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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
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第1部.発症と出会い 1-2.発症の受け入れ

 淳一は製薬会社の研究員をしていた。入社以来ずっと薬用植物や珍しそうな微生物から薬創りのヒントになる化合物を探す研究をしてきたのであったが、一向に成果が上げられず、自分たちの行なってきた研究を中止せざるを得ない状況に追い込まれた。だからと言って会社を辞めるわけにもいかず、仕方なく上司から命じられた化合物を合成する仕事をしていた。

 合成技術は大学の実習でほんの少しやったことはあったが、業務として行なうにはあまりにも不十分な力しかなく、熟練した合成研究者の足手まといになるのが関の山であった。1週間ずっと我慢してやっと巡ってきた週末、会社の業務とは関係ない事に集中している時にだけ心が解放された。


 一方、チヨの状況はと言えば、メロンの出来事の後、健次や淳一の願いを踏みにじるかのように、首をかしげたくなるような行動が次第に多く認められるようになった。それでも陰に隠れた健次の援助もあって、チヨは1989年、辛うじて大きな揉め事も起こさずに民生委員の任期を満了することができた。しかし、その後もチヨのおかしな言動はゆっくりとではあったが嫌になる程確実に頻度を増していった。

 1990年9月、ようやくやって来た土曜日に淳一が由美子と一緒に実家を訪ねると、健次が大きな声を張り上げていた。

「だから、このノートに買うものを俺が書いておいたって何回も言ったじゃないか。頼むからちゃんとノートを見てくれよ」

「私はちゃんと見ました」

「それなら、買ってくるものが書いてあっただろう」

「さあ、どうだったかしら」

「全く、もう、嫌になっちゃうよ」

 そこまで聞いて淳一が二人の会話を遮った。

「父さん、どうしたの? ちょっとこっちに来て」

淳一は由美子に母を看ていてもらうよう合図し、かなり感情的になっていた健次を隣の部屋に連れて行った。

 鬱憤が収まり切れていなかった健次は激しい口調で淳一に最近のチヨの状況を訴えた。

「この頃のチヨはトラブルばっかり起こしているんだよ。チヨが買い物に出かける時、何を買うか忘れちゃうことが多くなったんだ。この間なんか、同じような靴を何足も買ってきてしまったんだよ。その後も、俺が忙しかったものだから、お金を持たせて野菜や魚の買い物を頼んだら、その金で全部飴を買って、大きなスーパーの袋一杯にして持ち帰ってきたんだ。本当に困っているんだよ」

「そうだったんだ」

「それでな、あの小さなノートを買ってきて、それに俺が書くか、チヨが自分で書くように、って言ったんだが、チヨはノートも見ずに、要らないものをいくつも買って帰ってくるんだよ。本当にどうしようもないんだ、今のチヨは」

「そうなんだ。だいぶ症状が進んできてしまったようだね。大変だろうけど、母さんは病気だと思うんだ。だから、そんなに怒らないようにしてあげてよ」

「俺だって怒りたくなんかないんだよ。いくら言っても言うことを聞かないものだから、しまいには感情的になってしまうんだ」

 健次はようやくいつもの声のトーンに近いものになってきた。

「確かに大変だよね。父さん、母さんは痴呆症を発症したのではなかと思うんだ。一度専門の病院で診てもらった方がいいんじゃないかなあ」

「その通りだな。実は、裕子からも勧められているんだよ。何でも今裕子が住んでくれている生家の比較的近くに、老人病院じゃ相当有名で評判の良い所があるそうなんだ。昔、俺がまだあの家に住んでいた頃にはそういう話を聞いたことはなかったんだが」

 淳一の二人の妹たちのうち、上の妹の真理は夫と一緒に甲府で酒の販売店を営んでいた。一方、下の妹である裕子は若くして夫を亡くした。二人の子供を育てるために、空き家になっていた父の生家に住むことにし、その後もずっとそこで生活していた。

「それなら直ぐにでも受診してみたらいいよね。何か問題があるの?」

「もちろん俺は勧めてみたよ。でもチヨは病院に行くのを酷く嫌がっているんだ。病院の話をすると怒り出してしまうんだよ」

「なるほどね。ああいう病気だとそういう反応になってしまうのかもしれないね。それじゃ、僕がその病院に行っていろいろ見たり訊いたりしてこようか?」

「うん、そうしてくれると有難いな。裕子に電話して詳しくあの病院のことを訊いてみてくれないか」

「分かった。そうしてみる」

話がまともに通じる淳一が傍にいることに安心したからか、冷静に考えることができるいつもの健次に戻っていた。


 両親の家を訪ねた翌日の日曜日の夜、淳一は裕子に長電話し、チヨの現状と健次の精神状態がかなり厳しい所まで来てしまっていることを話した。聞いていた裕子は居た堪れなくなった様子で、是非K老人病院の現状を見に来た方が良い、と強く勧めてくれた。受話器を置いた後、しばらく考えていた淳一は次の休みの日にK老人病院に行ってみることにした。

 訪問する前日の金曜日、K老人病院に電話を掛けて状況を説明すると、病院の医療ソーシャルワーカーが対応してくれることになった。


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