第1部.発症と出会い 1-1.予兆
あれは1987年7月のことであった。40歳になったばかりの聖滝淳一は、いつものように親族やお世話になっていた人たちにこの年もお中元としてメロンを贈った。この頃の数年間は、当時の旭村、その後合併されて鉾田市になった地区にあるメロン栽培農家を妻の由美子と共に直接訪ね、自分たちの目でメロンをよく吟味した上で選んだものを発送してもらっていた。毎年何人かの人たちから美味しかったとお礼を言われていたのに加え、自分たちもこの農家のメロンを食べてみて間違いないと感じていたので、自信をもって贈り続けていた。
お中元を贈った数日後、母チヨから電話があった。
「ああ、淳一かい。あなた、この間、泰蔵さんにメロンを贈ったでしょう。実は、奥さんの英子さんはメロンが嫌いなんですって。だから、もうメロンは贈らない方がいいよ」
「ああ、そうだったんだ。今まで知らなかったから贈っていたんだよ。教えてくれて有難う。次回からは別のものを贈るようにするよ」
泰蔵とは淳一の父、健次のすぐ下の弟である。二人とも東京郊外にある生家で他の兄弟姉妹と一緒に育った。健次は高校卒業後、生家の近くにあった会社に就職したが、その後、兵士として太平洋戦争に駆り出され、何とか生きて帰ってきた。健次の兄は戦死してしまったので、健次が生家を継いでチヨと結婚し、淳一、真理、裕子の三人の子供が生まれた。戦後の混乱の中、車関係の会社に就職することができ、生家から通勤していた。健次の父親が亡くなった後、勤務していた会社の新工場がつくば市近くに建設されることになり、健次に異動内示が出た。何に対しても意欲的に取り組んできた健次は転勤を承諾し、生家の環境に似ている風景が気に入ったつくば市郊外の山に近い所に居を構えた。健次はつくば近郊の工場で定年を迎えるまで勤め上げ、退職後もつくば市で暮らしていた。
泰蔵は国家公務員になり、日本各地を転々としていたが、50歳代後半につくばに異動となってそのまま定年を迎えた。兄の健次と同様、つくば市内に住み続けたため、健次とは同じ市民として他の兄弟姉妹よりも親しくしていた。
翌日、淳一が夜遅く研究所から帰宅すると妻の由美子が言った。
「お義母さんから電話がありました」
「ああ、そう。それで、何だって?」
「お中元のことでした。何でも泰蔵叔父さんのところにメロンを贈ったのが拙かったみたいですよ。英子叔母さんはメロン嫌いなんだって言っていました」
「えっ、またそのことを言ってきたんだ」
「またって、あなたも同じことを言われたんですか?」
「そうなんだよ。昨日僕にそのことを電話で言ってきたから、来年からは別のものを贈るようにするよ、って言っておいたんだけど」
「変だわね。きっと、英子叔母さんはメロンがすごく嫌いなんでしょう」
「多分、そうだね」
その時はそれで終わった。その後、淳一は母の言動の不自然さをすっかり忘れていた。
翌年のお中元は、泰蔵叔父のところにだけメロンではなく別の物を贈った。
数日後、淳一と由美子は子供たちを連れて父母の家に遊びに行き、自分たちが贈ったメロンを皆で食べていた。ちょうどその時、泰蔵と英子がお中元を持って健次の家を訪ねてきた。泰蔵は淳一に笑顔で言った。
「この間はハムとソーセージの詰め合わせを贈ってくれて有難う。とても美味しかった。そのお礼に、ほんの少しだけどお菓子を贈っておいたよ。届いたら子供さんたちと一緒に食べておくれ」
「いやー、かえってご迷惑をお掛けしてしまって済みません。有り難く頂戴致します。そうだ、今メロンを食べているところなんです。ご一緒にいかがですか?」
淳一が声をかけると、由美子が小声で言った。
「あなた、英子叔母さんはメロンがお嫌いだったでしょう」
「ああ、そうでした。失礼しました」
すると、英子は怪訝そうな顔をして答えた。
「いいえ、とんでもない。私はメロンが大好物なのよ。美味しそうなメロンね。是非いただきたいわ」
淳一は由美子と顔を見合わせた。
「それは気が付きませんで……。直ぐに持ってきます」
由美子が台所に行って運んで来たお皿を二人の前に置くと、泰蔵と英子はとても嬉しそうにメロンにスプーンを入れ、一口頬張った。ゆっくりと味わった英子は実感の籠った表情で言った。
「本当に美味しいメロンだわ。この上品な甘さが堪らないのよ」
誰が見ても英子のメロン好きは疑う余地がなかった。
泰蔵夫婦が帰った後、淳一は母が傍にいないことを確認してから由美子に向かって気落ちしたような小声で言った。
「母さん、どうもおかしいね……」
由美子はどう返事してよいか分からず、困ったような顔をしていた。
「しかし、この間、父さんが前立腺肥大の手術で珍しく入院した時、母さんは父さんの身の回りの世話がちゃんとできていたんだよね?」
「ええ、私も毎日のようにお見舞いに行ったけど、特におかしなことは無かったと思うけど……」
「そうだよね」
そう言って、淳一は自分の心の中に芽生えた不安を消し去ろうとした。
メロンの件があってしばらくしてからの土曜日、母の言動が気になっていた淳一は一人で父母の家を訪ねた。健次とチヨは揃って昼飯を食べていた。
「こんにちは。ちょっとドライブがてら遊びに来たよ」
「おお、よく来たな。あれっ、今日はお前一人なのか?」
健次は可愛い孫の姿がなかったので少々がっかりしたような声で訊いた。
「うん、そうだよ。子供たちは行事があって忙しいものだから。これからお昼ご飯かい?」
「いや、もう直ぐ終わるところだ。お前も食べるか?」
「いや、軽く食べて来たからいらないよ」
二人は間もなく食事を終え、チヨは台所で後片付けを始めた。
「父さん……、ちょっと話したいことがあるんだけど、散歩に行かない?」
「そうだな。久しぶりにお前と散歩するか」
せっかちな健次は直ぐに玄関に向かった。淳一は台所に行き、チヨに言葉を掛けた。
「母さん、ちょっと父さんと散歩に行ってくるよ」
チヨは明るくそれに応え、後片付けを続けた。
しばらく歩いてから淳一が言った。
「実は……、母さんのことでちょっと気になることがあるんで、父さんと話をしようと思ってね」
「ああ、そうかい。で、何なんだ、気になることって?」
「お中元のことでこんなことがあったんだよ」
淳一は昨年母からあった電話の件と、つい先日父母の家に泰蔵夫妻が来た時の出来事を健次に話した。淳一は一つひとつ順を追って丁寧に話すので、少し時間は掛かるが相手にはよく理解してもらえた。
「うーん、そんなことがあったのか。実はな、俺も最近のチヨは少し変だと思っているんだよ」
汗かきの健次は首から下げたタオルで滲み出てくる汗を拭きながら応えた。
「どんなふうに?」
「一昨年の年末にチヨが民生委員になったのはお前も覚えているだろう。任期は3年なんで、勤め上げるまであと1年ちょっとなんだが、最近どうも被害妄想的なことを言うようになったと感じているんだよ。それに物忘れが前より多くなったような気がするんだな。まあ、いつもっていう訳ではないんだが、時々そんなふうになるんだ」
「そうだったんだ」
「チヨはまだ64歳なんだ。呆けるには早すぎるよな?」
「うん、そう思いたいけどね」
無言のまま散歩を続けた二人の頭の中には得体の知れない不安の欠片が浮かんできていた。