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アルツ、仙人、そして  作者: 夏瀬音 流
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第1部.発症と出会い 1-14.続く徘徊

 その年の9月になるとチヨの徘徊は頻度を増した。敬老の日の夜遅く、淳一の家に健次から電話があった。

「どうしたの、こんな時間に?」

「今日、またチヨが徘徊して大変だったんだよ」

「そうだったんだ。で、どんな様子だったの?」

「いつものように夕食を作って食べさせていたんだ。チヨの食べ残しが余りにも多いんで、『肉や魚は体に良いんだから残さず食べなさい』って言ったら、『これは済みませんでした。お金もかかったでしょうからお金を取ってきて、お払いします』なんて言って、俺が止めるのも聞かずに外に飛び出してしまったんだよ」

「それは大変だね」

「それで、俺もランニングシャツのままサンダル履きでチヨの後を追いかけたんだ。道路に出てみると40メートルくらい先を急いで西の方へ行くのが見えたんだ。しばらくして俺が跡を付けているのに気が付いたのか、急に狭い路地を左に曲がったんだ。もう暗くて俺も足元の石につまずきながら追いかけて、ようやくチヨの姿を遠くに見ることができたんだ。ところが、どんどん西の方に行ったかと思うと今度は右に曲がったんだよ。俺も急いで追っかけていったんだが、ついに見失ってしまった。しばらくその辺を捜したんだけど見つからないので家に帰ってきたんだよ」

「確かに母さんの徘徊する時の速度は尋常じゃないからね。それじゃ、また失踪してしまったの?」

「いや、20分くらい経ったらチヨが自分で帰ってきた。どこで金策していたのか聞いても全く要領を得ない返事ばかりだよ。嫌になるよ」

「そう、本当にお疲れ様でした。それで、母さんは今どうしているの?」

「やっとのことで寝かせつけたんで、こうやって電話しているんだよ」

「そうだったんだ……。お疲れ様でした」

 淳一はそれ以上父に掛ける言葉を見つけ出せなかった。


 10月から11月にかけてチヨの徘徊は更に頻度が上がり、健次を辟易させるのに十分であった。夕方が危険な時間帯で、健次が家にいるのに、何度も健次を探しに外に出て行ってしまった。1日に3度も徘徊したことが2回もあった。その都度、健次はチヨを探しに外を歩き回らなければならなかった。


 徘徊が続いたこの年の秋も間もなく終わるという11月30日午前、健次は新聞を読んでいた。

「おーい、チヨ。お茶を淹れてくれないか」

 明るい声で返事をしたので、チヨが台所で緑茶を淹れてくれているものと健次は思っていた。

「はい、どうぞ」

 そう言ってチヨが出してくれたお茶は紫色をしていた。驚いた健次が台所に行ってみると、前の晩にあった近所の人のお通夜の時にお世話になった使い捨てカイロの端が開かれ、中身がテーブルの上にこぼれていた。

「ええっ! こんなものを淹れたの?」

「そんなことはありません。ちゃんとあの缶からお茶葉を出して淹れてあげたんです」

 チヨは茶筒を指差して言い張った。

 しばらく放っておくと、11時少し前、また家を飛び出した。健次が直ぐに外に出てみると、東の方に向かって歩いているのが見えた。一旦家の中に入り、電気ゴタツのスイッチを切り、台所の火の元を点検し、戸締りをしてからチヨを捜しに出た。

 この時もチヨがなかなか見つからなかったので、英子と由美子に電話して来てもらい、手分けして探したが見つからなかった。くたびれた三人が家に帰ると、ひょっこりチヨが戻ってきた。

「いったい、どこに行っていたんだよ」

「ずっと歩き通しだったのよ」

 チヨは淡々とそれだけ言った。


 その週の金曜日の夜、淳一は研究所での仕事を早めに切り上げ、父母の家に向かった。早めと言っても、通常は夜10時過ぎまで研究しているのを7時で切り上げただけなのであったが。

 その日もチヨは長時間徘徊したそうで、疲れたのか珍しく眠っていた。憔悴しきった表情で健次は淳一に愚痴をこぼした。

「あんなに優しかったチヨなのに、今はもう別人のようになってしまったよ。50年前、俺たちが結婚した当時からの記憶は殆んど消えてしまっているようなんだ。お前や真理や裕子の名前はようやく思い出せるんだが、自分の生年月日はもう言えない。一人で着替えをさせれば、裏表ひっくり返しだったり、前後が逆だったり、上着をズボンのように履いたり、パンツやシャツを斜めに着たり、寝巻きの上にセーターを着てしまったりで、まともに着替えができない有様だ。俺が傍にいるのに、『もう一人お父さんが部屋の中にいる』と言ってみたり、俺を探しに外に出て行ったりするんだ。

 時には、『家の中に女の人がいる』と言ったり、誰もいなかったのに『今帰ったのは誰だ』と訊いたりするんだよ。挙句の果てに、『あたしがこうなったのはお父さんが浮気してあたしを悩ませたからよ』とまで言うんだから、嫌になっちゃうよ。勿論、俺は浮気なんてしたことないのに」

「へー、そんなこと言うんだ。昔は人を疑うなんてしたことなかった母さんがねー」

「炊事に関しては全く出来ないんだ。ガス台の魚焼きで空焼きしたり、揚げ物の廃油を入れた缶をガスで直接加熱したりするんだから、危なくてしょうがないよ。食器洗いも不十分にしかできないし、物を片付けてもらえば、雑然としかできない。

 洗濯物も同じで、畳み方や仕舞い方もめちゃめちゃだよ。そんな状態だから、俺がやってしまってチヨに手伝わせないと、『もう私は用無しだから家に帰る』と言い出す始末だ。『ここがお前の家だ』と言っても納得しないんだ。トイレで用を足した後水を流さないし、トイレ用のスリッパを履いたまま外に出てきたりするんだよ」

「そうなんだ……」

「電話が掛かってきた時も大変なんだ。掛けてくれた人にはチヨは殆んど正常で調子よく話していると感じられるようなんだ。でも、電話を切った直後にその内容を訊いても、誰からだったのか、どんな用件だったのかはすっかり忘れちゃっているんだよ。相手は俺に話が伝わると思っているので、いろいろと面倒くさいことになるんだ。本当に困っているんだよ」

 淳一は頷くだけしかできなかった。健次は確かに追い詰められていた。父の苦労もよく理解できたが、それ以上に悲しかったのは、あれ程他人に対して優しくて自分の事はそっちのけで他の人のことばかり心配して気を揉んでいた母が、人間が持っている自己中心的で懐疑的な嫌な面を隠すことなく曝け出した状況で生きていることが現実なのだ、ということであった。


 健次の家から帰った淳一は由美子に掻い摘んで説明した。

「お義父さんも大変ね」

「由美子もよく実家に手伝いに行ってくれているみたいだから、いろいろな場面に出くわしているんだろう?」

「そうね」

「父さんが話したこと以外に母さんはどんなことをしているんだい?」

「少し前のことだけど、私があちらのお家に行っている時に英子叔母さんが来られたの。お義母さんは嬉しかったのでしょうね、お皿にお饅頭をいくつか並べて持ってきたのよ」

「母さんはそういう人だからね」

「ところがね、お皿の上に載っていたのは小さめの金タワシだったの。それを英子叔母さんに『お饅頭をどうぞ』って勧めたの」

「英子叔母さんはどんな反応をした?」

「最初はびっくりしたみたいだけど、『あら、嬉しい』って言ってくれたのよ」

「英子叔母さんも優しいね」

「私もそう思うわ。それから、こんなこともあったわ。別の日のことなんだけど、私が行った時、お義母さんは外出しようとしていたの。鏡の前に座ってアイシャドーを塗るつもりだったようね。ところが、実際は口紅を瞼に塗っていたの。だから、目の上が真っ赤になっていたわ」

「そうなんだ」

 淳一はますますチヨのことが可哀そうに思えた。


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