第2部.想定外 2-24.反面教師のクマ
淳一の仕事は著しい成果が挙がったわけではなかったが少しずつ良い方向に進みだし、担当している職務も以前よりは拡大してきた。淳一の専門分野である天然物研究以外に、薬の種になりうる化合物を発見するためのスクリーニングと言われる業務や、新たな技術を薬創りに応用しようとする業務も担当するようになった。もちろん、淳一自身はそれらの業務を実際に行なうことはなかったが、業務がうまく進行するように支援する統括業務を担当した。淳一が統括し始めた組織は女性研究員の比率が他の組織よりも高く、男性研究員とほぼ同数であった。
研究一筋で生活してきた者にとって、管理業務や統括業務という仕事はそう簡単な業務ではないように感じられるものである。業務の成果や要した費用と時間など数字で表せるものはまだ何とかなるとしても、担当している人間の意欲、キャリアプラン、満足感などに関してはほとんどお手上げの状態になりがちである。淳一も自分の志向する研究にそれなりに励んできた人間であったので、担当業務範囲が広がってから間もない頃はそんな状況であった。
入社以来、順風満帆で研究でも成果を上げ、会社の上層部から期待されて統括業務に就いた研究者とは異なり、淳一は自分の最もやりたい研究分野から一時期とはいえ外され、嫌々異分野の研究をしてきた経験が、ここで大いに役に立った。淳一が統括する組織メンバーの気持ちを理解するための引き出しを、順調に伸びてきた人たちよりは多く保有していた。そして、もう一つ、淳一には心強い味方がいた。もちろん、岩茸石仙人である。
淳一の会社では年に2回の賞与支給日の前に、組織の統括者は所属する全メンバーとマンツーマンで面談を行なうことが義務付けられていた。直前の半年間における各メンバーの業績評価結果を伝えるとともに、評価に至る理由を説明し、さらに次の目標を決めたり、それぞれのキャリアプランまで話し合ったりすることが求められた。
このようなことを上から宣告するように伝えた場合、メンバーの仕事に対する意欲が上昇することはまずないと思っていた淳一は、メンバー一人ひとりの本音を引き出すことに重点を置いて面談を進めることにし、話し合った要点はその都度パソコンに入力していった。新たな面談の前には、必ずこれまでの記録を頭に入れてから話し合いに臨んだ。
この方法は淳一が予想していた以上に効果を発揮してくれた。『面談相手にしてみれば、自分自身のことを細かく覚えていてくれて一貫したアドバイスをしてくれる相手に対して安心感を持つことができたからであろう』と淳一は思った。
一人ずつしっかりとした面談を行なうには、それなりの時間も必要であった。短くても30分、長ければ1時間以上の時間を掛け、面談相手が言いそびれたことがないようにした。
確かに淳一の面談方法は効果的ではあったが、次第にある種の不安が頭をもたげてきた。そう広くはない面談室でメンバーと二人だけで長時間話し合わなければならないので、統括者にとっては何ということもない時間の流れだとしても、メンバーにとっては相当苦痛に感じてしまうこともあり得るだろうと思った。特にこの頃、『ハラスメント』が社会的にも取り沙汰されるようになり、メンバーに女性がいる組織での統括業務の経験がなかった淳一には、『パワハラ』も心配ではあったが、特に『セクハラ』のことが気になり出していた。
この年の9月下旬の土曜日、仙人と話したくなった淳一は前日に購入しておいた赤ワインをバッグに入れ、電車とバスを利用してK老人病院に行っていつものように昼食の介助を行なった。チヨの食欲は全く落ちてはおらず、淳一がスプーンで口の中に入れた食物をほとんど噛むことなく無表情で直ぐに飲み込み、デザートを食べ、吸い飲みの麦茶も音を立てて吸った。しばらくすると寝息が微かに聞こえてきた。淳一は安心して車椅子に乗ったチヨを病棟まで戻すと、送迎バスに乗った。
駅から『食堂大丹波川』に向かっている時、チヨがあまりにも美味しそうに食事するのを見たせいか淳一のお腹が鳴った。
引き戸を開けて淳一が中に入ると、店主が嬉しそうに出迎えてくれた。仙人の姿は見えなかったが、淳一はいつもの席に腰を下ろした。
「いらっしゃい。今日はどうされますか?」
「とりあえず大丹波定食をください。母の昼食の介助をしていたらお腹が減ってしまって。それから、今日は私もワインを持ってきていますので、できればグラスもお願いしたいのですが」
「もちろんです」
淳一がワインを少しずつ飲みながらゆっくりと定食を食べていると、引き戸が静かに開き、岩茸石仙人が音も立てずに中に入ってきて、定位置に軽やかに座った。
「やはり来られていましたね。しかもワインをご持参されて。その表情からするとお母さんは順調のようですね」
「はい、お蔭様で前回ここで仙人にお話した時と同じように良い状態で過ごしていました」
「それは良かったですね。そうすると、今日聖滝さんがここに来られたということは、お母さんとは別の、例えば仕事に関する話ですかね」
「はい、その通りです」
淳一は先ずワインで乾杯してからチヨの状況をごく簡単に話した後、会社での自分の業務とそれに付随して生じてきた悩み事を詳細に説明した。
「小さな面談室の中で女性研究者とかなりの時間、二人だけで話すという状況に私は全く慣れていませんでしたので、自分では気が付かないうちにセクハラに類するような発言や行為があるのかもしれないと不安なのです」
「そうですか。聖滝さんは何かそうならないような対策を講じているのですか?」
「はい、一応。面談室の入り口のドアの上半分は透明なガラス窓になっていて、内側にブラインドが付いています。視覚的に完全な密室にならないようにするため、窓のブラインドを少し上げておき、廊下を通る人が屈んで覗きこめば中が見えるようにはしています。ただ、ブラインドを全開にしてしまうと普通に廊下を通る人から中が丸見えになってしまいますので、面談に集中できなくなってしまいます。それも困りますので、中途半端ですが、少しだけブラインドの下側を開けているのです」
「なるほどね。ハラスメントはこちらがどう思っているかということよりも、相手がどう感じるかが問題となるわけです。同じ言葉でも発言する人によって相手の印象は変わってきてしまうので、なかなか微妙な面もあると思います。でも、聖滝さんがそれだけ配慮していれば、相手の方にも通じるだろうと思いますよ」
「それならいいんですけど……。最近、社会的にそれなりの立場にある人たちによるセクハラの報道が目に付くんです。自分がああいうことにならないかって心配になることがあるんです」
「相手の解釈の仕方やその時どう感じたかよって、発言した人が自己中心的だと言われるケースがあります。時々、『皆様に安心・安全をお届けする』と言っている人がいますよね。聖滝さんはこれを聞いた時にどんな風に感じますか?」
「普通に捉えれば、『きっと危険なことは起こらないであろう』と思います。そうではない捉え方があるのですか?」
「『安全』は提供する側が危険な項目に関して全て対応することによって相手に与えることは可能なのだと思います。では、『安心』は提供側が受け取る側に与えることができるのでしょうか? 私はそれは無理だと思うのです。何故なら、『安心』は受け取る側が感じるものであって、与えられるものではないからです。多分、発言者はそこまで深く考えないで、便利な言葉だと思って使っているだけなのかもしれませんが」
「確かに、単語の意味をじっくりと考えると、仙人のおっしゃることが正しいように思いますね」
「誰が見ても明らかなセクハラは論外としても、『ハラスメント』においては、相手にどのように伝わるかが問題になってきてしまうので、言葉の選択には注意する必要がありますね」
「セクハラとはちょっと異なりますが、それなりの地位に就いている人たちによる性暴力もかなり頻繁に報道されていますね。こっちもやはり気になります」
暫くの間じっと考えているように見えた仙人が突然淳一に質問した。
「聖滝さん、生物の性分化はいつ頃獲得されたと思いますか?」
「さあ、皆目見当が付きませんが、一億年前くらいなのでしょうか?」
「今生きている殆どの真核生物が雌雄の区分を持っていることから考えると、少なくとも多細胞生物が出現した十億年前以前には性分化が獲得されていたのではないかと推定されているようです」
「真核生物というのは、遺伝情報を持っているDNAが細胞内の核の中に保護されている生物で、そうではない細菌との大きな違いでしたね。雄と雌との区分ができたのはそんな大昔のことだったんですか」
「性転換を行なえる生物は魚類やウミガメなど一部の動物にはいることが知られていますが、陸上に棲む脊椎動物ではほとんど知られていないそうです。つまり、陸上の脊椎動物の雄は次世代に自分の子孫を残すために雌を求め続けてきているとも考えられます」
「陸上の脊椎動物の雄はそんなに強く雌を求めていたのでしょうか?」
「私には何とも言えませんが、少なくとも、雌を求めない雄は自分自身の子孫を残すことができ難かったと考えられますよね。現世に生きているということは、雌を強く求め続けてきた、いわゆる性欲が強い雄の子孫である、と考えられるのではないでしょうか」
「確かにそういうふうに考えることも可能ですね。そうなると、私には性犯罪を行なってしまう要素が相当強いと考えられるのでしょうか?」
仙人は淳一の質問に直ぐには反応せず、目を閉じて再び静かになった。
しばしの沈黙の後、仙人が口を開いた。
「以前、私はクマの子殺しの映像を見たことがあるのです」
淳一は仙人の言葉を逃すまいと構えた。
「日本に生息するクマは、子育て中の雌グマ以外は基本的には単独行動をするようです。2頭のまだ体の小さな子グマを従えた雌グマが険しい山の斜面を歩いているシーンから始まりました。そこに1頭の体の大きな雄グマがやってきたのです。先ず子熊を襲おうとした雄グマに雌グマが敢然と立ち向かいました。2頭は山の斜面を転がりながら取っ組み合っていましたが、力では圧倒的に雄グマが優位に立っていて雌グマは斜面から転がり落とされてしまいました。その隙に雄グマは子グマたちを襲ったのです。暫くして這い上がってきた雌グマは子グマが死んでしまったことが分かった様子で、雄グマと闘う気力が薄れてしまっていました。雄グマは自分の欲望のままに雌グマと交尾し、その後どこかに立ち去っていきました。
この映像を見て、私はこう思いました。『あの雄グマは子連れの雌グマの意思など頭に入れていなかったし、動物界におけるクマ全体の生き残りということも考えていなかった。ましてや、子グマや雌グマに対する愛おしさのようなものは全く感じていなかったのだ。そこにあったのは、ただ雌グマと交尾したいという自分勝手な欲望だけであった。人はこれを本能の仕業と言うのかもしれない』ってね」
仙人の言葉に引き込まれるようにして聞いていた淳一は小さな声でボソッと言った。
「性犯罪を行なう人間はその雄グマと同じレベルの生き物なのですね。私自身が絶対にそうならない、っていう自信が私にあるのだろうか……」
「あの映像を見終わった時は、私も同じようなことが頭を過りましたよ。確かに私には自信が持てなかったのです。大丈夫だろうか、と」
仙人はそこで一旦喋るのを止め、淳一の表情を窺うようにしてから、続きを話し始めた。
「でもね、安心してください。暫くしてから、私はニホンザルの群れの映像も見たのです。その群れでは身体の大きな雄ザルがボスで、かなり横暴に振る舞い、群れの中にいるサルたちを力で支配しているように見えました。このボスザルがある雌ザルにちょっかいを出していましたが、その雌ザルは力の強いボスザルをうまくかわし、体は小さいけれどこの雌ザルに優しくしてくれる雄ザルと一緒にいることを選んだのです。ボスザルもそれ以上ちょっかいを出すことはせず、何とかうまく群れの生活を維持していました。クマの子殺しとは著しく異なる世界がそこにはあったのです。私はこの映像を見て、本当に安心しました。サルにさえ『理性によるコントロール』ができているのです。サルより進化しているはずの人間がやろうとすればできないことではないでしょう」
「確かにそうではありますが、それでは何故サルより進化しているはずの人間が性犯罪を行なってしまうのでしょうか。それもかなりの数の人たちが……」
淳一はまだ納得していなかった。
「現実はその通りですね。そこで、私はこう考えてみました。『人間は現在生きている生物の中で 最も知能が高いといえる。しかし、人間は哺乳動物の一種であり、少なくとも現時点までは、それぞれ1個の男の生殖細胞と1個の女の生殖細胞とが合体して1つになることによって次の世代に命を継承してきている。動物の世界のように強い男だけがその子孫を残すことができた時代が人類にもあったことだろう。また、性欲が全くなければ子孫を残すことはできなかったかもしれない。体も強く性欲も強い男だけがずっと子孫を残し続けることができたとすれば、もしかしたら、我々には性欲の強いという遺伝子がしっかりと受け継がれてきているのかもしれない』って」
「もし、その通りだとしたら、男は性欲が強いということは必然だということになるのですね」
「そういうふうに考えて、そのことを受け入れてから対策を考えても良いのではないか、と思ったのです。『動物の本能のままに自分の欲望だけに従って行動してしまうと、精神的なことも含めて他の人に危害を加えてしまう』ということを自覚するのです。人間は本来的にそういう危険性を孕んでいる生き物だということを受け入れるのです。幸い、人間には高い知能があります。本能のままに行動した場合の危険性を予知し、例えば、直接対峙している人の気持ちを考えるとか、周囲の人たち、もっと言えば人類全体のこと、あるいは、生物界全体や地球や宇宙のことまで考慮に入れて、自分自身の行動を律することだってできる生き物だと思うのです」
「確かにそう考えれば何とかなるような気もしますが、まだ確固たる自信にはつながらないように思えてしまうのですよね」
淳一は、心細げにそう言った。
「聖滝さんがそう思うのも無理はないのです。普段は理性が本能をコントロールしているとしても、ある条件下では本能が理性を打ち負かしてしまうことがあるからです」
「どんな条件下なのでしょうか?」
「ご自身でも考えてみてください。聖滝さんはどのような条件下でご自分の本能が表に出てきてしまい易いでしょうか?」
「そうですね……、お酒を沢山飲んでしまった時にそうなり易いかもしれません。それからお祭りの時とか、何か大きな課題を達成できた時なども該当するかもしれません。いわゆる『タガが外れた状態』になり易いと思っています」
「そうですよね。私はキャンプファイアで火を見ると危険だと思うことがあります。火は人間の本能を掻き立てる何かがあるような気がします」
「あっ、そうです。私もそれは感じたことがあります」
「このような条件下では、理性によるコントロールが緩みがちで、本能が通常よりは強く働いてしまうことが多いのだと思います。ですから、これらの条件に該当するような場合は、事前に理性への働きかけを強くしておく必要があります。くれぐれも、人間の本能のなせる仕業だから仕方がない、と諦めないでほしいのです。相手の状況や意思を尊重することを優先させれば、酷い間違いを犯すことはないと思います。『相手の意思が理にかなったものである限り、それを尊重しなければならない』ことを肝に銘じておくべきでしょう」
「相手の意思が理にかなっているかどうかはどう判断するのですか?」
「相手が邪な動機から主張していると判断できる場合は尊重してはいけませんね。それを判断するのが『理性』なのだと思います。我々は各自の『理性』に磨きをかける努力を継続する必要がありますね」
「分かりました。私もそう考えるようにしていきたいと思います」
「ただね、性暴力とは直接関係ないかもしれませんが、一つ心配なことがあるのです」
「何ですか、それは?」
「人間を含めた動物の命の伝承が性繁殖以外の方法によって行なうことが科学的には可能な時代になってしまったことです。人間では、性繁殖以外の方法は現時点では行われていないことになっています。しかし、性繁殖以外の方法が行なわれないという確証はもうないのです。現時点では倫理的に認められていない繁殖法であるクローンや選抜された遺伝子で構成される生命を誕生させることも技術的には可能な時代になってきたと考えられます。私はそのような繁殖方法が現実のものにはならないことを祈るしかないと思っているのです」
「確かにそういう時代に突入してしまっているのですね。それはともかくとして、私もこれからは『理性による本能のコントロール』が緩みがちな状況に自分を置かないよう十分に気を付けて日々を過ごしたいと思います。今日も本当に有難うございました」
淳一は仙人に深々と礼をすると店を後にした。




