第2部.想定外 2-29.ペースメーカー
2001年4月、二泊三日で健次たちの戦友会が茨城県で行われることになった。初日は夕方つくばに集まってホテルに泊まるだけであったので、淳一は開催日の朝、車で健次を迎えに行き、つくばの自宅に連れてきた。夕方になって一風呂浴びて浴衣に着替え、淳一と差し向かいになってビールを味わいながら健次は言った。
「俺がつくばの家を離れたのが1997年8月で、今が2001年4月だから、3年8カ月も経ったんだなあ」
「母さんがK老人病院に入院してから間もなく4年にもなるんだね」
「そうだな……。長かったような気もするし、短くも感じるな。でもチヨの病状は確実に進んでいっているように思うんだよ……。俺も80を過ぎたし、いつまで体が持つかどうか……」
「父さん、そんな弱気なこと言わないでよ」
「ああ、ご免。でもチヨを入院させた時、院長が『この病気は長いですよ』って言っていたことが頭から離れないものでな」
「確かに、長いことは間違いないね」
しばらく二人は沈黙したままであったが、由美子が美味しそうな酒の摘みを運んで来たのをきっかけに戦友会の話になると二人に笑顔が戻った。
翌朝はまだ暗いうちに起きた健次をずいぶん待たせた後、皆で朝食を摂ってから淳一夫妻は牛久沼の畔にあるホテルまで車で健次を送り届けた。健次は淳一たちへの挨拶もそこそこに、戦友たちが待つホテルの中に走るようにして入っていった。
戦友会のいつものメンバーの元気な顔と少しばかり粋がった発言とで健次はその雰囲気に直ぐに慣れ、久しぶりに会ったにも拘わらずまるでずっと一緒にいる間柄のような会話を楽しんだ。
美浦村に住んでいた戦友の一人が幹事になって、マイクロバスや旅行日程を綿密に準備しておいてくれた。先ず霞ヶ浦湖畔に建設された予科練平和記念館を訪れた。大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が茨城県阿見町に設置され、昭和14年に海軍飛行予科練習部、いわゆる予科練が横須賀から移転し、翌年には土浦海軍航空隊が設置されるなど、阿見町は海軍の町として歴史を刻み、その後の戦争の時代を過ごしてきた。予科練平和記念館は資料を保存展示し、戦争の記録を次世代に継承して、命の尊さと平和の大切さを考えてもらうために建設されたそうである。入り口付近に来ると皆いつもの威勢の良い会話は差し控え、襟を正して神妙な顔つきで中に入り、展示物をじっくりと見て回った。
記念館を出てから戦友の一人が健次にそっと言った。
「ここの資料を見ているとやるせなくなるなあ。俺たちは生きて戦争から帰ることができたんで、今の平和な時代を味わえて本当に良かったけど、戦死した同僚には大変申し訳ない気持ちになってしまうよな……」
「本当にそうだなあ……」
二人の会話は続くことはなかった。
昼頃には水戸の偕楽園に到着し、うららかな春の陽に照らされた若葉の美しい園内を散策した後、幹事が予約しておいてくれた仙波湖畔にあるレストランで昼食を摂った。
お腹が膨れたところで、偕楽園から118号線を北上して袋田の滝の見物に行った。以前、チヨがここに来た時のことを淳一から詳しく聞いていたので、健次は駐車場からトンネル内を歩き、エレベーターに乗って滝が見える所に辿り着くまでの間のいくつかの場所でチヨの言動を想像してみた。健次の頭にはチヨが一所懸命歩いている姿が映像として浮かんできた。
「しかし、昔のチヨは本当に良い女房だったなあ……。裕福な暮らしをさせてあげることはできなかったにも拘わらず、チヨは子供たちをしっかりと育ててくれたんだよな」
目を瞑ると次から次へとチヨが甲斐甲斐しく働く姿が見えた。
健次は家庭と仕事とをはっきりと分けて生活していた。と言うよりも、家庭のことはほとんど全てをチヨに任せていた。家計のやり繰りや子供の躾や教育ばかりではなく、健次の身の回りのこともほとんどチヨが行なってあげていた。健次が朝起きて自分ですることは、トイレに行くことと洗顔と髭剃りと着替えだけであって、整髪は朝食を食べている間にチヨにやってもらっていたし、ネクタイや靴下までチヨに頼っていた。チヨは嫌な顔一つしないで、むしろ大きな眼を細めて健次の面倒を看てあげていた。後に、子供たちから『お父さんはお殿様みたいだった』と皮肉られる程であった。
そんなチヨを健次は本当に愛おしく感じていた。家庭のことはチヨに任せておき、仕事を一所懸命に行なって生活していけるお金を毎月稼いでくることが重要な自分の役割だと考えていた。戦後の不安定な経済の中、毎月給料をチヨに渡し続けてきたことを誇りに感じた。それが、チヨを愛する一つの証であると思っていた。
「何とかチヨが安らかに逝くことができるようにしてあげなければいかんなあ」
健次はボソッと声に出した後、戦友との旅行を楽しんだ。
2002年元旦もチヨはK老人病院のベッドで迎えた。いつもよりは早く面会に訪れた健次が優しく新年の挨拶をしたにもかかわらず、チヨはいつもと同じようにそっけなかった。そんな態度のチヨに怒りもせずに話しかけていると、院長が病室に入ってきて、患者との新年の挨拶が始まった。恒例のこととは言え、健次には本当に有り難く感じられる光景であった。
1月3日、新年の挨拶も兼ねて淳一と由美子はつくばから健次の家にやって来た。型通りの挨拶を交わした後、裕子の誘いに従って二人が家の中に入ろうとすると、健次が外出の準備を整えて車に乗り込もうとした。淳一は苦笑いしながら、裕子に『帰りに寄るから』と言って車の運転席に戻り、由美子と健次を乗せてK老人病院に向かった。
屋上の談話室で昼食の介助を行なった後、チヨを病室に戻し、恒例となったいつもの回転寿司屋でそれぞれが自分の好きなものを注文して食べた。正月価格で普段の値段より随分と高かったが、どこの店に行っても同じようなものだと想像できたので、それ程腹も立てずに支払いを済ませた。三人が車に乗り、健次の家に向かって走り始めると健次が話し始めた。
「淳一、実はこの頃体の調子があまり良くないんだよ」
「どんなふうに調子悪いの?」
「うん。一昨年の11月中旬頃、風邪気味で体調がずっとよくなかったんだが、下旬に入ったばかりの早朝、心臓か脳に何か障害が起こっているような気がしたんだ」
健次はその時の様子を例によって事細かく淳一と由美子に話した。
「そんなことがあったんだ。知らなかったな」
由美子は大事な話だと思ったので、口を挟まないようにして健次の表情を見ながらじっと聞いていた。
「お前たちに心配かけないようにと思ってな」
「そんな遠慮はいらないよ。何でも話してくださいよ」
「N医院の先生は一過性のものだ、っていう診断だったんだけど、その後もあまり調子が良くはないんだよ。それで、総合病院に行って詳しく調べてもらおうとは思っているんだよ」
「それなら、先ず循環器内科で診てもらうといいと思うよ」
「そうか、分かった。そのうち暇を見て総合病院に行ってみるよ」
「早めに行った方がいいんじゃない」
「うん、分かった」
健次はそう返事をした。その後も健次はチヨとの面会にはきちんと行っていたが、循環器内科の方の受診はなかなか実行しないでいた。
1月22日、健次は気怠さを覚えた。次の日になっても状況はよくならず、心配になって一人で掛かりつけのN医院に行くことにした。数百メートル歩くと胸苦しくなり、休み休み歩いてようやくN医院まで辿り着き、看護師に状況を説明した。何人か先に受診に来ていた人たちがいたが、直ぐに健次が呼ばれ、診察室に入った。健次は再度昨日からの自分の体調を説明すると、医師は先ず脈を診た。
「脈拍が酷く少ないな。これは今直ぐ入院してペースメーカーを装着した方がよさそうだな。念のため写真を撮っておきましょう」
そう言うと医師は看護師に小声で説明して撮影の準備を命じた。看護師に案内されて別室に入り検査してもらってからしばらく待っていると健次が呼ばれて診察室に入った。
「聖滝さんの心臓は普通の人の倍くらいになっていますよ。心臓肥大です。すぐ入院した方が良いですよ」
医師はそう健次に説明してくれた後、看護師に救急車を呼ぶように命じた。自らは総合病院に電話し、知り合いの医師に状況を説明した。幸い空ベッドが一つだけあるとの情報が入り、健次は救急車に乗って総合病院に運ばれることになった。健次は医院の電話を貸してもらい裕子の勤務先に掛け、淳一や真理への連絡を頼んだ。
総合病院の救急病棟に着くと直ぐに検査と診察をしてもらえた。
「聖滝さん、病名は『房室完全ブロック』でこのまま入院していただきます。とりあえず直ぐにペースメーカーを仮付けしますのでこのまま手術室に入ります」
有無を言わさない雰囲気であった。
手術室に入ると直ぐに局所麻酔が行なわれ、ペースメーカーが仮付けされた。すると、健次は不思議なくらい呼吸が楽になった。脈もしっかりリズミカルに打っているのが自分でも感じられ、命拾いした思いであった。
連絡を受けた淳一は由美子と共に車でつくばを出発した。少し前に健次から体調不良のことを聞かされていたので、運転していても心配で仕方なく、ほとんど会話もせずに総合病院に直行した。健次の病室は新棟4階に決まったとの連絡を受けていたのでそこに行くと、既に真理も到着していて裕子と二人で健次と話していた。健次の表情は思っていたよりもずっと良かったので、淳一は一安心した。心配そうな表情のままの真理が淳一の顔を見ると直ぐに話しかけた。
「さっき、担当のお医者さんと話したんだけど、子供たちが全員揃ったらお父さんの状況をきちんと説明したいと言ってくださっているの。お兄さんが大丈夫だったら、直ぐにお話しを伺いに行きましょう」
「ああ、そうなんだ。直ぐにでもお願いしたいね」
「先生はお忙しそうなので、担当の看護師さんに訊いてみるね」
真理はそう告げるとナースステーションの方に足早に歩いていき、しばらくして戻ってきた。
「あと30分くらいしたら、ナースステーションの中にある小さな会議室で説明してくださるそうです」
「了解」
しばらくの間、元気を取り戻したような表情の健次を中心にして皆で雑談して過ごした。
健次の世話は由美子に任せて子供たち三人は揃って狭苦しい会議室に入った。15分は待たされたであろうか、比較的若い医師が忙しそうに入ってきた。
「お待たせして済みません。私が担当医の大西です」
「聖滝健次の子供たちです。お忙しい所時間を割いていただきまして有難うございます」
「早速ですが、聖滝健次さんの病状についてご説明致します。心臓は4つの部屋に分かれています。上にあるのが左心房と右心房で、下にあるのが左心室と右心室です。心臓は生まれてから休むことなくずっと動き続けています。これができるのは、右心房の上の辺りに洞房結節という所があって、ここから一定の間隔で弱い電気が出ています。その信号が4つの部屋に伝わって収縮拡張を行ない、血液を全身に送り出しています。健次さんはこの電気が上にも下にもうまく伝わっていない状況なのです。これを『房室完全ブロック』と言います。ペースメーカーを埋め込み、一定間隔の電気信号を発生させれば心臓はきちんと動くようになります。今日は緊急入院されまして、仮の処置として外付けでペースメーカーを取り付けています。ですから、健次さんの状態は悪くありません。ただ、このままでは生活に支障が出てきますので、皮膚の下に埋め込む手術が必要になります。予定では3日後に手術を行なうつもりでいます。何かご質問はありますか?」
三人はお互いに顔を見合わせ、小声で意思確認をしてから淳一が代表して答えた。
「大西先生のご説明は大変分かりやすかったので、我々なりに理解することができました。質問は特にありません。どうかよろしくお願い致します」
三人が揃って頭を深々と下げると、担当医は表情を変えることなく会議室を後にした。
翌日は健次に大きな変化もなく穏やかに過ごした。健次はそのまま入院するとは思っていなかったため、必要な荷物は何一つ持って来ていなかった。髭剃り、イヤホーン、T字帯、洗面用具、下着、タオル等、健次は思い付くまま注文を出した。スイッチを入れたままであったパソコンを切ることまで裕子は頼まれた。夕方、健次担当の看護師が来て、手術の予定を告げた。
「聖滝さんの手術は3日後の午後1時から開始します。朝起きたら手術まで飲食禁止となりますので、よろしくお願いします」
健次には異論を挟む余地は皆無であった。寂しそうに頷くしかなかった。
1月25日午後1時から手術が行われ、それ程時間を掛けずに無事終了した。健次も手術前とあまり変わらない表情で手術室から出て来た。
次の日は術後の経過観察が行なわれ、体温や脈拍、血中酸素濃度の測定をされたくらいで、特別の処置は行われなかった。
27日午前中に淳一たちが病室に行くと、ちょうどそこに看護師がやって来て、担当医の大西医師から話があると告げられた。前回と同様、健次の世話は由美子に任せて子供たち三人がナースステーションの中にある小さな会議室に入って行くと、大西医師が座って待っていた。
「聖滝健次さんが緊急入院された時、胸の痛みがあると言われていました。心臓への動脈は心臓を包むように3本ありまして、これを冠動脈と言います。この血管にアテローム硬化があると血液が通りにくくなります。その結果、心臓の筋肉が血液不足になって痛みを感じて狭心症と呼ばれる症状が出ます。もしかすると健次さんにはアテロームがあるかもしれませんので検査します。麻酔した後、右の上腕動脈からカテーテルを挿入し、造影剤を入れてチェックしていきます。検査は30分くらいで終了予定ですから、検査終了後写真をお見せします。検査は本日午後の4番目に行なうので3時か4時頃開始となります」
「はい、分かりました。どうかよろしくお願い致します」
三人はまた深々と頭を下げた。
検査は午後4時過ぎから始まった。医師の告げた通り30分後には健次が病室に戻ってきた。しばらくしてから大西医師が病室に入ってきて検査の結果を教えてくれた。
「結論から言いますと、聖滝さんの経過は全て順調であると言って良いでしょう。心電図には異常は見られませんでしたし、X線撮影でペースメーカーの装着位置も確認しましたが、きちんと入っています。アテロームも今のところ心配する程のことではないと思います。今は造影剤が体内に入っていますので、水分を多めに摂って体外に排出するようにしてください。それから、あと5時間くらいの間はペースメーカーを入れた左上を固定しますので、しばらく我慢してください。時間が来たら看護師が外しにきます」
医師の説明を食い入るようにして聞いていた健次が一番嬉しそうな声を出した。
「先生、本当に有難うございました。緊急入院する前に感じられた苦しさや痛さは、今は全くありません。お蔭様で助かりました」
「それは良かった。でも今はあまり無理をしないようにしてください」
「はい、分かりました。有難うございました」
大西医師は大きな感情の起伏を表すことなく病室を忙しそうに出て行った。
四人は健次の様子が心配で夕方まで病室にいたが、看護師に促されて帰ることにした。
「今から食事の用意をするのも大変だね。近くの店で食事しようか? 真理は直ぐに帰らなくても大丈夫かな?」
淳一が提案した。
「甲府までは遠いから本当は直ぐに帰りたいところだけど、今後のことも少しは話しておいた方がいいと思うから、付き合うわよ」
「裕子はどう?」
「私は食事の準備はしてきたから、食べたくなったら子供たちが自分で支度するでしょう。だから大丈夫よ」
「それじゃ、食事が終わったら真理が直ぐ電車に乗れるように、駅のすぐ傍にあるファミレスにしよう」
淳一と裕子の車2台に分乗して目的の店に向かった。
食事が一段落した後、心配性の真理が口を開いた。
「私たちって、お母さんの入院費用がいくらかも知らないで今まで過ごしてきているじゃない。もしお父さんがこのまま亡くなってしまったらどうしようかと思ったわ」
「そうだよね。ほとんど全てを父さん任せにしているのは事実だからね」
淳一がそう応じた。
「今回は上手く手術していただいたから良かったけど、お母さんよりお父さんの方が先に逝ってしまうってこともないわけではないわね」
「そうだね。母さんの病気は本当に長いということだから、そうなる可能性は皆無ではないけど、僕らは今まで父さんが母さんのことをしっかりと看取ってくれるものと信じて疑うことはなかったような気がするな」
「本当にそうだった。私など、今でもそう思っている」
裕子もそう肯定した。
「でもね、今回のお父さんの入院騒ぎで、あまり甘い考え方ではいけないような気がするの」
「そうだね、真理の言う通りだ」
「少しずつでいいから、私たちはお母さんの入院費用などを把握していかなくちゃダメね」
「これからは両親に関することでそれぞれが入手した情報はできるだけ共有していくようにしようか」
「賛成」
健次はその後1週間程で退院でき、その後も定期的に総合病院にバスで通った。3月末、つくばから父母の見舞いに車で訪れた淳一は、先ず健次を病院に連れて行った。数日前に行われた検査の結果を見ながら大西医師は診断結果を説明してくれた。
「聖滝さんの血液はかなり止まりにくい状況にあります。血液検査の結果、アンチプラスミンが相当少なかったのです。正常値は80から125パーセントなのですが、聖滝さんは50パーセントしかありませんでした。第13因子と呼ばれるファクターもやや少ないですね。4月10日前後に採血してもう一度検査をしましょう。その結果が出るのは2週間後になります。両日ともにこの病院に来るようにしてください」
二人は頭を下げてから診察室を出た。
採血には一人で病院に行った健次であったが、結果の説明を聞きに行く際は医学的知識が自分よりはずっとあると思っていた淳一に一緒にいてほしかった。淳一も健次の健康状態が心配であったので、嫌な顔もせずにつくばから車でやって来た。
「先日採血した検査の結果ですが、アンチプラスミン値は59パーセントだったのでまだ少ないですね。従って血は止まりにくい状況が続いています。第13因子は100だったので、こちらの方は大丈夫です。当面、出血し易いので注意が必要です。例えば、歯を抜くようなことがある場合はこの病院の血液内科に必ず相談してください。まあ、全体的に見れば聖滝さんの状況はだいぶ落ち着いてきましたので、今後はペースメーカー外来のみの通院で良いでしょう。それから、これまで我慢してこられたグランドゴルフは激しくやらなければやっても大丈夫でしょう。お酒も少しだけならOKですよ」
「ええっ、本当ですか! それは嬉しいです。本当に嬉しいです」
健次は飛び上がらんばかりに喜んだ。




