194 深淵
夜だった。
エマは、階段を上り、一番てっぺんのガラスのドームの部屋の少し段になっているところに腰掛けた。
大きな部屋の、人のいない空間。
それでも木の息吹を感じるからか、寂しい気持ちはしない。
明かりはついているので、それほど暗くもない。
夜遅くに散歩に来るには、ちょうどいい部屋だ。
「エマ?」
声がかけられ、一瞬どきっとする。
「ヴァル……」
階段を上がってきたのは、ヴァルだった。
「こんな時間に部屋の外に居るなんて珍しいな」
「あはは」
ヴァルが、隣に座る。
「リナリがおすすめしてくれた本読んでたら、遅くなっちゃって」
「どんな?」
「恋愛ものなんだ。両親を亡くした女の子が貴族の男の子と仲良くなるんだけど、実はその男の子は隣国の王子なの」
ヴァルがふっと笑う。
「リナリはそういうの好きだな」
「そうなの。双子は両方ともロマンチストだよね。ああいうところはそっくり」
「一緒にいる時間が長い分、余計にそっくりだよな」
「リナリが、チュチュと私におすすめしてくれたんだけど、チュチュは興味がなくて」
「チュチュは小説も読めないのか……」
「本好きじゃないからね」
ヴァルは、ふっと何かを思い出したようだった。きっと、キリアンのことだ。
親子共々、活字は苦手そうだ。
「ヴァルはどうしてここにいるの?」
「さっき仕事から帰って、廊下にいたら音がしたから」
「そうなんだ。お疲れ様」
「シエロもじいさんも人使い荒いんだよ」
ヴァルが荒んだ声を出した。
「そうだね。学園にいない日、多いね」
「書類申請、偵察、観察……。暗殺がないだけマシか」
「暗殺って……。まさかぁ……。ただの魔術師だよ?」
「そう思うか?」
ヴァルが、意味ありげな顔をする。
「ま……まさかぁ……」
エマが、おどおどとした声を出した。
ヴァルがハハッと笑う。
「まあ、国王付きのままでいたら、そんなこともあったかもしれないけどな。ここでは、そんなことないよ」
「だよ……。だよね…………」
けど、国王の側にいたら、そんなこともしていたかもしれないんだ……。
ヴァルがよけい荒んじゃう……。
ただの学園の生徒でよかったと、ちょっとだけそう思う。
あれだけ仲が良かったランドルフには悪いけれど。
王子ルートを思い出す。
「王様になるのが怖い」と、ヴァルに言っているシーンがあった。
エマは、床の模様を見た。
魔術師の部屋にありそうな、何か意味のある模様のような綺麗な床だ。
ちょっと暗い顔になったエマを見て、ヴァルが口を開く。
「大丈夫だよ。今の国王は、そんなこと滅多にない」
その言葉を聞いて、エマが顔を上げて微笑んだ。
静かな時間がやってくる。
壁にかかった、豪華な細工が施された時計が、真夜中を告げている。
話すことがなくなってしまっても、隣に座っていてくれることが嬉しかった。
今、言ったらどうだろう。
好きだって。
ヴァルに。
ふと隣を見ると、その気配でヴァルがこちらを振り返った。
「…………っ」
いざ、前にすると。
困ってしまう。
先に口を開いたのは、ヴァルの方だった。
「もう、寝ないとな」
「………………うん」
小さくそう返事をする。
そっか。
そうだな。
さみしいけど、もう寝ないとな。
ヴァルの顔が、ふっと優しくなる。
そしてヴァルが、エマの唇に軽くキスをして、そして立ち上がった。
「おやすみ」
エマが、ヴァルの顔を見上げた。
ヴァルは、いつもの勝ち気な顔をしていた。
「………………うん。おやすみ」
なんとかそれだけを言うと、そこに座ったまま、ヴァルの背中を見送る。
「え………………?」
ラブコメもこのあたりで最高潮ですかね。
ハッピーエンドに向けて突っ走れ〜!