白そうな仕事ですね。ただ、天然物研究で輝かしい成果が得られたのは今より少し前のことのように記憶していますが?」
「確かにそうなんです。良さそうな活性を示す化合物を見つけたとしても、もう既に誰かが過去に発見していて、私たちの成果にはならないことが多いんです」
「美味しい所は既に持って行かれてしまっているという訳ですね」
「まあ、そうなんですが、それでも、活性を測定する方法や、目的の化合物を分離する方法や、得られた化合物の構造を明らかにする方法には著しい進歩がありましたから、まだまだ素晴らしい発見はできると私は信じているんです」
「なるほど。ただ、それを具現化するのはそう簡単ではないというところなのですね?」
「はい、そんなところです。少し前、研究所のトップは私たちの行なってきた研究を中止する決定をしたんです。そのため、私たちは自分の専門ではない化学合成の研究をせざるを得なくなっているのです」
「研究所に行くことさえ、自分で気合いを入れないと出来難い状況になってしまったということですね?」
「はい、正にその通りなんです。それに加えて母が痴呆症になってしまったようですので、自分たちの現状を嘆きたくなっているのです」
「気持ちはよく分かりますよ」
「こうなる前の母は本当に優しくてしっかりした人間でした。よく働いたし、常に明るく前向きで、曲がったことなど絶対にしなかったのです。家庭は裕福とはとても言えませんでしたけれど、母がいてくれたお蔭で私たち子供は良い環境で育ててもらえたと思っているんです。それなのに……」
「この世には神も仏もいないのか、と嘆きたくなっているわけですね」
淳一は大きく頷いた。
「先ずはお母さんの病気のことから話しましょうか。K老人病院では昨年よりも入院待ちの患者数が増えたそうですが、今の日本では痴呆症患者への対応がそれだけ深刻な状況になってしまっているということなのでしょうね。聖滝さんのところの状況は、非常に多くのそのような事例の一つに過ぎないとも言えるわけです。つまり、あなたたちだけが酷い目に遭っているという捉え方はしない方が良いということです。他にもっともっと酷い状況の人間たちが結構な数、存在していると捉えれば、『何故自分だけが』という思いは薄らぐのではないのでしょうか」
「確かにその通りなのかもしれませんね……」
「それから、研究の現状を嘆いておられましたが、私が思うに、そもそも研究とは本来そういうものなのではないのでしょうか。つまり、『研究のほとんどは成功しない』ということです。まだ誰も到達していない高いレベルを探し求めている訳ですから、そんなに簡単ではないことは明らかだと思います。『諦めた時点で終わりは来る』というのが真実なのではないでしょうか」
「私個人としては全く諦めてなんかいないのですけど……。研究所の責任者はそうは思ってくれないようなのです」
「まあ、状況というものは、移ろっていくものですからね。『聖滝さんの方に良い風が吹くのを待つ』ということも一つの選択肢なのではないかと思いますよ」
しばらく黙って考えていた淳一であったが、目を仙人の方に向けて言った。
「仙人のおっしゃる通りなのかもしれません。暫く我慢して過ごしてみたいと思います。有難うございました」
淳一は仙人が注文した追加分の摘み代と大丹波定食の代金とを支払って、店に入った時よりは随分と明るい表情で店を出た。