第1部.発症と出会い 1-17.視点
K老人病院の送迎バスに乗り、最寄り駅で降りた淳一の頭の中に岩茸石仙人の顔が浮かんだ。淳一は線路に沿った道をしばらく歩き、『食堂大丹波川』に着いた。いつもと同じような時刻なのに店の前には『準備中』の札が下がっていた。
「店は開いていないのか……。でも休みではないようだな。少し待ってみるか」
そう呟いて線路伝いにぶらぶら歩きだした。淳一の頭の中は先刻まで仙人と楽しく会話する映像で占められていたのだが、チヨが直ぐにはK老人病院に入院できないという現実が広がり出して、再び不安になった。
突然、後から肩を叩かれた。
「随分と落ち込んでいるようですね」
振り向くと岩茸石仙人の笑顔があった。
「あっ、仙人でしたか。店が閉まっていたので、少し時間を潰そうと思って歩いていただけですよ」
「そうですかね。私には随分と落胆した姿に見えましたけれど。まあ、そろそろ店も開けてくれるでしょう。中に入ってから話をしましょう」
「有難うございます」
二人はぶらぶらと歩き、『食堂大丹波川』の前に来た。仙人が合図でもしたかのように絶妙なタイミングで店の中から店主が出てきて『準備中』の札をひっくり返した。二人が揃って店の前にいたのに少し驚いた表情を見せた店主であったが、直ぐにいつもの振る舞いに戻って言った。
「今日はちょっと野暮用があって店を開けるのが遅くなってしまいました。お待たせして済みません。さあ、中に入ってください。採れ立てのワラビがありますよ」
店の中に入ると仙人と淳一は当たり前のような顔をしていつもの席に座った。仙人は直ぐにリュックから赤ワインを取り出し、ボトルのスクリューキャップを力も入れずに開けると、店主が素早くカウンターの上に置いた二つのグラスに注いだ。ステムを掴んでグルグルっと回してから鼻に近づけた。
「私が買える範囲の赤ワインとしてはまあまあの香りかな。安物で悪いですけど、多分結構いけると思います。スクリューキャップじゃなくてコルクの栓を開けたらもっと雰囲気が盛り上がるんでしょうが、私はそんな贅沢が言えるような身分じゃないのでね」
そう言って仙人はグラスを持ち上げ乾杯の姿勢をとった。淳一も仙人と同じように香りを楽しんでからグラスを持ち上げ、仙人に応えた。口の中に含んだワインを転がして味わうと自然に言葉が出てきた。
「ああ、いい香りだ。味もしっかりとしていて飲みごたえのあるカベルネ・ソーヴィニオンですね」
「もう少し熟成してから飲んであげると、タンニンも落ち着いてきて更に美味しくなるんだろうけど、私には待てない。あっははは」
仙人の笑いは、どんな作り事も含まれてはいない心の底から湧き出てきているもののように淳一には感じられた。そこに焼きたてのニジマスとワラビの煮物が二人分運ばれてきた。
「どうぞ召し上がってください」
店主の言葉に従って二人はワラビの煮物を口に入れた。
「うん、美味い」
「本当だ、いい味ですよね。今はワラビが採れる時期なんだなあ。もう直ぐゴールデンウイークになるのですね」
「ところで、先刻道で会った時、聖滝さんは随分と落ち込んでいたように見えましたけれど、一体どうしたのですか?」
「母がK老人病院で院長の初診を受けてから4年近く経ったので、そろそろ入院させてもらえるのではないかと思い、今日また病院に行って、訊いてみたのです」
「あまり良い返事は貰えなかったようですね」
「はい、その通りだったんです。現時点では正確な入院期日は言ってもらえませんでした。ただ、私が大変困っている現状を話したことはきちんと院長に伝え、できる限り希望に沿うようにしたいとは言ってくれました。でも、要するに、まだまだ入院できそうもない、という返事だったのだと思っています」
「それで元気がなくなり、この店に来たということですね」
「はい、その通りです。というか、仙人にお会いしたくなったというのが本当のところだと思います」
「それは有難うと言った方が良いのですかね。まあ、物事というのは、それをどの視点で見るかによって、ある意味、全く別なものとして人間の脳に伝達されるものですからね」
「はい? どういう意味ですか?」
「今、聖滝さんが話した内容は、以前から入院を希望していて、現時点でも入院することが叶えられていない状況に置かれている人の視点で現状を見たケースです。その視点では、4年も待たされた挙句、まだいつ入院できるかさえ分からない酷い状況であるという認識になります」
「はい、全くその通りだと思いますけど……」
淳一は仙人が何を言いたいのか見当も付かないので怪訝な面持ちで次の言葉を待った。
「それでは視点を変えて、K老人病院のスタッフという視点から見たらどういうことになるでしょうか。そして、日本の老人の健康対策を考えている立場の人間の視点からはどう見えるのか。さらにそれが世界全体の視点からはどう見えるのか……。そんな考え方をしてみると、自分の置かれている立場、状況というものがかなり客観的に見えてくるようになるのではないですかね。言い換えれば、『物事を俯瞰的に見る』ということになりますね」
淳一はドキッとした。顔が赤くなるのが自分でも分かった。淳一が勤務している研究所の若い研究者に向かってよく言っている言葉があったのだ。
『研究を行う場合、目の前の現象は大変貴重である。しかし、それだけに囚われていては真実の発見はなかなかできない。常に俯瞰的に物事を観察することによって客観的な真実を発見するように努めなければならない。例えば、大空高く飛んでいる飛行機から見れば眼下の地形は一目瞭然で、どう動けば目的地に到達できるかかなり簡単に判断することが可能である。だが、自分が地上にいた場合、そのように見ることは非常に難しいことではある。少しでも高い位置から物事を観察することを考えに入れて判断することを継続することにより、物事を俯瞰的に見ることに近づけるのだ』
淳一は自分の言葉を思い出して顔を赤らめたのであった。
「仙人、おっしゃられたことはよく分かりました。自分でも若い研究者には同じようなことを言っていたのですが、いざ自分自身のこととなると、自分の立場からの非常に狭い視点で考えてしまっていました。それに気付かせていただき、本当に有難うございました」
淳一はそう言ってから自分が若手研究者に言っている言葉を紹介した。
「その通りですね。しかし、普通の状態では広い視点で考えることがある程度できたとしても、私を含めて多くの人間にとって、自分自身が困難な問題に直面している状況下で物事を俯瞰的に見ることはなかなか難しいと思いますね」
「本当にそう思います。ただ、今日は仙人に気付かせていただくことができましたので、現状をそのまま受け入れ、父や親族と一緒に静かに母が入院できる日が来るのを待とうと思えるようになりました。有難うございました」
淳一は深々と頭を下げ、暫くの間黙って仙人から言われた言葉を噛みしめた。追加注文した大丹波定食を完食し、ワイングラスも空にしてから仙人に感謝の気持ちを何度も表して店を出た。




