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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
23/50

第2部.想定外 2-22.住所移転

 念願であったK老人病院へチヨが入院できてから、健次はチヨと面会するためにつくばの家から東京郊外まで通った。チヨと会っていても楽しい会話が弾むことはなく、健次は時間を持て余すようになったが、何度か通ううち、申し出れば昼食の介助を家族が行なえることを知った。それからは朝早めにつくばを出て昼食時間の30分前までには病院に着くようにして食事の介助を行なった。

 ただ傍にいるのと違って、食事介助を行なうと、食欲はあるのか、しっかりと噛んでいるのか、飲み込むことが容易か、自分の意思を何とか相手に伝えられるのかなど、チヨの現状が細かいところまで観察できるので、健次はチヨのことを以前よりしっかりと把握することができた。

 つくばの自宅から最寄り駅までは由美子に車で送ってもらい、そこからJRと病院の送迎バスとを利用すると片道およそ3時間は掛かった。昼食介助を行なってからまた同じ時間を掛けて帰宅するので、健次にとっては一日仕事になった。週に3回は面会に行っていたため77歳の健次にはかなりの負担であった上に、由美子に迷惑をかけることも相当気にしていた。


 8月上旬の土曜日、珍しく健次は自分で車を運転して淳一の家を訪ねてきた。この頃の健次は、近所での買い物や趣味の集まりに参加する時にのみ車の運転を行なっていて、遠出は極力控えていた。健次の家から淳一の家までは、同じつくば市内とはいえ、かなりの距離があったので淳一は少し驚いた。淳一の顔を見ると、せっかちな健次は直ぐに要件を言い始めた。

「実はな、チヨの面会でつくばからK老人病院まで通うのが大変なんで、裕子の所にお世話になろうと思っているんだけど、淳一はそれでいいかな? 由美子さんにも随分と迷惑を掛けているので気になって仕方ないのもあってな」

「父さんの都合の良いようにしてもらえば、僕の方は全く問題ないんだけれど、裕子は大丈夫なのかな? あそこの家は父さんの生家だし、自分の家に戻るようなものだけど、今住んでいるのは裕子だからね」

「ああ、裕子は大丈夫だ。むしろ今のままじゃ俺の身体が心配でしょうがないから、できるだけ早く来て欲しいって言ってくれているくらいだから」

「ああそう。裕子がそう言ってくれているなら、良かったね」

「淳一が了解してくれれば、真理も安心してくれるだろう」

「そうだね。真理は心配性だから、父さんが裕子の家に住めばきっと安心してくれるね。由美子も随分心配していたし、僕たちもそうしてくれた方が良いんじゃないかと考えていたんだよ。もちろん、裕子の気持次第だとは思っていたんだけどね」

 健次は嬉しそうに頷くと淳一の家には上がらずに直ぐに車に乗り込んで帰っていった。

 何事も直ぐに行動しないと気が済まない健次は、淳一の了解が得られた3日後には、自分の趣味に関する物と生活するのに必要な最小限のものとをまとめて裕子の家に引っ越していった。つくばに転居した時、健次とチヨの本籍は移動せずに東京郊外の生家の所在地に置いたままだったので、住所だけ裕子の所に移せばよかった。


 健次の世話を全て裕子に任せきりにするのは相当気が引けるし、K老人病院に入院しているチヨを放ったらかしにしておいても心配であったので、淳一は月に2回はチヨの面会に行くことにした。車でつくばから行く場合、圏央道が全線開通していれば他の高速道路は使わずに済むのであるが、この頃はまだ茨城県側は開通していなかったため、先ず常磐道に乗り、外環道を経て関越道に入り、鶴ヶ島インターチェンジで圏央道に入ってからK老人病院に辿り着く道のりであった。


 8月中旬の日曜日、淳一は朝早く由美子と二人でつくばの家を車に乗って出て裕子の家まで走り、健次を拾ってからK老人病院に向かった。健次が転居してからは淳一たちがチヨの面会に行くのはこの時が初めてであった。

 つくばからの遠距離面会がなくなったことにより、自由な時間がふんだんに確保できて趣味である短歌や水墨画に思う存分取り組めるようになったためか、家から出て来た健次は、淳一たちが想像していたよりもずっと体調が良さそうに見えた。

「あら、お義父さん、随分とお元気そうですね。やはり、お義母さんの傍にいると気持ちが和らぐようですね」

「おや、元気そうに見えるかね?」

 健次は嬉しそうに答えた後、もう一言付け加えた。

「確かにつくばからこっちに通っていた頃よりは体は楽になったように思うんだがね。ただ、前から心臓の状態はあまり良くはなかったものだから、こっちの医者に掛かったんだよ。そうしたら、どうも狭心症の気があるらしいんだ。でも、その医者は笑いながら『赤ワインを1杯くらいならいいですよ』って言ってくれたんだよ」

 健次は再び顔を綻ばせた。


 K老人病院に着き、正面玄関から中に入ると健次は受付に立ち寄ることはせず、中にいた職員に簡単に頭を下げるだけにしてエレベーターに向かった。

「父さんはもう顔パスができるようになったんだ」

 淳一は少し驚いた様子でそう言った。

「いや、そんなんじゃないよ。この病院では面会時間に特別な制限がないので、直接お世話になっている病棟に行ってそこのナースステーションで面会を申し出ればいいんだよ」

「ああ、そうなんだ。本当にこの病院は患者やその家族に優しいんだね」

「ああ、俺もそう思うよ。本当にチヨがこの病院に入院できて良かったと思っているんだ」

 健次は頷きながらそう応えた。

 チヨは受付のある棟の裏側に位置している病棟の2階に入っていた。健次はナースステーションの前に置いてある小さな机の上に載っていた面会ノートに日時氏名を記入してから看護師に声を掛けた。

「お世話になっております。聖滝チヨの家族ですが、チヨとの面会をお願い致します。それで、今日も屋上の談話室で昼食の介助を行ないたいと思いますのでよろしくお願いします」

 健次の要望に優しく対応してくれた看護師はナースエイドを連れてチヨのベッドがある部屋に入っていった。近くの廊下で数分間待っていると、チヨはこの日も随分とお洒落な服を着せられて車椅子に乗って登場した。由美子は目ざとくチヨの服に気付き、明るい声で称えた。

「お義母さん、とっても素敵なブラウスとカーディガンですね。お似合いですよ」

 真夏ではあったがエアコンが効いている院内では寒すぎるといけないとの配慮が由美子には感じられた。チヨは自分が褒められたことが理解できたのか、あるいは由美子の目と態度とから言葉が持つ意味を察知したのか、非常に嬉しそうな表情を見せた。


 淳一が車椅子を押し、健次は案内役のように先に立って歩いた。屋上にある談話室には既に数組の人たちがテーブルに着いていた。健次は他の人たちからできるだけ離れたテーブルを選び、手慣れた様子でチヨの車椅子が入るスペースを作った。それぞれが椅子に座り、一段落すると淳一が口を開いた。

「さっき由美子が言ったけれど、母さんが着ている服は本当に上品だね。こんな服、母さんは前から持っていたかな?」

「いや、今チヨが来ている服は全部この病院のもので、私物は一切ないんだよ」

「ええっ、本当! 他の患者さんたちが着ている服も病院のものなの?」

「どうもそのようだ。ほとんどがこの病院を利用していた患者さんやその家族から寄付されたものらしいよ」

「そうなんだ。ここに入院している患者さんたちが上品に見えるのは、着ている服が素敵だからなんだね」

 それを聞いていた由美子が冗談めかして言った。

「私もここに入院して綺麗な服を着たくなってきました」

 三人は声を抑えて笑った。チヨも雰囲気を壊すことなく笑顔を振りまいた。

 しばらく雑談していたが、健次が談話室に設置してある掛け時計を見て言った。

「そろそろ昼食の準備ができる頃だ。ちょっと待っていてくれないか、行って取ってくるから」

「それって父さんが行かなければ渡してもらえないの?」

「いや、そんなことはないだろう。家族であれば大丈夫だと思うよ」

「それなら、僕が行ってくるよ。で、どこに行けば渡してもらえるのかな?」

「さっきのナースステーションの前辺りから配膳を始めるようだから、あそこに行って申し出れば渡してくれると思うよ」

「分かった。それじゃ行ってくる」

 そう言って淳一は2階に向かった。


 ナースステーションに行くと、ちょうど調理場から配膳車に載せられた昼食が到着したところであった。食事内容は患者によって異なっている様子で、それぞれのお盆の上には名札が乗っていて間違わないようにしてあった。

「済みません。聖滝チヨの家族の者ですが、屋上の談話室で昼食の介助を行ないたいのでお願いします」

 淳一の要請に、配膳車の担当者は微笑んで応え、チヨの食事が載ったお盆を探してくれた。

「はい、こちらが聖滝チヨ様のお食事です。それからこれはお食事の時に使うエプロンです。よろしくお願いします」

「有難うございます」

 淳一は食事が載ったお盆とエプロンを受け取り、エレベーターに乗って屋上の談話室に戻った。

 淳一の姿を認めた健次は、横に座っていたチヨに言葉をかけた。

「チヨ、淳一がお昼ご飯を持ってきてくれたよ。さあ、いただこう」

 淳一はお盆をテーブルの上に置き、持ってきたエプロンをチヨの首の回りに巻き、後ろのマジックテープをしっかりとくっ付けた。

 準備が整ったところで、健次が介助を始めた。先ず初めに口の中を滑らかにするために麦茶が入っている吸い飲みをチヨの口に含ませた。チヨは少し驚いたような表情を見せたが、飲み物であることが分かったのか、ゴクリと一口飲み込んだ。備えてあった箸で魚の切り身の煮付けを解し、スプーンでお粥を掬い、その上に魚の解したものを乗せてチヨの口の中に入れてあげた。

「どうだ、美味しいか?」

 健次の問いかけにチヨは目を大きく開けて嬉しそうな表情をした。この頃のチヨは食欲もかなりあり、嚥下もそれほど心配するようなことはなく、口の中に入れられた食べ物をよく噛みもせずに次々と飲み込んでいた。最後にデザートとして出されていたヨーグルトも全て呑み込み、この日の昼食は完食した。

「お義母さん、お昼ご飯は美味しかったですか?」

 由美子の問いかけにチヨは嬉しそうな表情を見せた。それからしばらく雑談し、車椅子のチヨを病室まで戻してから三人は病院を後にした。


 車で少し走った後、淳一は健次に訊いた。

「父さん、母さんの美味しそうな昼飯を見ていたら、こっちもお腹が空いてきたよ。どこかで食事をしてから裕子の家に戻ろうよ。いい店、知らない?」

「うん、確かに腹が減ったな。そうでしょう、由美子さん?」

「本当にそうですね。お義母さんのお食事に負けないくらい美味しいものを食べたいですね」

「確か、由美子さんはお刺身やお寿司が好きでしたよね」

「はい、お義父さんと同じで、生ものが大好きです」

「それじゃ、ちょうど帰り道にある回転寿司屋でどうかな? 値段は物凄く安いという訳じゃないけど、結構旨いんだよ」

「それじゃ、その店に行こう」

 病院から10分くらい走ってお目当ての回転寿司屋に着いた。

 午後1時半を回っていたが、日曜日のこの時間は結構な数の客がいて、席が空くのを待っている人が何組かいた。健次は受付に用意されていた紙に名前と人数とを記入して待合場所の椅子に座った。淳一と由美子もそれに倣って座って待つことにした。


 しばらく待つと、店員に呼ばれて空いたカウンターに三人揃って座った。値札を見ると、この店では150円から300円くらいまでが1皿の値段で、味さえ良ければ満足できそうに思えた。

 健次は既に何回かこの寿司屋を利用していたようで、一連の動作には無駄が感じられなかった。椅子に座ると直ぐに目の前の棚の上に置いてあった湯飲み茶碗を取り、お茶の粉末を備え付けのスプーンで掬い取って茶碗に入れ、カウンターの上に付いている蛇口のスイッチを押しながらお湯を注いだ。淳一と由美子は笑いながら健次の動きと同じようにした。

「淳一、この店は一応回転寿司屋なんだが、回っている寿司を取るよりも、中で握っている店員に直接頼んだ方が新鮮で上手い寿司が食べられるから、そうした方がいいよ」

 そう説明すると直ぐに店員に向かって注文した。

「済みません。鮪の赤身と青柳を1皿ずつお願いします」

「はい」

 店員は健次の方を短時間見ただけであったがそれで充分であったようで、それ程待つこともなく注文した寿司が差し出された。淳一は由美子の好きな貝類、鯛、ハマチやウニを2皿ずつ注文し、二人で同じものを食べた。健次はその後数皿注文してアッという間に食べてしまった。

「俺はここに来たら6皿だけ食べることにしているんだよ。そうしないと太っちゃうんでな。それで、最後は縁側を食べるんだが、二人はどうする?」

「えっ、もう終わりなの? 由美子はどうする?」

 まだ満腹感には達していなかった淳一は答えを由美子に任せた。由美子はこの状況でさらにいくつも注文する勇気は出てこなかったようであった。

「はい、私も縁側をいただいて終わりにします」

「それじゃ、縁側を3皿お願いします」

 淳一も仕方なさそうな表情でそう注文した。


 淳一が支払を済ませるとせっかちな健次は既に車の傍まで行って待っていた。由美子と顔を見合わせて笑った後、三人は車に乗り込んだ。

「父さん、今の寿司屋、なかなか美味しかったね。値段もまあリーズナブルだし」

「そうだろう。俺も結構気に入っているんだよ」

 これ以降、淳一が健次を連れてチヨの面会に行った時は、帰りにこの寿司屋に寄ることがお決まりのコースとなった。

 裕子の家で健次を降ろすと、寄っていくようにとの裕子の誘いを断って二人はつくばに向けて車を発進させた。


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