第1部.発症と出会い 1-20.病院の基本理念
1997年7月4日金曜日、73歳の誕生日のほぼ2カ月前にチヨはようやく東京郊外にあるK老人病院に長期入院することができた。
健次はチヨの入院手続きを済ませ、車で一緒に来てくれた淳一とともにつくばに戻った。帰りの車中ではまだ気持ちが高ぶった状態が続いていたため饒舌に振る舞っていた健次であったが、家に着き淳一が帰った後、家の中で一人になるとボーとしたまま動かなくなった。健次にとってはチヨの介護から本格的に解放された状況にようやく辿り着けたわけで、それまで張詰めてきた緊張の糸が完全に切れたような状態になった。
頭の中では本当に長かったチヨとの苦闘の生活の一コマひとコマが次々と浮かんでは消えていった。
「我ながら本当によく辛抱したなあ……」
健次はそう自分自身を褒めてあげた。気が付くと辺りはもう暗くなり始めていた。時計は、家に着いてから3時間も経ったことを示していた。重い腰を上げ、ごく簡単に余り物で夕食を済ませると、まだ午後9時前であったが、これまで経験したことのないような眠気が全身に広がった。ようやくのことで押し入れから出した布団を敷いて潜り込むとそのまま深い眠りに落ちた。
健次は77歳になっていて、いつもなら夜中に1、2回はトイレに起きるのであるが、そんなこともなく10時間以上も眠り続けた。翌朝、健次が目を覚ましたのは7時過ぎであった。本当に久しぶりに熟睡できたように感じられ、ここ数年では気分が一番良い状態のように思われた。いつものようにパンとゆで卵とハチミツとたっぷりの生野菜とで朝食を済ませると、誰に気兼ねすることもなく自分一人で使うことができる貴重で静かな時間をどのように過ごそうかと考えてみた。ノートに短歌をいくつか書いてみた。それから絵筆を持って水墨画を描こうと思ったが、筆が一向に進まなかった。
しばらくの間、あれこれやってみたがどれも長続きしなかった健次は淳一の家に電話した。
「ああ、由美子さん。申し訳ないんだけれど、今時間ありますか?」
「はい、何とかなりますよ。どうされたのですか?」
「実は何をやっても落ち着いてできないんですよ。それで、チヨのお見舞いに行ってみようかと思いましてね。駅まで送っていただけませんか?」
「はい、分かりました。直ぐ伺います。それでは後ほど」
健次は電車を乗り継いでK老人病院の最寄り駅まで行き、そこから病院の送迎バスに乗り、午後2時を過ぎた頃病院に着いた。チヨが入っている病棟のナースステーションに行き、チヨとの面会を申し出ると、看護師長が出て来た。
「お世話になっております。聖滝チヨの夫の健次です。チヨと面会したいのですが、できますでしょうか?」
そう健次が訊くと、看護師長は笑顔で頷き、この病院では面会時間を特に定めていないと説明してくれた。『患者の家族には有り難い話だな』とチヨの病室へと先導してくれる看護師長の後を歩きながら健次は思った。
チヨは8人から10人が入る大部屋にいた。お金を出せば4人や2人の部屋にも入ることは可能であったが、一番安い大部屋でさえ支払う額は健次にとっては大きな負担であった。一人部屋となると健次の年金月額の何倍もの額であって、『一体どんな金持ちが利用しているのだろう』などと要らぬ詮索をしたくなるような状況であった。チヨは昼食も終え、ベッドの上で眠そうな顔をしていたが、健次の姿を見ると、笑顔になって迎えてくれた。
入院前のチヨの態度から考えると、チヨがこの病院の看護師やナースエイドの人たちの接し方に反抗的にならないであろうか、家に帰ると言い出さないであろうか等々、健次はここに来るまで不安で仕方なかった。しかし、チヨの穏やかな笑顔を見て本当に安心した。
「この病院に入院させてもらうことができて本当に良かった。500人以上もの入院待ちの患者たちがいて5年半もの長い間待った甲斐があったな。最初に運良く院長の診察を受けることができたのが幸いしたのかもしれない」
そんなことが頭に浮かんだ健次はチヨの方を向いて笑顔で訊いた。
「チヨ、どうだい、ここの居心地は?」
チヨは健次の話の内容が理解できたのかどうかは疑わしかったが、一段と嬉しそうな表情で応えてくれた。
K老人病院に入院する直前のチヨは、時間や場所の認識がほとんどなく、辻褄の合わない言動ばかりで、夜もしっかりと寝ていることはそう多くはなかった。夜中に大きな声で独り言を言うので健次は度々驚かされたし、会話もほとんどまともにすることができなかった。健次や息子や娘たちのことがはっきりと分かってはいない様子で、名前も忘れている有様であった。K老人病院に入院する5カ月ほど前にT老人病院でベッドから落ちた後、車椅子に座ったままか寝ている状態になってしまったため、床ずれができていた。食事や着替えや入浴なども全介助になっていて、排泄もおむつを使用していた。左手はほとんど動かなくなっていたものの、この頃はまだ首は少し動かせたし、目や表情にも動きが感じられ、チヨの感情をある程度推測できる状況ではあった。
健次が喋るのが一段落すると、タイミングを見計らっていた看護師長が口を開いた。
「聖滝様、当院にはいくつか談話施設が用意してあります。今のチヨ様の状態は良さそうですので、車椅子で行ってこられたらいかがでしょうか? このフロアにも勿論談話室はございますが、屋上にも設置されておりまして、そちらに行きますとご気分も変わるのではないかと思いますが」
「そうですか。それじゃ、お勧めの屋上の談話室に行ってみようかな」
「はい。それではチヨ様のお支度を致しますので、その間、少々外でお待ちいただけますか?」
そう言うと看護師長は廊下に出て行き、ナースエイドを連れて戻ってきた。健次に合図して部屋の外に誘導すると頭を下げてからナースステーションに戻っていった。
数分間待っていると、チヨが車椅子に載せられて廊下に出て来た。先ほどは病衣を着ていたが、出てきたチヨは鮮やかな色彩のブラウスを着せられ、顔はずいぶんと白くなり、唇には赤い紅が差されていた。お化粧したことがチヨにも理解できたのであろうか、嬉しそうな表情で登場した。ナースエイドに屋上の談話室への行き方を教えてもらい、車椅子を押してエレベーターに乗った。
屋上に出て角を曲がると周囲が見渡せる所があり、西の方向には奥多摩の山々がうっすらと姿を見せていた。
「きっと冬になればもっとずっと綺麗に見ることができるのだろうな」
そう健次は呟いた。
談話室は屋上の南側にあり、中に入ると4人掛けのテーブルと椅子が10セット程備えられていた。夏の盛りであったため、屋上に出るとかなり暑く感じられたが、談話室の中はエアコンがよく効いていて快適であった。室内では一つのテーブルしか使われておらず随分と静かな雰囲気であったが、先客とは距離をおいた場所を使うことにし、椅子を一つ部屋の隅に異動させて空いたスペースにチヨが乗った車椅子を滑り込ませてストッパーをかけた。健次はテーブルを挟んで反対側の椅子に座り、チヨに言葉を掛けた。
「おい、チヨ。昨夜は寂しくなかったか?」
チヨは健次が優しく接してくれている状況に満足していたのか、随分と嬉しそうに反応して何かを喋ったようであったが、健次には聞き取ることができなかった。
チヨの入院から2日後の日曜日、淳一は由美子と一緒につくばから車で母の様子を見に行った。健次を誘ったがかなり疲れていた様子で、この時は同行しなかった。病室でチヨの顔を見た途端、淳一は非常に驚いた。この病院に入るまでのチヨの顔は何となく刺々しい感じがしていて、昔の優しい表情は消え失せていた。ところが、K老人病院にいるチヨの顔からは険しい表情が消え、にこにことした柔和なものになっていた。
病院からつくばへの帰りの車の中で、淳一は由美子に言った。
「しかし、驚いたね。母さんの顔は前にいた病院での顔とは別人になったみたいだね」
「本当にそうね。まだ入院してたった2日間しか経っていないのに、あんなに変わるとは思わなかったわ。一体何があったのかしら」
「多分、母さんに対するK老人病院の人たちの対応が、これまでのものとは全く違っているのではないのかな」
「例えば、どんなふうに?」
「ほら、あの病院の廊下を歩いていると他の病院とはちょっと感じが異なっていただろう?」
「あら、そうだったかしら」
「あそこの病院の人たちは廊下の中央は歩いていなかったよ。医師、看護師、ナースエイドの皆さんが廊下の端を歩き、患者さんや家族の人たちが歩き易いようにしていたよ」
「ああ、そう言えば、そんな感じだったかもしれない」
「想像するに、あの態度がこの病院の基本的な理念なのじゃないかな。だから、母さんに対する対応も、病院側の都合を押し付けるのではなく、母さんの意思を汲み取り、それにできるだけ沿って行なってくれているのではないのかな」
「なるほどね。そうかもしれない。私がお世話する時も、お義母さんにこちらの都合を押し付けようとすると、すごく嫌がることが多いような気がするの。お義母さんの気持ちを察して対応した時は、優しい表情で素直に言う事を聞いてくれるわね」
「由美子は随分と両親の世話をしてくれているから、流石によく分かっているね。アルツハイマーの患者は確かに会話などがまともに成立していないように思えるけど、記憶は直ぐに消えてもその時の感情はある程度の短い時間なら頭の中に残っているように思うね。だから、嫌なことをされれば、こちらの言う事を聞かなくなるし、自分の意思が反映されている場合はにこにこして言う事を聞いてくれるのかもしれない」
「そうすると、これまでお義母さんが入院してきた病院と比べて今度のK老人病院は素晴らしい対応をしてくれている訳ね」
「多分、そうなんだろうね。有難いことだね」
「本当にそうね。お義母さんにとっても、私たち家族にとっても」




