第1部.発症と出会い 1-15.若かりし日のチヨ
由美子の話を聞いた後、淳一は少なからず気落ちしたまま書斎に入り、研究関連の雑誌を手に取った。しばらく英語で書かれた文字列を眺めていたが一向に内容が頭に入ってこなかった。そのままボーっとしていると、自分の幼い頃の記憶が断片的に頭の中に浮かんできた。
自分の傍にはいつも優しくて控えめではあったものの明るくて前向きなチヨがいた。手提げ籠を持って買い物に行ったり、大きな板の上で長い麺棒を転がしてうどんを打ったり、まだ上下水道が完備されていなかったため道路を隔てた所にあった共同井戸まで水を汲みに何度も往復したり、洗濯板を使って手洗いで家族全員の洗濯物を洗ってくれたりしていて、休んでいるチヨを見た記憶はほとんどなかった。それでもチヨはいつも明るい笑顔を絶やさなかった。
淳一は子供を育てる立場になってようやく子育ての大変さが理解できるようになった。子供の頃は、自分一人で育ってきたような気がしていたが、今から思えば、子育てに関する親の献身は本当に頭が下がる程の有り難さがある。食事、洗濯、教育、生活に関する時間管理、そして子供たちが寝てからも風邪を引かないようにする配慮等、数え上げればきりがない程であり、本当に気を抜けないことばかりである。
そんな忙しさの中、チヨは三人の子供たちの成長を楽しげに見守ってくれていたが、悪いことをした時はきちんと叱った。勿論、手を上げることはなかったが、時には涙を流しながら必死に諭した。一家の生活は楽ではなかったが、チヨの愛に包まれて淳一は穏やかな幼少期を過ごすことができた。
あれは小学校低学年のことだった。淳一は近所の年上の少年と二人で遊んでいた。この少年が少々悪餓鬼だった。
「おい、淳一。裏山に生えている筍、採りに行くぞ」
「うん」
淳一はその少年の後に付いて急な斜面を登った。
「おい、ここに美味そうな筍が出ているぞ。ほら、こうやって周りの土を掘るんだ」
「こうかい?」
「うん、そうだ。早く掘れ」
もう少しで筍が手に入るところだった。
「こら! 誰だ。うちの筍を盗もうとしている奴は!」
「淳一、逃げろ!」
二人は大慌てで急な斜面を滑り降り、それぞれの家に逃げ帰った。
淳一が家に戻って暫くすると、筍が生えていた土地の持ち主が淳一の家にやって来た。健次は会社に行っていたため、チヨが対応した。
「実はな、さっき、あんたんとこの淳一がもう一人の子供と一緒にうちの筍を盗もうとしていたんだよ」
それまで笑顔で対応していたチヨの顔はみるみる蒼白になった。手が震えていた。
「えっ!……、淳一がそんなことをしたんですか。本当に申し訳ありませんでした。もう二度とさせないように致しますので、どうかお許しください」
「いや、被害にあった訳じゃないから構わないんだが、今後の淳一のためにな、きちんと叱っといた方がいいんじゃないかと思って、知らせに来ただけだから」
「本当に申し訳ありませんでした。もう絶対にさせませんから」
チヨの態度を見て筍の持ち主は気が済んだのか、淳一の家から帰っていった。
「ちょっと、淳一。こちらに来なさい」
淳一の心臓は破裂寸前のような状況だった。チヨの大きな目は赤くなっていて、そこから大粒の涙が溢れ落ちた。
「いい、淳一。他の家のものを断りもなく取ったら悪い人になるのよ。そういうのを泥棒って言うの。私は淳一を泥棒に育てたつもりはないからね」
淳一はあの子供と一緒に筍を取ろうとしたことがそんなに悪い事であるとは思っていなかった。しかし、母に諭されて、自分は泥棒と呼ばれる程の悪いことをしてしまったと初めて気付いたのであった。
「いいかい。もう絶対にこんなことをしないって、約束してくれる?」
淳一は声を出すことができず、ただ頷くのが精一杯であった。
その他にもいくつか忘れられない思い出があった。その一つは淳一が中学1年生の終わり頃の出来事だった。晩生だった淳一も異性を意識するようになったが、自分の容姿に自信が持てず気分が沈んでいた。
「どうしたの、淳一?」
「うん」
「うんじゃ、分からないよ。何を悩んでいるの?」
「僕ってさ、あんまりいい男じゃないよね」
「どうしたの、好きな女の子でもできたの?」
「別にそういう訳じゃないけど、友達のS君と比べると僕はあんまり格好良くないなって思うんだ」
チヨは少し微笑んで、潤んだような目で淳一をしっかりと見つめ、優しい声で言った。
「そんなことはないわよ。愛くるしい感じがするわよ」
「ほんと?」
「ええ、本当よ。自信を持って女の子ともお話しなさい」
チヨにそう励まされて淳一は少しだけ明るい表情を見せた。
また、高校受験の時、淳一は第一志望校にめでたく合格した。その高校に行くには30分程バスに乗らなければならなかった。卒業式が終った数日後、中学のバスケットボール部の1学年先輩だった人が家に訪ねてきた。
「淳一、俺と同じ高校に受かったんだってな。おめでとう」
「有難うございます、先輩」
「高校に行ったらお前もバスケット、やるんだろう?」
「えっ、まだよく考えていませんけど……」
「何言ってんだよ。お前は中学の時上手かったんだから、高校でもやれよ」
「よく、考えてみます」
「それじゃ、春休みの練習があるから見学だけでもいいから来いよ」
「分かりました。行ってみます」
「よし。俺の友達の定期券を借りてきたからお前に貸してやるよ。それを使って見に来いよ」
先輩はそう言うと淳一に定期券が入ったパスケースを手渡した。
「はい、有難うございます」
どうやら先輩はクラブ活動の勧誘に来たのであった。このことを母に話した時、久し振りに母を怒らせてしまった。顔を真っ赤にして淳一を真っ直ぐに見て精一杯声を荒げて言った。
「他人の定期券でバスに乗るような悪いことをやっちゃ、ダメでしょう! この聖滝家は他人様に後ろ指を指されないようにして生きてきたのよ。あんたはそんな悪いことをするんですか!」
淳一はたじろいだ。何も反論することができなかった。
「お母さんがお金を出してあげるから、他人の定期券なんか返してきてよ!」
淳一は涙目で頷くと、先輩にその定期券を返しに行った。




