第1部.発症と出会い 1-10.白内障手術
1995年1月下旬、淳一が会社から帰ると直ぐに電話が鳴った。
「あなた、お義父さんからよ」
淳一は嫌な予感がして眉間に皺を寄せて由美子から受話器を受け取った。
「やあ、父さん。また母さんに何かあったの?」
「いや、今日はチヨのことじゃなくて、俺のことなんだ」
「えっ、父さんまで何かあったの?」
「まあ、大したことじゃないんだけど、左目の方の白内障の手術を受けようと思っているんだよ」
「あれっ、何年か前に父さんは白内障の手術を受けていたんじゃなかったっけ?」
「うん、右目の手術は受けたんだが、今度は残っていた左目なんだ。右目は綺麗に見えるんだけど、最近左目のチラチラが気になってしょうがなくなってしまったんだよ」
「そうだったんだ……。それで、どこで手術するの?」
「右目の手術を受けたのと同じG眼科でやってもらおうと思っているんだ」
「そう。入院する日は決まったの?」
「2月15日に入院して、翌日の16日が手術、その晩は病院に泊まって経過が良ければその翌日には退院できるという話なんだ」
「父さんが入院している間、母さんはどうするの?」
「家に置いておくのも心配だから、一応付き添いということで、病院に泊めようかと思っているんだ。付き添いが泊まる部屋もあるそうだから」
「そうか、病院に泊まるんだ。母さん一人で大丈夫かな?」
「最近の様子からすると、まず無理だろうな」
「そうだろうね。それじゃ、由美子に一緒に付き添ってもらうよう頼んでおくよ」
「そうかい。いつも悪いな。病院の方には俺の方から付き添いは2人でお願いしますと言っておくよ」
健次の入院の日が来た。由美子は朝から健次の家に行き、入院の支度を手伝った。
「チヨ、そんな外履きの靴なんかバッグに入れなくていいんだよ。まったく何を入れるか分かったもんじゃないんだから」
「お父さんが外に出る時に要ると思ったのよ。そんな言い方しなくてもいいでしょ!」
その光景を微笑んで見ていた由美子は優しく言った。
「そうですよね。お義母さんは心配性だからいろいろと気になってしまうのですよね。それじゃ、お義母さんと一緒にお義父さんの入院に必要なものをバッグに詰めましょう」
前日自分で書いたメモを見ながら荷物を確認し、由美子にバッグに詰めてもらった健次は確信が持てたような表情で言った。
「由美子さん、有難う。これで持っていく必要があるものは皆揃いました。病院までお願いします」
由美子は頷くとチヨを促して自分の車に乗せ、家の戸締りを確認した健次がバッグを持って乗り込むのを待ってからG眼科まで走った。
受付で入院手続きを済ませ、三人が指定された個室に行くと、健次の名前が入口に掲示されていた。個室は大部屋より支払額が高くなるが、入院が短期間なのでそれ程大きな出費にはならないと踏んだ健次が選んだものであった。
「ずいぶん綺麗な部屋なのね」
チヨは部屋の中を眺め回しながら心配そうに言った。
「由美子さん、今日は何もしないと思うし、何かあっても俺一人でできるからチヨを連れて家に帰ってもらっていいですよ」
「そうですか。明日の手術は何時から始まるのですか?」
「午前10時です。30分くらい前にここに来てくれれば大丈夫です。病院には付き添いは2人で、明日の夜は2人とも泊まりますと伝えてありますから」
「分かりました。それではまた明日朝お義母さんと来ます。お義母さん、一緒に帰りましょう」
「私はお父さんが心配だから、今日はここに泊まるよ」
「いいんだよ。さっき言っただろう。今日は何もすることがないって」
「でも、こんな良い部屋だと変な女が来るかもしれないから、私はここにいるよ」
「お義母さん、ここは病院だから、お医者様がしっかりと見張ってくれているんですって。変な女の人が来たとしても追い払ってくれますよ。だから安心して私と一緒に帰りましょう」
何とか言いくるめて由美子はチヨを自分の家に連れ帰った。
翌朝9時前に由美子とチヨはG眼科の健次の病室に姿を現した。
「お義父さん、昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、お蔭様でぐっすりと眠ることができましたよ」
チヨの世話から解放された健次の言葉には実感が籠っていた。
「それは良かったですね」
チヨは二人のやり取りを感情が全く表れていないような表情で聞き流した。しばらくすると看護師が入ってきた。
「聖滝さん、そろそろ手術室に入りましょう。中に入ったら目の消毒をしっかりと行なって局所麻酔をしてから手術します。手術時間は30分くらいで終わりますからしばらくの間我慢してくださいね。ご家族の方は手術室前の待合室でお待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
健次はしっかりとした声でそう応え、看護師に付いて歩いて行った。由美子とチヨも待合室までは一緒に歩いた。
「お父さん、頑張ってね」
流石のチヨも心配顔で健次を覗き込んで励ました。健次はただ頷くと手術室の中に入っていった。
健次が手術室に入ってしばらくするとチヨは落ち着きがなくなってきた。手術室の扉の傍に行き、中を窺うような素振りを何度も繰り返した。
「お義母さん、今頃手術も終わって、きっとお義父さんもほっとしていますよ。もう少しの辛抱ですから静かに待っていましょうね」
チヨは頷くと椅子に腰かけて少しの間は静かにしていたが、直ぐに立ち上がり再び手術室の中を窺いだした。すると、突然ドアが開き、移動用ベッドに乗せられた健次が看護師とともに現れた。
「お父さん、大丈夫?」
チヨの問い掛けに声の方向を向いてから左目に眼帯をした健次は頷いた。健次を病室のベッドに移すと、看護師たちは病室から出ていった。
「お義父さん、大丈夫でしたか?」
今度は由美子が訊いた。
「ああ、大丈夫ですよ。数年前に右目の手術をしているから慣れたものですよ」
「そうですか、元気なお声を聞いて安心しました」
「でもね、両手両足を手術台に縛られると、まるで俎板の上の鯉みたいな心境でしたね」
チヨは健次の言葉を心配そうに聞いた。
健次の容体は順調に推移し、念のためにと処方された痛み止めや睡眠薬を使うこともなく夜を迎えた。由美子とチヨは健次の病室と壁一つ隔てた隣の部屋に用意された2つのベッドで寝ることになった。
この部屋は本来付き添う人が1人のことを想定して作られたようでかなり狭く、2つのベッドの間はいくらもなかった。寝る準備を整えてから電気を消すと隣の部屋から大きな鼾が聞こえてきた。
「やっぱりお父さんの鼾は大きな音だねえ。隣の部屋まで響いてくるよ」
「お義父さんはいつもこんなに大きな鼾をかくのですか?」
「そうですよ。まったくゆっくり寝られたものじゃないんだよ」
二人は声を潜めて笑った。チヨは日常とは違った状況に疲れたのか、暫くすると寝息を立てた。
由美子がようやく眠りについて暫くすると、布団がパタパタと何回も叩かれる音と体に伝わってくる振動とで目が覚めた。
「これっ! あっちへ行け。まったく何て女だ」
驚いた由美子が声のする方を見ると、眠ったままのチヨが再び由美子の布団を叩いた。それを悲しそうな目で見てから由美子は呟いた。
「ああ、可哀そうに。お義母さんは夢の中で私がお義父さんの浮気相手の女だとでも思っているのかもしれない」
翌日は午前中から健次の弟の泰蔵英子夫妻がお見舞いに来てくれた。健次は眼帯をしていない方の目を細めて陽気に振る舞った。
昼食後しばらくすると医者が部屋に入ってきた。
「聖滝さん、経過はいかがですか?」
「はい、お蔭様で特に痛いところもなくて順調のようです」
「そうですか、それは良かった。それでは眼帯を外してみましょうか」
そう告げると医者は徐に健次の眼帯を外した。病室内の皆が心配そうに見つめている視線を感じつつ、健次は左目を静かに開けた。
「おおっ、はっきりと見えます。先生、有難うございました」
「良かったですね。ただ、傷が完全に治るまでには一般的には数ヶ月かかると言われていますので、十分注意してください。後で飲み薬と目薬を出しておきますから、それをきちんと使ってください。それから、白内障手術を受けた後の患者さんは、青みがかかって見えるということがあります。この現象は手術後2週間以内によく起こりますが、特に害はなくて多くは時間が経つと感じなくなりますからご安心ください」
「はい、いろいろと有難うございました」
医者も安心したような表情で病室から出ていった。その日の午後3時には健次は無事退院が許され、由美子が運転する車に乗って再びチヨとの厳しい日常生活が待っている自宅に向かった。




