第1部.発症と出会い 1-18.繋ぎ入院
チヨは毎週火曜日と木曜日の午後、S老人保健施設のデイケアに通うことになった。
その初日、手続きが終わってからチヨを施設の介護士に託し、健次も施設の中に入ってみると、かなり広い部屋の中には思っていたよりも大勢の老人が入れられていた。利用者たちの声は全く聞こえてくることはなく、時たま耳に入るのは施設の介護士たちの話声だけであった。そんな異様な静けさの中でチヨは壁に沿ってひたすら目的の定かではない歩みを続けていた。
デイケアに通うようになってからチヨの我が少しずつ強くなってきた。家に帰ってきたチヨが施設で接した他の利用者のカーディガンを持ってきてしまい健次が取り上げようとすると嫌がったり、『ここは私の家ではないでしょう』などと言って家に入ろうとしなかったりするなど、何かにつけて健次に対して反抗的な態度を取ることが増えていった。
7月になってからであった。いつものように真理が忙しい商売の合間を縫って甲府からチヨの顔を見にやってきた。
「あんた、誰だっけ?」
怪訝そうに訊いたチヨの顔を見て、真理の頬に涙が伝わって流れた。しばらく無言で母を見つめていた真理は別の部屋にいた健次のところに行って涙声で言った。
「もう私の顔も判らなくなってしまったのね」
「そうなんだよ。淳一のことも自分の子供だと思っていないみたいなんだ。それに、最近は俺が片付けたものをチヨはめちゃめちゃにしてしまうんだよ。それでも、まだ俺が傍にいると少しは安心しているみたいなんだけどな」
「あんなにしっかりしていて優しかった母さんがこんなになっちゃうなんて、あんまりだわ」
「本当だな。チヨが何をしたっていうのだろうな」
「またK老人病院に行って状況を訊いてみた方がいいんじゃない? それと、そろそろ入院希望を出しておいた方がいいかもしれないわね」
「うん。ただ、少し前に淳一がK老人病院に行って訊いてくれたんだが、あまり良い返事は貰えなかったと言っていたんだよ。それに、徘徊があると入院は難しいようなことを言われたからな。まだ無理かもしれない」
「そうなの……」
真理は随分と落ち込んだような表情で肩を落として甲府に帰っていった。
真理が帰ってから数日後、健次は高齢者クラブのカラオケにチヨを連れて行った。先ず健次が自分の十八番を歌い、次にチヨに歌うよう勧めてみた。チヨは始めのうち嫌がっていたが、健次の友人の竹田がその様子を見て声を掛けてくれた。
「それならチヨさん、俺が歌うから手伝ってくれよ」
「それなら、いいわよ」
そう言ってチヨは2本あったマイクの1本を握った。竹田はチヨが歌いだすと自分はマイクから口を離してくれたので、ほぼチヨの独唱になった。誰かチヨと一緒に歌ってくれる人がいるとチヨは思いの外上手に唄えた。チヨの頭の中に昔歌っていたメロディが蘇ってくるように健次には思えた。
この頃は、夕方になると毎日のように『自分の家に帰る』と言い張り、健次が『ここがお前の家だよ』と諭しても支離滅裂な理屈をこねた。また、デイケアに行ってもぷりぷりと怒りっぽくなることが増えた。その理由を訊いても筋の通った返事が返ってくることはなかった。
1996年9月中旬からの6ヶ月間、チヨはT老人病院に2回目の入院が許された。前回入院した時は廊下や室内の歩くことができる場所をかなりの速さで歩いていた。この時も徘徊はしたが、壁に備えられている手摺りをしっかりと握って非常にゆっくりと歩くことしかできなくなっていた。
チヨは若い頃から落語が大好きで、落語全集が愛読書だったという話を淳一は聞いたことがあった。これに反して健次のユーモアのセンスは著しくレベルの低いものであった。健次が知っていた落語は長い名前を取り上げた話だけと言ってもよく、チヨを見舞いに行くと、よくこの酷く長い名前を言わせようとした。健次はチヨの趣味に合わせて一所懸命努力していたつもりだったのであろうが、チヨにとってはそんなものではちっとも面白く感じられなかったようだ。
健次が聞いていないようなタイミングで、チヨは淳一や由美子が大笑いするような面白いことを、表情一つ変えずにさらりと言うことが時々あった。
1997年の年明けをチヨはT老人病院で迎えた。淳一は由美子と中学生の娘の弥生と一緒にチヨに新年の挨拶をしようと病院に行った。
「お祖母ちゃん、明けましておめでとう。今年もよろしくね」
由美子の挨拶に続いて明るく高い声で挨拶した弥生の声に反応してチヨは言った。
「おめでとう。綺麗だねー」
弥生は正月なので随分と可愛い服装をしていたし、由美子も化粧していつもよりは着飾ってきたのにチヨが気付き、嬉しそうに二人を見ながらそう言った。
「母さん、おめでとう」
二人の後、いつものようにラフな格好でやってきて挨拶した淳一を物珍しそうにしげしげと眺めたチヨは、にやりと笑いながらこう言った。
「化粧して出直していらっしゃい」
一瞬、三人とも声が出ず、お互いに目を見合わせた。
「母さんも、綺麗かそうじゃないかはしっかりと分かるんだね」
笑顔で淳一がそう言った後、皆で大笑いした。
1997年2月初め、淳一と由美子は先ず父母の家に行って健次を車に乗せ、三人でT老人病院に行った。いつもなら徘徊しているチヨの姿を直ぐに見つけることができるのであるが、しばらく見回していてもチヨの姿は確認できなかった。心配になった健次はナースステーションに行って中の看護師に声を掛けた。
「あのー、済みません。聖滝チヨの家族の者ですが、今、チヨはどこにおりますでしょうか?」
中にいた看護師たちはお互いに顔を見合わせてから、一人が答えた。
「実は……、聖滝チヨさんは昨晩ベッドから落ちてしまったようです。私たちも落ちたところを見た訳ではないのですが、朝早く見回りに行った際、お顔から少し血を流しておられました。勿論、直ぐにTK整形外科にお連れ致しまして治療していただきましたけれど」
「えっ、それは大変だ。それで、チヨは大丈夫なんでしょうか?」
心配そうに健次が訊ねた。
「ええ、今はお部屋の中のベッドでお休みになっておられます」
「今、部屋に入ることはできるんでしょうか?」
「はい、大丈夫です。ご案内致します」
看護師に付いていくと、チヨが寝ているベッドの部屋に案内された。その部屋には2つベッドが備えられていて、片方には誰もおらず、反対側にチヨが横たわっていた。
「おい、チヨ。大丈夫か?」
チヨは額に絆創膏を貼っていて、健次の言葉に元気なく顔を向けたが、ただ頷いただけであった。
「落ちた時、顔と腰を打たれたようです。今朝は歩こうとされませんので、ベッドでお休みいただいています」
看護師はそう補足した。
ベッドから落ちた後、チヨは車椅子を使用するようになった。健次はチヨの体力が回復すれば自力で歩けるようになるものと思っていたが、この後チヨが歩くことはもうなかった。




