180 きっと忘れない
図書館の窓から夕陽が差した。
リナリは、いよいよこの図書館から去る時間が来たことを知った。
修復部屋で綺麗にしてもらった本を、大事に抱え、階段を下りる。
学園はすでに、私の家だ。
けど。
ここから去るのも……寂しさが募る。
階段の途中で、階下を歩くレーヴの姿が見えた。
向こうもこちらに気が付いて、にっこりと笑ってくれる。
笑い返したいけれど、いまいち緊張して、笑い返すことができなかった。
頭をぺこっと下げる。
変な顔を晒すことになるのなら、まだ、この方がマシ。
ゆっくりと階段を下りる。
階下では、レーヴがリナリを待っていてくれた。
「今日までですね。数日間でしたが、どうもありがとうございました」
「はい。あたしの方こそ、楽しかったです。どうもありがとうございました」
「楽しかったと言ってくれるのなら、嬉しいです。エマさんと二人で来てくださったのに、リナリさんだけ延長してもらってしまいました」
ふふっとレーヴが困ったように笑った。
「あたしが……、ここに居たかったんです。あたし…………、もし、よかったら……。将来ここで、働きたくて…………」
リナリの決意表明とは裏腹に、声はどんどん小さくなる。
下を向いて話したものだから、余計に何を言っているのかわからなくなった。
リナリが顔を上げると、リナリの小さな声を聞き漏らすまいと、段々と顔を近付けてきたレーヴの顔が間近にあった。
「…………ふぁっ!?」
レーヴが、ゆったりと顔を上げた。
「あなたのような本が好きな方にそうして頂けると、図書館としても嬉しいことです」
そう言って、レーヴがにっこりと笑う。
「ぜひ……よろしくお願いします…………」
「今日は、一人になってしまいましたね。お迎えはどなたか来てくださいますか?」
「いいえ。今日は、エマとエリオットさんの家で待ち合わせをしていて」
「ふむ……。それはいけませんね。ここからは少し遠いですね。もしよろしければ、私が送っていきましょう。では、それを置いたら受付で待っていてください」
断らないと、と思う。
この人の手を煩わせちゃいけない。あたしだって、魔術師の端くれなのだ。
特に危ないこともないのに、わざわざ付いてきてもらうのは悪い。
「あ……っ」
一人でも平気です、と言いかけたけれど、レーヴはすでに目の前にはいなかった。
……マイペースな人なんだろうか。
結局、受付で待つことになってしまったし、呼びつけておいて断るのも悪い気がして、送ってもらうことになってしまった。
ただ、二人で黙って街の中を歩いた。
少し傾いた陽の光の中。
コンパスの差のせいで、ゆったりと歩くレーヴの横を、リナリがちょこちょこと付いていく。
何も話すこともなく、人波の中を歩く。
あっという間にエリオットの家に着いてしまい、門の前で向かい合った。
「では、また会える日を楽しみにしていますね」
「はい……!あ……」
レーヴが紐で纏めた長い髪の先に、黒いインクがついていた。
「ちょっとしゃがんでもらっていいですか?」
リナリがハンカチを取り出すと、レーヴがゆったりとしゃがむ。
震える手で、それでも丁寧にハンカチでインクを落とす。
レーヴが、困ったように笑う。
「先程、書類仕事をしていたので、そこでついたのでしょうね」
「……もう、大丈夫ですよ」
リナリが笑うと、レーヴも笑顔でそれに応えた。
「短い間でしたけど、ありがとうございました」
出来るだけ深く、頭を下げる。
「ええ。では、また」
優しい声を聞いた。
ゆっくりと頭を起こすと、そこには、もうレーヴはいなかった。
まるで、陽炎のようだ。
リナリは手の中の白いハンカチにできた黒い染みを見た。
きっと忘れない。
きっと一生忘れない。
思い出す。
出会った瞬間。仕事を教える時の口調。考え事をする仕草。さっきの優しい笑顔。優しい声。
今が、この人生で、一番幸せな時かも。
ハンカチを握り締め、リナリはエリオットの家の門をくぐって行った。
王都のお話はここでひと段落。
次回からまた舞台は学園へ戻ります。
ラブコメが加速するよ!