第2部.想定外 2-28.病棟移動と入院費
健次が退院する日、休暇を取った淳一は由美子と朝早く車でつくばを出て病院に直行した。真理と裕子は既に来ていて、子供たちが揃ったところで健次は杖を突いて歩いて見せたが、傍から見ていると慣れていなくて危なっかしく映った。同じ病室の他の患者や看護師たちに挨拶してから病室を出てエレベーターに乗り込む際、健次の歩き方に見かねた真理が手を貸そうとした。
「有難う、真理。でもな、これからは何でも一人でやらなきゃならないから、手を出さなくていいよ」
「そう……、でも……」
真理はその後も裕子の家に着くまで健次の後から見守るように歩いた。
健次は退院した翌日、入院中に届いていた郵便物を改めて読み直した。
その中の一つにK老人病院からの連絡があった。『建設中であった新棟が完成し、患者に移動してもらうことになる。移動日は5月13日。チヨは本来であれば差額の支払いが必要な新棟4階へ一時的に移動することになるが、費用は従来と同じとする。ただし、一般病棟が準備でき次第、再移動してもらうことになる。担当医、病棟看護師長もこれまでと変わらない。当日は混乱が予想されるため、緊急の場合を除き、見舞いや面会はご遠慮願いたい。今後、1999年8月と2000年12月の2回、改修および新築工事に伴って患者の移動が予定されているので協力してほしい』という内容であった。チヨの病棟移動は翌日に控えていた。
病棟移動が行われた次の日、心配していた健次はタクシーを呼んでいつもより若干早めにK老人病院新棟4階のナースステーションに顔を出した。新しい建物は以前の病棟より綺麗で明るい雰囲気が感じられ気持ちが良かった。健次の顔を見つけて嬉しそうに看護師長が廊下に出て来た。
「聖滝様、お久しぶりです。チヨ様は無事に移動されました。お元気ですよ」
「そうですか、それは良かった」
「チヨ様の新しい病室へご案内致します」
そう言って看護師長は溌剌とした表情で健次の先を歩いていったが、いつものようには健次が付いてこないのに気付いた。足を停め、健次の傍まで戻ってきてから質問した。
「あらっ、聖滝様。足を怪我でもされたのでしょうか?」
「いやね、椎間板ヘルニアで痺れと痛みが酷かったので、整形外科で手術していただいたんですよ」
「そうだったんですか。それは本当に大変でした。もう大丈夫なのですか?」
「ええ。お蔭様で一昨日退院できたんです。まだ杖を頼りにしていますけど、もう大丈夫です。ただ、今のところ早くは歩けないんです。ゆっくりお願いします」
「それは気が付きませんで、大変失礼致しました。ゆっくり歩きましょう」
チヨが入った病室は4人部屋であった。これまでの大部屋と比べると随分と静かだと感じた健次はいつもよりは小さな声でチヨに話しかけた。
「おい、チヨ。病棟の引っ越しは大丈夫だったか? びっくりしたんじゃないのか?」
チヨは健次の問いかけににこやかな表情で顔を向けた。看護師長が健次に声を掛けた。
「聖滝様、この新棟にも屋上に以前のものよりもずっと広くて使いやすい談話室が設置されましたので、ご利用ください」
「はい、有難うございます。行きたいところですが、今は私の足の状態がこんな具合なので、今日は止めておきます。ここで昼食の介助をしてもよろしいですか?」
「はい、勿論です。まもなく食事が運ばれてくると思います。それまでチヨ様とお話していてください。私はこれで失礼致します」
看護師長は二人の方を向いて頭を下げると戻っていった。
9月末にK老人病院相談室から健次のところに電話があり、チヨの病室に関して家族と相談して決め、翌日返事をしてほしいとの要請があった。選択肢は3つ提示されていたが、現状の月額16万円の入院費用に10万円が加算される5人部屋と、20万円の追加となる4人部屋は高額過ぎて検討の余地もなかった。健次が受け入れられるのは、別の病棟にあり費用も現状維持となる8人部屋だけしかなかった。そこは若干狭いのと、精神科病棟になるので、家族と本人の同意が必要になるとのことであった。
翌日健次はK老人病院に電話し、費用が現状維持となる大部屋を選んだことを告げた。
「そうですか。来年1月に予定されている病室の大移動の時より、病状が落ち着いている現在の方がご本人のためにも良いのではないかと思います。今動いておけば、大移動の時に動く必要はなくなります。面会時に食事や介護する場所としてホールや会議室や談話室などが使用できますのでご心配には及びません。実際の移動時期につきましては、こちらで検討後改めてご連絡させていただきます」
「よろしくお願い致します」
健次は電話している相手からは自分の姿が見えないにも関わらず頭を深々と下げてから受話器を置いた。しばらくの間呆然とした表情で座り込んでいたが、小さい声で呟いた。
「チヨの入院費用が上がるのも時間の問題かもしれないなあ。チヨのことを最後まで入院させ続けていくことができるのだろうか……」
いつになく弱気な健次であった。
2000年4月から介護保険制度が施行されるにあたり、前年10月からその準備として要介護認定作業が開始された。入院中の患者にも認定を受けるよう、院長名の文書が出されたのを受け、11月に入ってから健次はチヨの認定を受けるべく準備を始めた。
1999年の暮れが近づき、世の中は2000年問題への備えで大騒ぎしていた。淳一も会社のパソコンが正常に動かなくなるかもしれないとの危惧から、取り得る対策を専門部署の担当者の指示に従って行なった。しかし、健次やチヨには全く影響はなく、無事に新年を迎えることができた。
元旦も健次はいつもより早めにチヨとの面会に行った。病棟の看護師長をはじめお世話になっている方々と新年の挨拶を交わし、チヨのベッドに行って会話にならない一方通行の話をしていると、院長が挨拶にやってきた。毎年元旦に行われていることだそうだが、健次は実際に見るのは初めてであった。優しそうな表情の院長は患者のベッドを順番に回り、患者一人ひとりと握手した。嬉しそうに反応してくれる患者も中にはいたが、ほとんどは無表情で握手に応じる手に力が入っていなかった。それでも院長は嫌な顔もせずにこやかに皆の手を握った。
「明けましておめでとうございます。いよいよ2000年になりましたね。今年も一緒に頑張っていきましょうね」
そんな院長に健次は心から感謝の気持ちを表した。
しばらくすると、昼食が運ばれてきた。チヨが食べられる軟らかなものばかりであったが、とても小さい餅が入った汁粉のお椀も付いていた。少しでも正月気分を味わってもらおうというこの病院の心遣いが感じられて健次は誰にというわけではなかったが、自然に頭が下がった。
淳一は由美子と一緒に月に2、3回のペースで車に乗って健次の生家に行き、健次を乗せてK老人病院に行った。こういう時の昼食の介助はいつの間にか淳一が行なうようになった。慎重な性格である真理が昼食を介助する時は、担当医に指示された通り一口入れた後は完全に飲み込んだことが確認できるまで次の食べ物を口に入れないように注意していた。一方、淳一のやり方はチヨが口を開けられる状況になると直ぐに次の食べ物を口に入れてあげた。勿論、常にチヨの状況をしっかりと確認し無理をしないように注意しながら介助していたのであるが、この違いに気付いた健次は笑いながら由美子に説明した。由美子は頷きながら微笑み返した。
「きっと、せっかちな所が誰かさんに似たのでしょうね」
「ええっ、それって、俺に似たという意味ですかね?」
健次もそう言いながら大声で笑った。健次の声に驚いた表情をしたチヨであったが、暖かな雰囲気を感じ取ることができたのか、食べるのを休んで微笑みを見せた。
2000年8月下旬にチヨが満76歳となり、喜寿をK老人病院で迎えることになることに健次は気付いた。1週間前くらいから健次が看護師たちにこの話をしていたためか、8月の誕生会は既に終わっていたが、チヨの誕生日当日には健次が病院に到着する前にチヨはおめかしされて車椅子に座らされていた。病室に入った健次は直ぐにチヨの服装に気が付いた。
「おい、チヨ。今日は随分とおめかししているじゃないか」
健次の優しそうな言葉に反応してチヨは笑顔を見せた。花柄の刺繍が入った白い絹のブラウスを着て、動くとキラキラと光るイアリングも付けてもらっていた。お化粧も普段よりも一段と時間を掛けてもらったことが分かるほど丁寧にされていた。そこにチヨ担当の看護師が入ってきた。健次に向かって挨拶した後、チヨの耳の近くに口を持っていって、持ってきたカメラを示しながら話し掛けた。
「チヨ様、良かったですね。ご主人が来られて、チヨ様があまり綺麗なので驚いておられますよ。今日は喜寿をお祝いして写真を撮らせていただきますね」
チヨは自分が褒められている状況が何となく分かるのか、すごく嬉しそうな顔になった。
「看護師さん、申し訳ありませんが、このカメラでも1枚撮っていただけますか?」
「はい、勿論です」
健次は簡単な使い方を教えてから自分のカメラを看護師に渡した。車椅子の隣に立ち、顔をチヨに近づけて2枚撮ってもらった。
10月下旬、健次はいつものように午前中にチヨの面会に訪れ、車椅子に乗ったチヨを押して廊下に出た。曲がり角に小さなテーブルがあり、その上に花が活けられた花瓶が飾られていた。健次がチラッと見て、
「この時期でもハイビスカスは咲くんだな」
と呟いた時、チヨの口から発せられた言葉がはっきりと聞きとれた。
「おい、チヨ。今、この花を見て『綺麗!』と言ったよな?」
健次が訊いてもチヨは全く反応してくれはしなかった。それでも健次には間違いなく聞いたという確信があった。
「チヨには花が綺麗だと思う心がまだ確かに残っているんだ」
健次は自分に言い聞かすように呟いた。
屋上に出ると秋空に奥多摩の山々がはっきりと見渡せた。今度もチヨが綺麗と言うかなと思い、耳を澄ませたが、チヨは無言のままであった。
昼食の時間が来た。スプーンに食べ物を少しずつ載せ、口の傍に持っていくと、チヨは大きな口を開け、上下の唇を力強く閉じて口の中に含み、数回咀嚼すると直ぐにごくりと飲み込んだ。ただ、この日は味噌汁に手古摺らされた。最初の一口は口の中に入れさせてくれたが、直ぐに静かに吐き出した。次からは味噌汁が入ったスプーンを口に近づけるだけで、首を振って口を開けようとしなかった。健次は何とか飲まそうと何回も試みたが、この日のチヨは頑なに拒み続けた。
この年の5月に80歳を迎えていた健次は、11月中旬から風邪気味で体調が若干芳しくない状況が続いていた。下旬に入ったばかりの早朝、体に異常を感じて目が覚めた。脈を測ってみると乱れていたので、健次は心臓か脳に何か障害が起こっているような気がした。しばらく我慢していると少し収まってきたので、静かに起きて裕子に声を掛けた。
「朝早く済まんが、どうも心臓か脳の発作が起きたような気がするんだ」
その声を聴いて裕子は飛び起きた。
「ええっ、大丈夫? 救急車を呼ぼうか?」
「今はだいぶ落ち着いてきたから、救急車を呼ぶほどではないように思うんだ。近くのN医院が開く時間は確か8時半だったと思うから、その時間になったら車で連れて行ってくれないか?」
「もちろん、送っていくけど、本当にそれで大丈夫?」
「ああ、多分大丈夫だと思う」
そう言って居間のソファーに座ってみたものの、気分が悪くなり嘔吐した。食事は摂っていなかったので吐いた量はいくらでもなかったが、少し落ち着いたような気持になった。
裕子の車は開院時間の30分前にはN医院の駐車場に入っていた。健次を車の中で休ませ、裕子が医院の入り口に立って開くのを待った。
10分前になり、看護師が入口を開けると、裕子が心配そうな顔をして立っていたので、ずいぶんと驚いた様子であった。
「どうなさったんですか?」
「父が心臓か脳に発作があったみたいだ、って言うものですから慌てて連れてきました。できれば早めに先生に診察していただけないでしょうか?」
「はい、分かりました。とにかく中に入ってお待ちください」
そういうと看護師は走って中に戻っていった。
健次を車から静かに連れ出し、待合室に入ってベンチに座ろうとすると、先ほどの看護師が出てきた。
「先生が直ぐに診ると言われていますから、どうぞ診察室にお入りください」
「はい、有難うございます」
そう言って裕子は健次とともに中に入ったが、まだ医師はいなかった。
1分程待つと慌てた様子で医師が飛び込んできた。
「どうされたんですか?」
健次は朝目覚めてからこれまでの状況を事細かに説明した。健次の話が進むにつれて医師の顔には少しずつ安堵の表情が出てきて、健次の話が終わる頃には冷静さを取り戻していた。いろいろと問診を続けてから脈を診たり目の動きを確かめたり喉の奥を観察したりした後、診断結果を健次に告げた。
「脳は特に大きな異常はないだろうと思います。脳の機能が一時的に不全になったのではないかと思います。お話しを伺うと、少し前に風邪をひかれたとのことでしたので、原因は風邪をひいたことによる過労と季節の変動によるもので、一過性のものだと考えられます。ご心配であれば、総合病院に行って詳しく調べてもらった方が良いかもしれませんね」
「そうですか、安心しました。朝早くから押しかけて来まして申し訳ありませんでした」
「いやいや、ご心配な時は何時でも来ていただいて構いませんよ」
「有難うございました」
健次がN医院に来た時とは別人のような明るい表情でお礼を述べている姿を見て裕子もほっとした。
12月に入るとK老人病院から病棟移動に関する連絡が書面であった。2年間掛けて行なってきた増改築工事がほぼ完了したため多くの入院患者が翌年の1月に1日掛かりで病棟移動することになったが、チヨは移動しなくてもよいと記載されていた。更に、チヨは病棟だけでなく看護師長や主治医も従来通りでよいと書かれていた。健次は、追加費用を出してまで少人数の病室に入りたいと希望する人が病院側の見込みより随分と少なかったのだろうと想像した。チヨの病棟使用に関する費用負担の変更はなかったが、10月に新たに『食事療養費標準負担額』という項目が追加になったので、チヨの負担は月額18万円くらいになり、1年前の時点よりも2万5千円程度は高くなってしまっていた。さらに、健康保険法の改正により間もなく訪れる2001年1月1日から患者の一部負担金が変更になることを受け、細かい計算式が書かれていた。
病室移動もなくチヨを取り巻く環境は全く変化せずに済んだことはチヨにとっては良かったはずであったがが、この頃からチヨの歯軋りが目立ち始めた。健次が午前中から面会に行き、屋上の談話室で昼食までの時間を潰している時、健次はチヨの歯軋りの音が気になって仕方なかった。ギー、ギーという音は明るい印象を与えることはなく、これから先の辛い道のりを暗示しているような気さえした。『嫌だな』と思って目を瞑って聞いていると、一定のリズムが刻まれていることに気付いた。
「そうか、チヨがあまり悪い方に取らないようにしなさい、って言っているんだな」
健次はそう呟き、チヨの方を見ると一瞬チヨが頷いたような気がした。




