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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
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第1部.発症と出会い 1-3.仙人

 翌朝、研究所での精神的な疲れが一晩寝ても取り切れない淳一は、かなり遅い時間になってから寝床から起き出して、ゆっくりとブランチを取った。この頃はまだつくばエクスプレスが敷設されることさえ一般的には知られていない状況だったので、由美子に片道30分以上かかるJR常磐線の最寄り駅まで車で送ってもらった。

そこから電車をいくつか乗り継いで東京郊外にあるK老人病院の最寄り駅に着いた。裕子から教えてもらっていた病院の無料送迎バスに乗るつもりだったが、直ぐにはどこがバス停なのか分からず駅の周りを探し歩いた。やっとのことでお目当てのマイクロバスを見つけて乗り込み、午後2時過ぎになってようやくK老人病院に辿り着いた。

 受付で自分の名前を告げ、昨日電話で依頼したことを簡単に説明すると、直ぐに小さな面談室に通された。そこで少しの間待っていると、中肉中背で四十代と思われる女性が入ってきた。

「聖滝様でいらっしゃいますか?」

「はい、昨日お電話致しました聖滝淳一です」

「私は当病院の相談室で医療ソーシャルワーカーをしております大野優子と申します。本日は遠い所からいらしていただきましてお疲れ様です」

「いえいえ、こちらこそお忙しい所にお邪魔してしまって申し訳ありません」


 病院からの景色が良いことなどを挨拶代わりに話した後、淳一は母チヨの最近の状況と、それに付き合わせられて困惑している父健次の様子を具体的に話した。大野は時々相槌を入れるだけで、淳一の話の腰を折るようなことは一度もせずに真剣に聞いてくれた。淳一が予め用意してきた話をし終わるのを確認した後で、大野は淳一が欲しがっている情報を一つひとつ丁寧に説明し始めた。

この病院の基本理念が、現院長の年老いた母親を安心して託せる老人病院を創りたいとの強い気持ちから定められたこと、医師や看護師やベッドの数などの病院の規模、診療科目、外来・入院についての概要等を詳細に説明してくれた後、入院希望者の現状についても話が及んだ。

 現在、入院している患者は五百人程度であり、入院希望を表明後ベッドが空くのを待っている人もほぼ同じ数存在しているとのことであった。淳一は直前に裕子からこの病院の評判の良さについて聞かされていたとは言え、実際に入院待ちの人数を知らされるとただ驚くばかりであった。母の現状から考えると今直ぐにでも入院させたいくらいの気持ちでここに来たものの、そんなことは夢のまた夢のように思われた。

 最後に大野が言った。

「今申し上げましたような状況でございますので、聖滝様におかれましても、早めに当院の外来で受診されるのがよろしいのかと思います。ご検討いただければ幸いです」

「本当にご丁寧に説明していただきまして、有難うございました。つくばに帰りまして父とよく相談してみたいと思います」

 淳一は心からお礼を言って病院を出た。


 淳一は送迎バスの発着所のベンチに座り、少し前に説明された内容を振り返ってみた。担当者の説明や短い時間ではあったものの自分自身で感じた病院内の雰囲気から、医師を含めたここの職員は患者やその家族に対し非常に親切であり対応も良さそうなことが想像された。だから入院待ちの数は信じられない多いのであろうと思った。

 母チヨにはこの病院は大変良い病院だと判断しても良さそうであったが、入院させることができるのはいつの日か予想も付かない状況であるという事実も受け入れなければならなかった。また、入院費用についての説明もあったが、一番安い大部屋に入ったとしてもかなりの金銭的負担を生じ、父がそれに耐えられるかどうかがもう一つの懸念材料であった。淳一はこれらのことが気になり、かなり気分が沈んだ。

 送迎バスが来たので出発時刻前ではあったが淳一はステップを上がり、運転手しか乗っていないバスの一番後ろの席に座った。出発間際になって数人が慌ただしく乗り込んできたので、少しほっとした。


 十数分バスに揺られた後、JRの最寄り駅前で降りた淳一は切符売場の方に歩き始めた。時刻は午後5時を過ぎていた。

「何だかお腹が空いてきたな」

 踵を返すと、線路に沿った道をぶらぶらと歩いた。レストランらしき店は直ぐには見当たらなかったが諦めずに歩いていくと、駅からかなり離れた所に食堂があった。店の外側の柱に小さな板で作られた年季の入った看板が掛けてあり、その上に『食堂大丹波川(おおたばがわ)』と書いてあるのが辛うじて読み取れた。

 うすら寒くなった夕方、随分と探し歩いた後でようやく見つけた食堂であり、淳一には他の店を捜し歩く元気は残っていなかった。

「まあ、いいか。ここで我慢しよう」

 お世辞にも綺麗とは言えない外観をした食堂の重たい引き戸を開けて淳一は中に入った。狭い店内を見渡すと、4人掛けのテーブルが2つとL字型のカウンターが備えられていた。先客は男1人だけで、短い方のカウンターの隅に座っていた。淳一は店に入る前に想像していたものとは随分と異なった雰囲気を感じて一瞬たじろいだが、少しばかり勇気を出して先客からは最も離れている長い方のカウンターの端に座った。


 店の中は異様な雰囲気が漂っていた。その男が座っている辺りは、バーチャルな世界が広がっているかのように現実味が乏しく、どこからか時空を超えてこの場所に男の姿が送り込まれているではないかと思われた。

 その男の下半身はカウンターに隠れていて確認できなかったが、色褪せたデニムのジャケットを着て、白い色が混じった口髭と長い顎髭とを生やしていた。頭は白髪にほんの少しの黒髪が混じり、長く伸ばして後ろで一束にまとめられていた。体型は細身ではあるが、服の下には鍛え上げられた筋肉質の肉体が存在しているように淳一には感じられた。一重の目はやや切れ長で眼力は異様に鋭く、鼻筋は通り、唇は境界がはっきりとしていて意志の強さを連想させた。とにかく尋常な風貌には見えなかった。

「仙人のオーラが飛び交っているような人だな」

 そう思った淳一がそれとなく見ていると、その男はグラスに注がれた赤ワインを一口含み、舌の上で転がすようにして味わった後、とても美味そうに飲み込んだ。


 淳一は数少ない品目しか書いてないメニューを手に取って眺めた。

「あのー、ここに書いてある大丹波定食って、どんなものが出るんですか?」

 じっと淳一からの注文を待っていた店主が応えた。

「大丹波川で釣れたニジマスの塩焼きとこの辺りで採れた野菜のサラダ、それからワサビ漬けと味噌汁も付きます。もちろんワサビも大丹波川上流の清流で栽培されたものです」

「そうですか。それじゃ、それをお願いします。あっ、それから私にも赤ワインを1杯頂けますか?」

「あのー……、お客さん、済みません。ここではワインは扱っていないんです。あの人が飲んでいるワインは自分で持ち込んだものなんです。申し訳ありません」

「そうなんですか、分かりました」

 このやり取りを聞いた先客が初めて口を開いた。

「安物のワインだけど、よかったら1杯どうですか?」

「えっ、頂いてもいいんですか? ご自分のワインなのに申し訳ありませんね」

「いや、構いません。私にはフランス産の高級ワインには手が出せませんが、北米や南米などでもフランスのブドウの品種が栽培されていて、安くて良いワインができるんです。この赤は当たり年のものなんですよ。マスター、グラスを1つ出してくれませんか」

「はいはい、分かりました」


 先客はボトルを持つと音も立てずに立ち上がり淳一の傍に来た。店主がテーブルの上に置いた大きなワイングラスの半分にも満たないくらいを注ぐと、ゆっくりと戻っていった。席に戻ると自分のグラスを持ち上げて乾杯のポーズを取った。淳一もそれに応え、振舞ってくれたことに感謝の意を表した。鼻先に立ち上る芳香を嗅いでから口に含み、先客が行なったように舌の上で転がしてから喉に流し込んだ。

「おお、これは美味い。芳醇な香りとかなりしっかりとしたタンニンが舌を刺激してくれますね」

「それは良かった。フランス産のワイン、特にボルドーやブルゴーニュのものは、製造所、シャトーの名前、等級や栽培年については記載してありますけれど、ブドウの品種名は記載されていないのが普通なんです。基本的にいくつかの種類のブドウ酒を混ぜていて、醸造した年による味や香りのバラツキを少なくしようとしているのだと思います。いわゆる通の人はその詳細も知っているんでしょうけど、私にはそんなことはどうでもよくて、安くて美味いことが一番なんです。

 南米産のワインには、単一品種のブドウから製造され、ブドウの品種と栽培年が記載されているワインが結構ありましてね。ブドウの豊作の年に作られたワインは安くても美味いんです。川魚に赤ワインというのもどうかと思うかもしれませんが、この歳になると『健康にポリフェノールが良い』と言われると盲目的に従いたくなってしまうんです。

 まあ、ポリフェノールには抗酸化力があることは間違いないと思いますが、特異性もあまりなく、色々な蛋白質にくっつく性質があるそうなので、沢山の酵素反応を阻害してしまうようです。そのため、いわゆる試験管内の実験を行なうと、ほとんどの酵素を阻害するデータが出る可能性が高いと考えられます。良い例が、掃き掃除の時、新聞紙を濡らしてばら撒いてから掃くと、綺麗になると言われるでしょう。あれは紙に含まれているポリフェノールの非特異的な吸着反応によるんだと私は考えています。だから、色々な実験では明確に阻害活性が出るのではないか、と。でも生体は非常に複雑で、無数とも言える酵素反応が行われている場なので、本当にどんなポリフェノールでも体に良いことを証明するのは、そう簡単ではない、と私の頭の中では考えているのです。その一方で、『お酒を飲みたい』という欲望も強烈にあって、そっちに引きずられた結果、理性はしばし沈黙してしまうのですね。あはははは」

 仙人風の先客は嬉しそうにそう言うと、自分のグラスに残っていたワインを飲み干し、淳一からのお礼の言葉を浴びながら物音をほとんど立てずに食堂を後にした。


 淳一は黙ってしっかりとした味の赤ワインと大丹波川の自然の恵みとを味わった。食べ終わってからも先ほどの男が気になって仕方なかった。しばらくの間躊躇(ためら)っていたが、勇気を出して店主に訊いてみた。

「あのー、今の仙人みたいな方は一体どのような方なのでしょうか?」

「ああ、あの人はこの辺じゃ、岩茸石仙人いわたけいしせんにんと呼ばれている人なんです」

「えっ、本当に仙人だったんですか!」

「いやいや、仙人みたいな格好をしていてかなり変わってはいますけど、本当の仙人ではありません。今は自給自足みたいな生活をしているんですが、若い頃は一流企業に勤務していて、数カ所の海外事業所に何年も駐在していたそうですよ。

 定年を数年残して早期退職し、今のような生活を始めたようです。奥多摩に岩茸石山という山があるのですが、その麓の掘っ立て小屋みたいな家で、ほんの少しの土地に野菜を栽培して生活しているんです。何か事情があるらしくて年金は自分のためには使えないようなんです。それで、肉や米などを買うのに最小限の現金も必要なので、近くの沢の小さなワサビ畑を借りて栽培しているんです。他にも大丹波川や周辺の渓流でヤマメ、イワナ、マスなんかを釣って地元の料理屋にそれを売って幾ばくかのお金を得ているようです。それでも足りない時はアルバイトをしているんです」

「どんなアルバイトなんですか、差し障りがなければ教えていただけませんか?」

「仙人は仕事でアメリカとドイツに住んだことがあるそうで、英語とドイツ語の翻訳をしているそうです。出来上がると出版社に持ち込んでお金を貰い、その帰りに必ずここに寄って、自分で買ってきたワインを飲みながら食事をしていくんです。

 この店がまだ大丹波川の近くにあった頃、川魚やワサビをあの人から仕入れたことがきっかけで親しくなりましてね。今でも続いているんです。それ以外にも時々顔を出してくれるんです」

「そうだったんですか。やはりあの人は仙人と呼ばれているんですねー。ところで、あの仙人は何かスポーツでもされているんでしょうか? 余計な脂肪など付いていない筋肉質で強そうな体に見えましたのでね」

「いやね、あまりにも鍛え上げられたような身体つきをしているので、私も同じような質問をしたことがあるんですよ。そうしたら、昔は登山をしていたそうなんですが、ここ何十年もスポーツはしていないと言うんです。その答えじゃ私は納得できなかったものですからしつこく訊いてみたんです。そうしたら、必要な食べ物だけを摂り、野菜作り、ワサビの栽培、魚釣りなどを仕事として行なっていれば、筋肉は自然と鍛えられ余計な脂肪が付くこともないので、あんな身体つきになったと言うんですよ」

「そういうものなんですかねえ。私のような怠け者には到底辿り着くことない境地なのかもしれませんね」

 感心しきった様子の淳一であったが、この時点ではこれから先どれほど岩茸石仙人の世話になるか想像すらできなかった。

 不思議な空間と時間とを味わった淳一は、K老人病院を出た時の沈んだ気持ちが薄らぎ、元気を取り戻してつくばへの帰途についた。


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