第1部.発症と出会い 1-21.穏やかな日々へ
チヨが入院できた8日後にも淳一は一人で電車に乗ってチヨのお見舞いに出かけた。チヨは入院直後に見せた柔和な表情のままその後を過ごした様子で、この時も優しく淳一に接してくれた。ただ、淳一を見るチヨの目は、自分の子供を見ている感じではなく、自分に優しく接してくれる異性を見ているように淳一には感じられた。こんなことは生まれて初めての体験であったので、不思議な気分になった。
チヨの表情がこの1週間ずっと安定していた様子だったのを看護師からも聞き、自分の観察の確かさを裏付けてもらえたように思えた淳一は心の底から安堵した。すると急に岩茸石仙人と話がしたくなった。K老人病院の送迎バスを降りると、駅の方は見向きもせずに『食堂大丹波川』に向け歩き出した。
引き戸を開けると、岩茸石仙人が定位置に一人で座っていた。カウンターの上にはワイングラスが置かれていたが、この日は白ワインが注がれていた。
「こんにちは。あれっ、今日は白ワインですか? 珍しいですね」
「おお、聖滝さん。こっちに来て一緒に飲みましょう。こう暑いと赤ワインじゃなくて冷やした白ワインを飲みたくもなるものなんですよ。昨日この店に来てマスターに1本預けて冷やしておいてもらったんです」
「それはいいですね」
「ワインに使われるブドウの品種はほとんどがヨーロッパで栽培されている品種なのですが、この白ワインは日本に古くから存在していた『甲州』という品種から醸造されたもので、今や世界に誇れる白ワインになりつつあるんです」
「そうなんですか。それは楽しみですね」
そう言って淳一が長い方のカウンターの端に座ると直ぐに店主がワイングラスを目の前に置いてくれた。仙人がゆっくりと注いでくれたグラスの外側はワインが入った部分だけが曇り出し、適度に冷やされていたことが淳一にも感じられた。ステムを掴み、少し上に挙げて仙人と軽く乾杯してから一口含んだ。
「ああ美味しい。このワインは爽やかさと奥深さが感じられますね。それに暑い時期には冷やした白ワインが確かに合いますね」
「そうでしょう」
久しぶりの白ワインを味わった後、淳一は店主に摘みと大丹波定食とを注文した。勿論摘みはお任せである。
「聖滝さんの今日の表情は穏やかでゆとりがあるように私には見えますが、何か良いことでもあったのですか?」
「はい、その通りです。やはり仙人の眼力は凄いですね。実は先週、母がK老人病院に入院できたんです」
「ほう、それは良かったじゃないですか。まだ1週間かそこらではよく分からないかもしれないけれど、どうですか、K老人病院の印象は?」
「非常に短い期間ではありますが、驚いたことが2つもありました」
「それは何ですか?」
淳一は母の表情が著しく変化したことと職員の患者や家族への対応の仕方について詳しく説明した。
「なるほど。院長の強い思いは病院内で徹底されてきたようですね」
「えっ、あれは院長の指示で行われているのですか?」
「私はかなり前、雑誌か何かでK老人病院の院長へのインタビュー記事を読んだことがあるんです。それにはこんな内容が書かれていました。『日本は急速に老齢化していて、この現象は世界で初めての事のようだ。院長はこの問題に積極的に取り組みたいと考え、それがあの病院を創設する動機の1つになった』とね。また、それとは別の個人的な観点もあったのです。それは、院長自身のご両親の面倒を看てくれる所が欲しかったということでした」
「そうだったんですね。そう言えば、初めてK老人病院に来て医療ソーシャルワーカーの方から病院について説明していただいた時、院長が親御さんを託す所が欲しかったということはお聞きしていました。院長も私たちと同じような経験をされていたんですね」
「私たち人類は唯一無二の地球という惑星の上に乗っかって生きています。その地球上で本当に奇跡的に生まれてきた生命の中で、最も進化していると考えられる人類を大事にしていきたい、と私は考えるのです。自分より前の世代を大切にし、自分たちも直向きに生き、次の世代に託して死んでいく。これをきちんと行なっていかなければならないと思うのです。『我々はDNAを継承中』なのですから」
仙人から突然発せられた言葉の意味する所を淳一は直ぐには頭の中に描くことはできなかった。しばらく考えた後で質問してみたが、仙人は微笑むだけで何の説明もしてはくれなかった。この時、淳一は仙人から宿題をもらったような気になった。
健次はチヨを何とかK老人病院に入院させることができ、心も体も本当に解放されたようであった。その様子を見ていた淳一たち家族も、大きな山を乗り越えた感じがした。これからはこのままそれ程大きなストレスを感じることもなく聖滝一家が生活していくことができるように思えた。
特に淳一は、チヨが入院している病院の近くに『食堂大丹波川』があるので、これまでよりも頻繁に仙人に会えると考え、チヨのお見舞いに行くことへのハードルは著しく低くなりそうだと感じた。
父健次の健康そうな様子を目の当たりにしていると、淳一夫婦ばかりでなく真理や裕子も、母チヨの最期を健次が看取ってくれるものと信じて疑わなかった。
しかし、人間が自分の都合の良いように考えた筋書きはその通りには展開していかないもののようである。
了(「第2部-想定外」に続く)




