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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
33/50

第2部.想定外 2-32.腸閉塞手術

 5月24日の火曜日も午前中から四人揃って病院に行くと、看護師が歩み寄ってきて、担当医から話があると告げられた。しばらくしてからナースステーションに呼ばれ、担当医が待っていた会議室に通された。

「私が聖滝さんを担当しています野口です。いくつかの検査結果から、聖滝さんの酷い腹痛や吐き気は腸閉塞によるものではないかと考えています。腸閉塞にはいくつかの種類があるんですが、もしかすると絞扼性こうやくせいの腸閉塞、いわゆる腸捻転と言われているものではないかと考えています。そうだとすれば、手術して問題の部分の小腸を切り取ってしまうしか方法はありません。もう少し経過観察をしてみますが、腹痛や吐き気が酷くなるようでしたら、早めに手術した方が良いと思っています」

「分かりました。手術をするかどうかの判断はいつ頃になるのでしょうか?」

 淳一が訊いた。

「聖滝さんの状況次第ですが、手術室の確保なども考慮する必要がありますから、手術は来週になってから行なうことになるかもしれません」

「そうですか。どうかよろしくお願い致します」

 淳一は健次の病名が分かってほっとしたものの、85歳になっていた健次が手術を受けなければならないことへの懸念が頭をもたげてきて、再び不安な表情になった。


 淳一は由美子を残して一人でつくばに帰った。27日の金曜日までは研究所での仕事が忙しく、土曜日の朝になってから病院に向かった。病院に着くと、その日も朝から健次の付き添いを行なっていた由美子から状況を話してもらった。

「あなたがつくばに帰った後もお義父さんの状態はほとんど変化がなかったと思うわ。ただ、今日は少し前に便が出たの。看護師さんは腸が機能していると考えられるから良かったのではないか、って言っていたわ」

「そうか、便が出たのか。良かったな」

 便が出たのだから健次も程なく回復してくれるかもしれないと思った淳一はかなり気持ちが楽になった。

 その日と翌日、ほぼずっと健次の入院している病院で過ごした淳一は、健次の容態が小康状態を保っていたので、日曜日の晩、由美子を残して再びつくばに引き返した。心配性の真理は商売のことは夫に任せきりにしてずっと甲府の家には帰らないでいた。 


 6月1日、淳一は研究所から帰宅し、由美子へ電話した。

「父さんはどう?」

「あなたがいた時とそれ程変わりはないように思えるんだけど、担当のお医者様が言うには、腸捻転の可能性が高いから手術した方が良いということなの」

「えっ、手術することになったの……。それで手術の日にちは決まったの?」

「明後日の3日の金曜日の午前中になるっていう話だわ。あなたはこちらに来られるの?」

「ああ、そうなんだ。それじゃ、3日は休暇を取って朝早くこちらを出て病院の方に行くよ」

「気を付けて運転してきてね」


 手術当日の午前9時には淳一は健次が入院している病院の中にいた。既に病院に来ていた真理と裕子からも話を訊いたが、由美子に聞いたこととほとんど同じであった。

 健次は手術室に入った。子供たちは皆で心配していたが、予め告げられていた終了時刻の少し前に手術室から執刀医が出てきて、手術は上手くいった旨を告げてくれた。健次も暫くして手術室から移動式ベッドに寝かされたまま外に出てきた。皆で病室に引き上げると直ぐに担当の看護師が入って来た。

「聖滝さんのご家族の方に執刀医の先生が説明致します。私と一緒に来ていただけますでしょうか」

 由美子は健次の傍に残ってもらい、三人は看護師について小さな会議室に入った。

 そこには執刀医が手術着のまま座っていた。

「聖滝健次さんの手術は成功しました。予想通り、小腸の一部が縛られたようになっていて腸閉塞を起こしていたのです。そのため、縛られていた部分を切除し、切除部分の上下を繋ぎました。傷口が治れば腸としての機能は回復するものと思います。これが聖滝さんから切除した小腸です」

 そう言って執刀医はガラス製の比較的大きな透明の瓶に入れた切除物を皆に見せた。

「うわっ、思っていたより大きいですね」

 淳一は自分の感想を率直に言った。

「そうですね。小腸がぐるりと一捻りして縛れた状態になっていましたので、切除部分もかなりの大きさになってしまいました」

 三人は少し前までは父の体内にあった臓器の一部をしげしげと見つめた後、医師にお礼を言わなければならないことに気付いた。

「先生、本当に有難うございました」

「手術は成功しましたが、聖滝さんはかなりご高齢になられていますので、予後の管理が大切です。ご高齢の方は免疫が下がってきていますので、感染症には注意しないといけません。特に肺炎は怖いので、痰はしっかりと吐き出すようにしていただきたいと思います」

「はい、分かりました。本当に有難うございました」

 そう言って三人は深々と頭を下げた。

 淳一は翌日も病院に行き、健次の様子を見守った。健次は医師や看護師に推奨されたことをしっかりと守って痰を一所懸命に吐き出していた。健次のそんな元気そうな様子に安心できたので、淳一は由美子と二人でつくばに帰った。真理も手術が成功したことと健次の元気そうな様子に納得できたのか久しぶりに甲府に帰っていった。


 6月8日午後遅く、研究所にいた淳一に裕子から電話があり、健次の容態が急変したとの知らせがあった。淳一の仕事は本当に忙しい時期に差し掛かっていたが、取り敢えず翌日の休暇を申請してから家に帰り、由美子を乗せて慌てて病院に向かった。到着すると直ぐに病室に入ったが、健次は酸素マスクを付けていて話ができない状況であり、指には血中酸素濃度を測定するためのクリップ状の測定器が付けられていた。真理も甲府から駆けつけてきたので、担当医の所に行き由美子を含めた四人で話をしてもらった。

「聖滝さんの手術そのものは全く問題なかったのですが、誤嚥ごえん性肺炎を起こされてしまったのです」

「父はティッシュボックスを布団の上に置いて、一所懸命に痰を出していたんですけど……」

 子供たちを代表する形で淳一が質問した。

「はい、高齢の方は若い方と比べると肺炎になり易いのです。高齢の方はどうしても呑み込むこと、これを嚥下と言いますが、この力が衰えてきています。そうすると、食べ物や飲み物が胃ではなく肺の方に間違って入ってしまうことが起こります。これを誤嚥と言います。その時、口の中で増殖した菌が食べ物や飲み物といっしょに肺に入って誤嚥性肺炎を起こすことがよくあるのです。

 食べ物や飲み物にむせてしまうことがありますよね。これも確かに誤嚥なのですが、これは自分自身で気付くことができます。だから『顕性けんせい誤嚥』と呼ばれています。高齢者の場合、嚥下機能の衰えが主な原因で誤嚥が起こります。例えば、就寝中に無意識のうちに唾液が気管に入り込んでしまって誤嚥が起こります。その時に口の中の雑菌も併せて気管に流れ込んでしまうのです。これを『不顕性誤嚥』と言って、『顕性誤嚥』よりもずっと怖いのです」

「そうなんですか。今後はどのような処置をされるのでしょうか?」

「聖滝さんが排出された痰に含まれている菌を調べまして、その菌に効果のあるとされている抗生剤の投与をしていきます」

「そうですか、どうかよろしくお願いいたします」

 四人は担当医に頭を下げると病室の方に向かって歩いた。


 健次の病室の手前に細長い椅子が設置してあった。淳一は三人にそこに座るよう勧めた。

「父さんは看護師さんが看ていてくれるだろうから大丈夫だろうと思うよ。今後の事を話しておこうよ」

「そうね、その方がいいわよね」

 真理が同意してくれたので、他の二人も長椅子に座った。

「父さんも今年85歳になったところなので、実はちょっと心配していたんだよ」

「何を心配していたの?」

 今度は裕子が訊いた。

「高齢者の肺炎は本当に怖いんだよ。日本人の死因の上位2つはがんと心疾患なんだけれど、第3位は肺炎なんだ。それで、高齢者の肺炎の約7割は誤嚥性肺炎が占めるということなんだよ。高齢者の増加に伴って肺炎の患者数も増加してきていて、直接の死因にはならない場合でもベースに肺炎があることが凄く多いように思っていたんだ。若い人にとっては大した細菌ではなくても、高齢者は免疫力が落ちてくるので負けてしまうことがよくあるようなんだ」

「それって、日和見ひよりみ感染で亡くなってしまうかもしれないってこと?」

 心配性の真理が引き攣ったような顔で訊いた。

「ああ、そういうこともある程度覚悟しておかなければいけない状況になってしまったということだね」

「私はてっきりお父さんがお母さんのことを看取ってくれると思っていたんだけど、そうはならないかもしれないのね」

 今度は裕子が心配顔で言った。

「母さんのことは父さんに任せきりにしてきたけど、今からは我々で協力して母さんの面倒を看ていかなければいけないね」

 皆元気なく頷いたものの、重苦しい沈黙が四人を包んだ。


 翌日になると、投与された抗生物質が効いてきたのか、健次の容態はずいぶん安定してきた。夕方になってもずっと安定していたので、淳一は一人でつくばに帰り、翌朝研究所に顔を出した。仕事は山ほどあり、健次の容態次第ではまた休暇を取る必要があるかもしれなかったため、必死になって処理した。金曜日は深夜まで研究所にいたので、翌日9時過ぎになってから淳一は再び健次の病院に車で向かった。

 健次はこの日も翌日もずっと小康状態を保ったままであったので、淳一と由美子はいくらか安心できるように思い、日曜日の夕方つくばに帰った。淳一は月曜日と火曜日は研究所に出勤したが、担当業務には相手と対面して行わなければならないこともかなりあるため、必死に調整に努めた。


 業務が一段落してから裕子に電話してみると、健次の状況はあまり芳しくないとの返事だった。火曜日の夜遅く、翌日休暇を取る手配をしてから車で由美子と一緒に健次の生家に向かった。

 生家に着くと直ぐに裕子に訊いた。

「父さんはどんな具合なの?」

「先生が毎日のように肺のレントゲン写真を撮っているんだけど、肺炎は治っていないみたいなの」

「耐性菌にでも感染してしまったのかな……」

「先生に訊いてもあまりはっきりとした答えは返ってこないのよ」

「そうなんだ……。治療はあまり順調にはいっていないようだな」

「そんな雰囲気ね」

 今度は由美子が裕子に訊いた。

「お義父さんは今もお話しされているのでしょう?」

「それがね、そうでもないのよ。呼吸が楽ではなくてあまり喋れないので少し苛々しているの」

「そうなの……」

 由美子は落胆したような声で応えた。

 翌朝、面会時間が始まる時刻には淳一と由美子は健次の病室の中にいた。健次に優しく言葉を掛けたが、裕子が言ったように健次はいちいち応えるのが面倒くさそうであった。何事にも先に手を打っておこうとしていた健次が、今はただ自分を流れの中に置いたままどうしようもできない状況に甘んじている様子を見ると、淳一は居た堪れない思いであった。

 淳一は次の日と翌々日の二日間はどうしても研究所に出勤しなければならなかったので、その日の夜、由美子と二人でつくばに戻った。


 6月18日の土曜日の早朝、淳一はJRの最寄り駅まで由美子に車で送ってもらい、電車を乗り継いで一人で健次の入院している病院に行った。

 健次の腕には点滴のための留置針が刺されていた。点滴は以前からされており、この時が初めてではなかったが、どんなものが健次の体内に入れられているのか見たくなり、改めて表示されている文字を読んでみた。

「これは抗生物質Vだな。まだまだ肺炎は治っていないようだな」

 淳一は独り言を言った後、自分の声が大きかったことに気付き、心配になって父の顔を見た。健次は聞こえなかったのか、あるいは聞こうとしていなかったのか、全く反応した様子はなかった。


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