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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
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第2部.想定外 2-23.K老人病院での生活

 健次は生家に引っ越したのを機に運転免許証の更新を止めた。裕子や淳一に病院まで送ってもらえない時は、家から徒歩10分程度の所にあるJRの最寄り駅から1区間電車に乗った後、病院の送迎バスを利用してチヨの面会に行った。


 K老人病院では、その月に誕生日が来る入院患者たちの誕生会が毎月開かれていた。チヨは8月末が誕生日であったので、入院の翌月に開催された誕生会の該当者となった。健次は誕生会の数日前に自分もその様子を見に来て良いかどうかを看護師長に訊いてみた。

「もちろん大丈夫ですよ。むしろご家族の方には是非ご参加くださるようお願いしているくらいなんですから」

 そんな暖かい対応に感謝して、当日は誕生会の始まる30分以上も前から病院に行き、チヨへの面会を申し出た。通常であればしばらく近くの廊下で待たされてから着替えを済ませたチヨが登場するのであるが、この日は既に病室の外の廊下にいつもより更にお洒落な衣服を身に着けてスタンバイしていた。黒のブラウスに白くて太めのネックレスを付け、黒地に大きな花柄があしらわれたスカートを履かされて車椅子に座っていた。

「チヨ、今日は一段と素敵な服を着ているじゃないか」

 健次がにこやかに声を掛けると、チヨは自分が普段よりお洒落をしていることが分かっているかのように、満面の笑みを浮かべながら健次の方を見た。

 しばらくしてチヨを担当している看護師が現われ、会場に移動するよう促された。健次は車椅子を押して看護師の後に付いていった。


 この病院では各病棟がそれぞれ独自の誕生会を開催しているようで、チヨが入っている病棟の8月の誕生会の該当者は7名のみの小ぢんまりしたものであった。それでも、会場のイベント室にはこの月に誕生日を迎える患者の数よりもずっと多くの職員たちが来ていて楽しそうな雰囲気を醸し出す努力をしてくれていた。参加予定者が揃ったのを確認した看護師長がマイクの前に登場し、挨拶を始めた。ありがちな自分一人で満足して長々と続くようなスピーチではなく、簡潔で暖かい言葉に溢れたものであった。

 その後、誰でも知っているような童謡を皆で歌ったり、椅子に座っていても参加できるダンスもどきを踊ったりした。一段落すると、患者たちにはお祝いのケーキと紅茶が振る舞われ、殆どの患者は看護師の助けを借りて飲食し始めた。健次はチヨの傍に行き、いつものように喫食の介助を行なった。ふとケーキと紅茶が載っている小さなプレートの上に目をやると、そこにはカードが置かれていた。

『聖滝チヨ様、H9年8月、73回目のお誕生日おめでとうございます。聖滝様がいつまでも心穏やかに過ごせますように。 病棟職員一同』

 健次はできるだけ小さな声でチヨに読んであげた。チヨは健次の声には全く反応せず、何事もなかったかのように無表情のままであった。

 最後に看護師長から該当者たち全員に花束が贈呈されて誕生会はお開きとなった。


 K老人病院では、患者を安心して託せる病院を目指し、患者の障害や苦痛を和らげるだけではなく、患者に残されている能力を最大限に引き出し、少しでも質の高い生活を過ごせるようにすることを最重要事項と捉えているだけのことはあって、患者やその家族が楽しく過ごすことができるようなイベントをいくつも計画し実行していた。また、これらのイベントは病院全体として企画されることはそう多くはなく、各病棟でアイデアを練り、それぞれ独自の催し物で競っていた。

 9月上旬、チヨの病棟では病室毎に遠足が順次行なわれた。遠足と銘打って行われるイベントではあったが、病棟全体で見ても患者の中で歩ける人はごく僅かしかおらず、大半は車椅子に座ったままなので、専用のマイクロバスに乗って現地に連れていかれ、そこである程度の時間を過ごした後、病院に戻ってくるというものであった。

 この日の遠足はK老人病院からそれ程遠くない所にある小さな動物園が目的地であった。大きな動物園には必ずいるライオンやトラやクマなどの猛獣類はここにはおらず、キリン、サル、シマウマ、レッサーパンダ、ウサギ、ヤギなどのどちらかと言えば おとなしい動物と、インコやフクロウなどの鳥類が主体であった。従って、動物の動きを見て回るというよりも、人と動物との距離を近づけることができるように工夫されていて、可愛い動物たちと楽しく触れ合うことが特徴の動物園であった。K老人病院の入院患者たちにとっては、恐ろしい猛獣の傍に行くよりも小動物を触っていた方がずっと癒しの効果があるのではないかと健次は思った。


 健次はこの遠足にもカメラを持って参加させてもらった。予め看護師長に一行が動物園に到着する予定時刻を訊いておき、それより随分早く動物園に着き、入り口付近で暫く待った。

 予定時間の5分程前にK老人病院のマイクロバスが駐車場に到着し、5台の車椅子が慎重に車から降ろされた。ナースエイドがマンツーマンで患者に付き添い、車椅子を押して園内に入ったところで健次はチヨの車椅子を押すことを申し出た。チヨを担当していたナースエイドは喜んで交代してくれた。

 先ずは園内を一通り見て回るとのことであったので、健次は一行の最後尾に位置取り、チヨの車椅子を押して付いていった。最初に現れたのはキリンであった。殆どの患者は動物を見ても反応もせず、能面のような表情でただただ通り過ぎていった。

「幼少期であればきっと大騒ぎして動物をよく観察したであろうに、変われば変わるものだなあ」

 健次はそう呟きながら車椅子を押した。体を前に曲げ、チヨの顔を正面から覗いてみると、少し恐怖の表情が現われているように感じられた。

「どうした、チヨ。これはキリンでおとなしい動物だから安心していていいんだよ」

 と耳元で囁いた。健次の声が聞こえたのか、チヨが笑顔になったように健次には思われた。比較的大きな動物や鳥を見て歩いた後、餌やりイベントが開催される場所に向かった。


 この日のイベントはヤギとブタへの餌やりであった。集まってきた子供たちは大騒ぎしながら園から提供された餌を動物たちに与えていたのを見て、チヨにも同じようにさせようとした健次の目にはチヨの怯えたような表情が映った。

「そうか、ヤギやブタでも小さな動物とは言えないし、チヨには怖い生き物と映るようだな。餌やりは無理だな」

 そう呟きながらチヨの車椅子を動物の柵から少し離れた所まで移動させると、チヨは再び無表情になった。他の患者たちもほとんど同じような反応を示していたので、遠足のリーダーらしき看護師は直ぐに次の場所への移動を指示した。


 最後に、小さくて可愛い小動物を手に乗せたり撫でたり抱っこしたりすることができるコーナーに行った。

 チヨは病状が進んできてからも、小さな子供には強く反応し、優しくて慈悲に満ちた表情でよく言葉をかけていた。小さくて可愛い生き物には同様の反応が見られるのではないかと健次は期待してこのコーナーに来た。想像以上にチヨは嬉しそうな表情になり、聞き取ることはできなかったが大きな声を出して喜んだ。

 動物園の係官が健次に渡してくれたひよこをそっとチヨの右手の上に置いてやると、チヨは嬉しそうに手を自分の顔に近づけて見入った。少し自信が持てた健次は次にモルモットをそっと掴んでチヨの所に持ってきた。先ずチヨの顔の前にモルモットを差し出し、様子を窺ってみた。大丈夫そうだったので、そのままチヨの右手の上に置いた。ひよこで慣れたのかチヨは先ほどと同じように嬉しそうな表情で自分の顔の近くまで持ってきて左の手で撫でようとした。左手は握った状態のまま開くことはなかったが、チヨの気持ちは健次には十分に伝わった。

 他の患者たちも、このコーナーでは反応が良かったためか、他の動物たちの所よりも随分と長い時間留まっていた。健次はリーダー役の看護師の許可を得てから皆が揃った写真を撮った。その後、その看護師がチヨと一緒のところを撮ってくれると言ったので、その言葉に甘えることにした。


 動物園への遠足が行なわれる少し前、K老人病院から健次宛に面会奨励日の案内状が届いていた。この病院はすこぶる評判が良く、病院の収容能力に対して入院希望が多過ぎる状況が続いているだけのことはあって、患者は近隣の住人だった人よりも遠隔地から来た人の方が多いようであった。病院から奨励されなくても週に数回は必ず面会に行っている健次にとっては特にその日に面会に行く必要はなかったが、わざわざ面会に行かないという選択をするほど捻くれ者でもなかったので、健次もいつも通りチヨに会いに行こうと思った。

 面会奨励日は毎年敬老の日などに設定されているとのことであったが、案内状の文面に、『当日は、担当医ならびに各病棟の看護師長が病状などのお問い合わせに応じられる体制でおります。尚、この企画はご家族の皆様のご要望に応じて行なっておりますもので、当日のご来院を要請するものではありません』と記載されているところから見ると、病院と患者とその家族との関係性は複雑なものがあることが窺われた。

「もしかしたら、患者を入院させたままほとんど面会に来ることもなく、いわば厄介払いされたような状況にある患者もいるのかもしれないな。海外に住んでいてそんなに日本に帰って来られない人もいることだろう。そんな家族には、この面会奨励日の案内は、自分たちが患者を『放ったらかし』にしていることを非難されているように映るのかもしれない」

 健次はそんな独り言を言った。また、予約すれば主治医との面談もできるとのことであったが、健次は必要に応じて、看護師長や主治医と話すことができていたので、改めて希望することでもないと思った。


 面会奨励日の数日前、健次は淳一に電話した。

「ああ、淳一かい。今度の敬老の日は月曜日なんだけど、こっちに来る予定はあるのかな?」

「うん、祝日は研究所も休みだから、日曜日か敬老の日かのどちらかにそっちに行こうと思っていたんだよ」

「月曜日はK老人病院の面会奨励日になっているんだ。だからその日は大勢の家族が来るのかもしれない。前の日にするか?」

「そうなんだ。どうしようかな……。混んでいてもよいから、面会奨励日がどんな雰囲気なのか見てみたい気持ちもあるし、奨励日に由美子と一緒に行ってみようかな。父さんはどうしたいの?」

「うん、俺も初めての面会奨励日なんで、見ておきたいという気持ちなんだよ」

「それじゃ、敬老の日に行くよ。時間はいつもと同じくらいでいいんだろう?」

「ああ、それでいいよ。それじゃ、よろしく頼むよ」

 健次は嬉しそうに受話器を置いた。


 敬老の日の9月15日午前中、淳一は由美子と一緒に車で健次の生家に着いた。せっかちの健次は既に玄関から外に出て待っていた。車の音を聞きつけて裕子も外に出て来た。

「あ、兄さん、由美子さん。今日もよろしくお願いします」

「はい、了解です。それじゃ、父さんをお借りします」

 由美子は車から降りて裕子と挨拶していたが、健次はそんなことには構わず車の後部座席に乗り込んだ。

「由美子、父さんが急いでいるみたいだから、そろそろ車に乗って。裕子、それじゃ、悪いけど、また後で」

 裕子は健次の気性は十分承知していて、笑いながら手を振って送り出してくれた。

 15分程走ってK老人病院に着いた。いつもと違って駐車場は満杯であった。病院側もそんなことは十分承知しているようで、駐車場に隣接する空き地を借りてくれていたので、淳一はその臨時駐車場に車を停めた。


 チヨが入っている病棟のナースステーションの前に置かれているテーブルの上には記名ノートの他に、当日の案内文が印刷されて置いてあった。几帳面な健次は念のためその紙も一枚掴み、内容を確認してみると、以前届いた案内状と同じであった。健次は淳一の方を振り返って言った。

「以前送付された案内状をろくに読まずにここに来て、なんだかんだと質問する家族が多いようだな」

「そうかもしれないね。皆が皆、父さんのように几帳面な人ばかりではないからね」

 淳一は若干冷やかし気味に答えた。健次は笑いながらいつものようにノートに記名してから看護師にチヨとの面会を申し出た。しばらく廊下で待った後、綺麗に着替えさせられたチヨが車椅子に乗って登場した。

「おい、チヨ。今日は淳一と由美子さんも一緒に来てくれたよ。良かったな」

 チヨは健次の言葉に愛想笑いのような表情を見せたが、直ぐにいつもよりは落ち着かない様子になった。

「父さん、今日はいつもより大勢の人たちが来ているから母さんも少し驚いているようだね」

「そうだな。まあ、屋上の談話室に入れば落ち着くんじゃないかな。とにかく上に行くとしよう」


 屋上の談話室も病棟内と同じように混みあっていた。いつも座っているテーブルは既に他の人たちが使用していたが、入り口から最も離れた場所にあるテーブルが1つだけ空いていた。健次は大急ぎで場所の確保に動いた。淳一たちはいつものようにゆっくりと車椅子を押して健次の待っている所に向かった。

「良かったですね。テーブルを確保することができて」

 いままで二人の会話を邪魔しないようにしていた由美子がほっとしたような声を出した。

「そうだね。良かったよ。もう少し遅かったら困ったことになっていたかもしれないな」

 昼食まではまだ少し時間があった。談話室の中を見回していた淳一が何かに気付いて、小さな声で健次に言った。

「病棟でもそうだったんだけど、ここにも車椅子を使っていない患者さんが何人かいるよね。あの人たちは痴呆症患者ではないんだろうか?」

「いやね、俺も驚いたんだよ。入院患者の中には足だけでなく頭もしっかりとしている人が何人かいるんだよ。それで、この病院のことをいろいろ調べてみたんだ。そうしたら、チヨのような痴呆症の患者だけではなく、他の慢性疾患や障害などで在宅対応が難しい患者や、ガンや難病でホスピスケアを望む高齢者も入院対象者として受け入れることがこの病院の方針としてはっきりと書いてあったんだよ」

「そうだったんだ。それで納得できたよ」


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