<前>
「シェリス=コルベイン嬢、君との婚約は解消だ」
提案ではなく、断定。
そんな一方的な通達で、私とジェス様の5年に及ぶ婚約は幕を閉じました。
――婚約発表の披露宴の前日に、です。
明日行われる婚約披露宴。
その最終打ち合わせにお父様と彼の家に伺った私を待っていたのは、衝撃的な婚約解消の言葉だった。
伯爵家の私と、侯爵家嫡男のジェス様。
5年前の局地的豪雨で彼の家の領地が被害にあったことで、経営が傾いてしまいました。
彼の父であるユリシス様も懸命に立て直しを図りましたが、農産物を中心とした特産でしたのですぐには結果が出ませんでした。
その時に助けを求められたのがお父様でした。
親しい友人でもありませんでしたが、このままではかの地の領民が飢えてしまうと。手を差し伸べることをお決めになりました。
ですが、貴族というのは厄介なもの。
他領への支援をするには口実が必要……そこで結ばれたのが私たちの婚約でした。
この五年で、侯爵家の領地は以前のように、いえそれ以上に栄えるようになりました。
父が金銭だけでなく、人的・知識的に支えたからです。
ですが喉元を過ぎれば熱さを忘れるのか、最初のほうは感謝しきりだった態度も今は支援が当たり前のような態度に変わっていきました。
お父様もそれには思うところがあったようですが、私がジェス様を慕っていることと、将来娘が嫁ぐ領地であるということで支援は継続しておりました。
その結果がこれとは。お父様に申し訳が立ちません……。
ちらりと横目でお父様を確認すると、拳が小刻みに震えています。
よほどの怒りを抑えているのでしょう。
婚約が調った経緯が経緯ですし、ジェス様は非常に華やかな容貌で、女性からの秋波も絶えないお方。婚約者として敬意は払ってくださいましたが、地味な私では物足りなかったのでしょう。パーティでは常に美しい人を目線で追っていました。
それでも、具体的な行動を起こすわけでもなかったので、結婚して子でも生まれれば変わってくれると思っていたのですが。
「わが侯爵家は権勢を取り戻し、今や伯爵家以外にもたくさんの協力者がいる。支援された金額も返すめどがたった。もともと口実づくりの婚約であったので、そろそろ潮時だろう。我が息子は親から見ても魅力的な男だ。更に家格も高い男の隣に五年間も立てたのだから、悪い時間ではなかっただろう?」
絶句。
……こんな、こんな!恩知らずな方とは思いませんでした!
いいえ、恥知らずですわ。
確かに、金銭の貸し借りという点ではチャラになるのでしょう。
でも、かけてきた時間と労力を鑑みれば、それだけではすまされません。
平身低頭で謝罪するならまだしも、この上から目線。
己の父の隣で頷くジェス様の醜悪さに、残っていた情も消えてしまいました。
しかし恥知らずな提案はこれに終わりません。
「では、明日の婚約披露宴はどうします。今までやってきた準備も無駄になりますし、招待客も国内に限らず、国外の娘の友人にも声をかけております。今から連絡をしても行き違いになる可能性が高い。どう対応なさるおつもりか」
「それについては問題ない。会自体は開催する」
「……どういうことでございましょう?娘との婚約は解消するというのに」
「光栄なことに。第一王女のフィーネ様がジェスを見初めてくださったのだ。以前から内々で打診があってな。明日は二人の発表の場とする。なに、そちらで準備にかかった経費はもちろんこちらに回してくれ」
鷹揚に言い放つユリシス様に対し、さすがに我慢が出来なかったのか声を荒げる。
「さすがにそれは余りにも不誠実すぎます!我が家だけでなく、娘の婚約を祝うために来て下さる招待客にも失礼だ!」
「ああ、安心したまえ」
にこり、と。この場にふさわしくないほどの晴れやかな笑顔。
「数日前に通達は出してある。あなた方には我が家から直接伝えるといっているので、混乱は起きないだろう」
だからか、とすとんと納得した。
なぜ前日という非常識な通達をしたのかと疑問でしたが、私たちが騒いで王女との婚約にケチがつくことを恐れたのでしょう。
――悔しいっ!
なんて自分本位の所業。
王家も王家です。我が国の公爵家には王女と年齢の釣り合う男子がいないため、侯爵家のジェス様が有力候補でした。
なのに豪雨でジェス様の家が傾くとすぐさま白紙になり、他国の高位貴族で探していたはず。でもかわいい王女が国から出ることを嫌がっていらした国王は、積極的に探しはせず……ジェス様の家が再び持ち直したと聞き、すぐさま打診をしたのでしょう。
王族が、婚約者のいる男性に婚約を打診するなど普通は考えられません。
伯爵家など、どうにでもなると思ったのかしら?
お父様は外交官として、国のために働いてきました。その王家からも粗雑に扱われ、お父様の心中はいかほどか……。
お父様は激情を抑えるように一つ大きなため息をつくと
「……お暇致します。帰るぞ、シェリー」
一分一秒でもここにはいたくない、というように席を立つお父様。
でも、私のエスコートは忘れない。
どんな時でも冷静かつマナーを忘れぬその態度に、誇りとやりきれなさを感じます。
――なぜ、善良に生きるほうが痛い目をみるのでしょう!
帰りの馬車の中には重苦しい雰囲気が立ち込める。
沈黙を裂いたのは、今まで聞いたことのないような小さな小さなお父様の声。
「すまなかった」
うつむかないでくださいませ、お父様。
あなたの娘であることが、何よりの誇りでございます。
そっと父の手を握る。
「始まりはお父様の判断ですが、継続を望んだのは私です。お互い、人を見る目がなかったのです。それよりも、彼らへの怒りよりも先に私への謝罪をしてくれるお父様の優しさと愛情に触れられて、むしろ嬉しいくらいですわ」
にこ、とほほ笑んでみる。強がりですが、本心でもあります。
「外交を仕事としている身としては、人を見る目がないといわれると辛いものがあるが……。そうだな、情けであえて目をつぶってしまったところがある。今度こそ、協力すべき人は間違わない」
そう言って不敵に笑うお父様。いつもの強気な雰囲気が戻ってきてホッとしました。ですが、なにかを企んでいるような顔に見えるのは気のせいでしょうか……?
家に帰りつき、婚約が解消になったこと、その経緯を家族に伝える。
お母様だけではなくお兄様も、それはもう素晴らしい笑顔になりました。
「ふふふふふ、人間、怒りや呆れが大きすぎると笑えてくるものなのですね」
お母様、扇からギチギチ音がしております。多分扇からはしてはいけない音の気がします。
「ははははは、あの男と過ごせた時間が見返り?逆だろう?シェリーと過ごせた時間に感謝すべきところを……」
お兄様、笑顔で首を切る真似をしないでくださ「殺っちゃう?」……魅力的ですがダメです。
「——明日のことだが」
お父様の声に、少し緩んだ空気が一気に引きしまる。
「私は披露宴に出席する。公私は分けねばならない。……というのは建前で、欠席をするとシェリーについて勝手なことを言われるかもしれない。それだけは、絶対に許せないからな」
お父様の言葉に、お母さまもお兄さまも頷く。
「あなたが行くならわたくしも。恩知らず共にこれ以上シェリーを傷つけさせてたまるものですか」
「もちろんエスコートは僕が。かわいい妹のエスコートができるなんて、ある意味あいつに感謝だな」
任せておけ、というように微笑む家族にさっきとは別の意味で涙があふれてくる。
——私の家族は、本当に素敵だわ。