第1部.発症と出会い 1-11.向こう側とこちら側
淳一の仕事は、周囲の研究者たちから見ても以前とは比べ物にならない程順調に進んでいた。自分の思うような研究をさせてもらえていなかった頃の淳一は、周囲から邪魔者扱いされているような気がして不満を感じていたのと、自分が会社に貢献できていないことに対する申し訳なさとが入り混じった気持が体から滲み出ていた。この頃になると、直接担当している研究業務以外にいくつかのプロジェクトへの参画が要請され、溌剌とした様子で日々を過ごしていた。
その中の1つに『研究業務の効率化と成功確率の向上』に関するプロジェクトがあった。異なる研究業務を担当している比較的若い研究者6名がメンバーに選ばれ、彼らよりは年上であった淳一にリーダー役が託された。
新規医薬品の研究開発は非常に難しい状況にあった。新薬開発型医薬品メーカーは、莫大な研究開発費や販売費用などの経費を確実に回収するために世界で通用する新規医薬品を多くの国で販売することが必須となった。そのためには、世界各国で種々の特許を取得し、アメリカやヨーロッパ、更にアジア等で販売承認を獲得しなければならなかった。
これは各製薬会社にとっては非常に高い障壁となった。このような新規医薬品開発には、質が高く効率的な研究が間違いなく必須であった。淳一が勤務する会社でもその為の種々の対策が検討され、淳一がリーダーとなったプロジェクトも良い成果を出すことが強く望まれていた。
会社にとって相当重要なプロジェクトのメンバーになったということは、本人にとってはかなり名誉なことであり、周囲からも一目置かれていることの証であった。しかし、プロジェクトに参加しているからと言って、本来の研究業務を疎かにすることは許されないため、そうでなくても厳しい研究生活が一層大変なものになる。淳一から見ると、メンバーとなった研究員が必死になってこのプロジェクトに取り組んでくれているようには感じられないまま2回のミーティングを行なってきていた。
この状況に少なからず苛立ちを感じた淳一は無性に岩茸石仙人に会いたくなった。K老人病院にも随分と長い間顔を出しておらず、その後の状況の確認も必要であると感じていたので、ちょうど良い機会であった。
1995年4月中旬、淳一は前日にK老人病院の了解を取り付けてから、電車と病院の送迎バスとを乗り継いでK老人病院の面談室にやって来た。この日も淳一の相手は大野優子が務めてくれた。先ず淳一が、前回訪問した1993年11月からこの時点までのチヨの行動と健次をはじめとする家族の対応や心境について説明した。その後で大野がK老人病院の状況などを詳細に話してくれたが、入院待ちの患者は更に増えていて、チヨの入院は相変わらずいつになるか分からない状況であった。
淳一にとってはある程度予想していたことではあったが、やはり少し落胆して『食堂大丹波川』に向かった。
期待と不安とが入り混じった気持ちで入り口の引き戸を開けて淳一が中を覗き込むと、岩茸石仙人がワイングラスに赤ワインを注ぎ始めたところであった。
「ああ良かった。やはり仙人はいてくれた」
「おお、聖滝さん。私もそろそろ来てくれる頃じゃないかと思っていましたよ」
二人の会話を聞いて店の奥から店主も顔を出した。
「いらっしゃい。今、仙人と聖滝さんのことを話していたんですよ。しかし、仙人の感は本当に凄いですね。今日は聖滝さんがきっと来る、って言われていたんですよ。私はまさかと思ったんですがね。本当に当たっちゃった」
「何だか歓迎されているみたいで、嬉しいですね」
「さあ、お座りください。いつもの定食で良いですか?」
「はい、よろしくお願いします」
店主は頷くと仙人の傍に座った淳一の前にもワイングラスを置いてくれた。
「今日は久しぶりにK老人病院に様子を窺いに来られたようですが、その表情からすると、相変わらずお母さんの入院はまだまだ先のようですね」
「はい、その通りです。入院待ちの患者さんの数は減るどころかますます増えていました。母の入院は本当にいつのことやら、という心境です」
「そうですか。でもその割には酷い落ち込み方をされてはいませんね。他に何かお母さんとは別の件で、まあ多分仕事などで、悪くはない状況にあるようですね」
「本当に仙人の前では私の心はほとんど丸裸になってしまっていますね。最近、私は会社のかなり重要なプロジェクトを任されたのです。まあ、どちらかと言えば、良い状況にあることは間違いありません」
淳一はプロジェクトのリーダー役に選ばれたことを丁寧に説明した。
「ほう、それは素晴らしいことじゃないですか。ただし、満面の笑み、という訳にはいかない状況も少なからず存在しているというところでしょうか」
「そうなんです。メンバーの若手研究者たちは皆かなり優秀な人たちです。ただ、自分たちもそれぞれ重要な研究業務のノルマを抱えているので、プロジェクトへの参画意識が高いかと言えば、そうでもないように私には感じられるのです」
「つまり、優秀な若手が集っているにも拘わらず、そのプロジェクトへの入れ込み方が物足りないように聖滝さんの目には映っているということですね」
「そうなんです。皆、何か他人行儀と言うか、自分の課題として真剣に取り組んでくれてはいないように見えるのです」
「なる程ね。それで、聖滝さんは何か手を打ってみたのですか?」
「はい、メンバー全員にこのプロジェクトの重要性について話してみました。それも通り一遍の説明ではなく、新薬開発型の製薬会社は、世界で通用する新製品を発売するしか生き残る道はないことを、いくつものデータを挙げて説明しました。そして、新製品を出す為には、研究を効率的に行なって医薬品研究開発の成功確率を上げることが非常に重要であることを強調したのです」
「それで、その効果はあったのですか?」
「うーん……。私の感触では、説明した事に関してはかなり理解してもらえたと思います。ただ、具体的にどうすれば良いかに関する話し合いになると確かな手応えが感じられないので、困っているのです」
淳一の言葉を聞いた仙人は暫くの間沈黙した。淳一も押し黙ったままじっと待った。
「分水嶺に落ちた雨水はどうなると思いますか?」
仙人の突拍子もない質問に面喰いながらも淳一はその答えを探した。
「ええと……、今私たちは東京郊外にいるので、もし雨が分水嶺のこちら側、つまり関東平野側に落ちれば、近くの川に流れ込み、最後は太平洋に注ぐことになるでしょうね。そして、もし向こう側に落ちれば、日本海側に流れていくということになります」
「そういうことになりますよね。つまり、ほとんど同じ地点に降った雨水でも、落ちるのが向こう側なのか、それとも、こちら側なのかによって最終的に非常に大きな違いが出てくるということです」
「はあ……、そうですよね……」
一応仙人に肯定されたものの、淳一にはまだ仙人の言わんとすることが全く掴めていなかった。
「聖滝さんのプロジェクトに入った若手研究者たちの状況は、ちょうど分水嶺に落ちた雨水と同じであると思います」
仙人はそう言うと、しばらく沈黙してしまった。淳一は自分で考えて何らかの回答を見つけなければいけないように感じ、必死で考えた後で口を開いた。
「若手研究者たちがこちら側に来てくれるような何らかの手を私は打たなければならない、ということなんだとは思います。しかし、どんな手が選択肢として存在しているのかは皆目見当が付かないのです」
「分水嶺と言っても、刀の刃のように明確な境界となっている所もあれば、ほとんど平らでどちらに流れ始まるのか簡単には判断できないような所もあると思うのです。後者のような分水嶺に1枚の枯葉があったとします。その葉の上に落ちた雨粒は葉の動き一つでどちら側に流れ始まるかが決まってしまうのでしょうね。何らかの力で枯葉がこちら側に傾くようにさえできれば、後は放っておいてもこちら側の川を流れ、こちら側の田畑を潤し、こちら側の住民に生活用水を供給してくれるようになるはずなのです。つまり、最初が非常に重要だと言うことです」
ここまで話すと仙人は淳一の理解度を確認するかのように淳一の表情を見た。淳一はまだ頷くことしかできなかった。
「聖滝さん。私はね、人間と言う生き物は、最初に『自分の事』として認識しさえすれば、自分が行なっていることを必死になって成功に導くように動くのだ、と思っているのです。逆に言えば、『他人事』として認識してしまうと、それ程一所懸命には動かない、ということです。聖滝さんのプロジェクトを例に挙げて考えてみましょうか」
「はい、是非お願いします」
淳一は仙人の次の言葉が待ち遠しく感じられた。
「聖滝さんが若手研究者たちに課題を与え、それぞれが自分一人でその対応策を考えてレポートとしてまとめてくるように指示したとします。彼らが提出してきたレポートは流石に優秀な研究者たちだけあってなかなか良い出来栄えではあったものの、聖滝さんにはもう一つ物足りなく感じられました。そこで、聖滝さんは赤ペンで目立つように沢山の修正を加え、メンバーそれぞれに返却しました。若手研究者たちの反応はどういうものになるでしょうか?」
「うーん、どうなるかなあ……。まあ多分彼らはあまり良い気持ちにはならないのではないかと思いますが……」
「普通の感性を持った人なら大体はそうなりますよね。まして始めたばかりのプロジェクトなんですから、まだ『何が何でも成功させるぞ』というような意気込みは持ってはいないと考えるのが妥当です」
仙人はそこまで言うと、しばらく沈黙した。淳一からの言葉が出てこないのを見て、仙人は話を続けた。
「恐らく一人ひとり異なる反応を示すのでしょうね。例えば、『一所懸命に考えて出したアイデアなのに真っ赤にして返されてしまった。これじゃ、やっていられないよ』とか、『何だ。結局、聖滝さんの考え方の押し売りかよ』とかね。こうなると、彼らにとってこのプロジェクトは『他人事』として認識されてしまい、それなりの対応しか望めなくなってしまうのではないか、と私は思うのです。そうなってしまった人をこちら側に来てもらうようにすることは非常に難しいと思います。下手をするとプロジェクトの進行にとって強烈な障害になる場合だってあるかもしれません。それから、これは一般論ですが、時々『仕事を部下に任せられない』とこぼす上司がいますね。こういう発言が回り回って部下の耳に入った場合も、今お話しているケースと同じようにネガティブな反応となって返ってくるのではないかと思います」
「それでは、どうすればよいのでしょうか?」
「私も、『絶対こうすれば良い』と言える程の対応策を持っているわけではありませんが、例えば、こんな風にすると若手研究者の意欲は異なるものになってくるのではないかと思います」
淳一は固唾を飲んで仙人の顔を見た。
「メンバーの方々は皆優秀で、それぞれ異なる分野の研究者たちでしたね。だとすれば、それぞれのレポートには聖滝さんにとっても『なるほど』と思えるような所が一つや二つはあるのではないでしょうか。メンバー全員のそういう良いアイデアをピックアップして皆の前で紹介するのです。勿論、発案者の氏名も添えて。その上で、プロジェクトチームの課題について全員でディスカッションを行なうのです。この時点では何らかの結論を出す必要は全くありません。むしろ直ぐには結論めいた事は出さない方が良いでしょうね。全員とは言いませんが多くのメンバーがこのプロジェクトを『自分の事』として捉え始めてくれれば、それで所期の目的は達成されるのです。
それから、メンバーが取り組む課題解決にとって、聖滝さんが保有している技術や知識が必要かもしれないと感じることが起きてくるのではないかと思います。そうしたら、きちんと、なおかつ高圧的にならないように注意しながら、予めメンバーに伝えておくのが効果的だと思います。そして、これが最も重要なのかもしれませんが、しばらくの間メンバーが成長してくれるのをじっと待つことも必要なのだと思いますよ」
「有難うございました。仙人の言わんとされているところは理解できたような気がしてきました。戻ったら早速実行してみようと思います」
淳一は深々と頭を下げた。




