30. ドキドキした
更新遅くなって申し訳ないですっ
「奈々さん。お風呂、お先に、っ」
脱衣所の引き出しにあったバスローブに身を包んで部屋に戻り、私は言葉に詰まった。
奈々さんが電話をしていたからだ。
たかがそれだけの行為で、こんなに動揺を隠せないでいる。まだ『あの事』があってから間もない頃だから、嫌な予感がして堪らない。
「ええ、お願いします。──彼女が来たので、私はこれで。……梓様、お帰りなさい。ちゃんと温まりましたか?」
「……は、ぃ……あの、さっきの電話は?」
「古い知人に連絡を。私一人では朝比奈様と朝倉家からの追っ手を撒けないので、逃亡の手助けをお願いしていたのです。誰よりも身近にあった家系ですから、その脅威は私が一番よく知っています。使える手は全て使うつもりだったのですが、そのせいで不安にさせてしまいましたね。……申し訳ありません、梓様」
歩み寄り、優しく抱きしめてくれる。
奈々さんは安全に遠くへ逃げる算段を練ってくれていた。使える手を使い切ろうと、昔の知り合いにまで頼って。なのに、私は……。
「……ごめん、なさい。私のためなのに、疑って……」
「どうか謝らないでくださいよ。私は梓様のためを思って行動しました。しかし、その結果、貴女を不安にさせてしまった」
「そんなっ、私が悪いんです。私が弱いから──」
焦って言い訳しようとした私の口元に、そっと人差し指が添えられる。
「それ以上はいけない。私が大好きな梓様が、貴女自身を貶すのは……見ていられません。どうか、私のためを思って自信を持ってくれませんか?」
コクコクと頷けば、奈々さんは満足したのか「私もお風呂に行ってきますね」と、脱衣所の方へ歩いて行く。
また取り残されてしまった。手持ち無沙汰になった私は、おとなしくベッドに腰掛けて奈々さんを待つことにした。
待っている時間は、とても長く感じた。
本当の時間はそれほど経っていない。でも、妙にそわそわしてしまって、心が落ち着かないまま待っていると、凄く長い時間が経ったと錯覚してしまう。
……奈々さんも同じ気持ちだったのかな。
「梓様、お待たせしまし──」
お風呂から戻ってきた奈々さんは、こちらを見て言葉に詰まった。
何か変だったかな?
「申し訳ありません。……その、二人きりの部屋に梓様がいるという現実に、思わず我を失いそうになりました」
と、恥ずかしいことを当たり前のように言ってきた。
そんな真っ直ぐ見つめられても、困る。
「梓様。もう一度質問させていただきます。──本当によろしいのですね?」
何が、とは聞かない。
本当に抱いていいのかと、自分を選んでくれるのかと、そう問われているんだ。
ほんの一瞬だけ、朝比奈さんの顔が思い浮かんだ。
「…………はい。私は、奈々さんを信じます」
私はもう、あそこには戻れない。
笑顔を作る。私の幸せを願うと言ってくれた奈々さんのために。
「そうですか……わかりました。では、私も……そのように」
何を思ったのか奈々さんは顔を伏せ、すぐに優しい笑顔を向けてくれた。
鞄から何か蝋燭のような物を取り出し、奈々さんはそれに火を付ける。
そこから甘い匂いが漂ってきた。嗅ぐと頭がふわふわして、変な気持ちになる。
「奈々さん、それは?」
「アロマキャンドルです。雰囲気を作るにはいいかなと思いまして」
「……いい匂い。好きな匂いです」
「そう言っていただけると嬉しいですね。これは私のお気に入りなんですよ。きっと梓様にも好きになっていただけるかと思い、持ってきました」
もっと近くで嗅いでみてくださいと言われて、キャンドルに近寄る。
この匂いはなんだろう。嗅いだことのない匂いだ。
「奈々さん、この匂いは──」
振り向いて、目が眩む。
一瞬、奈々さんが二重に見えた。
不思議に思って首を傾げると、私はベッドに倒れ込んでいた。押し倒されたわけじゃない。
……あれ、おかしいな。
どうして力が入らないんだろう?
頭がぼんやりする。瞼が重い。これは……?
「な、ぁ……さ、……」
「申し訳ありません、梓様。どうやら私は、覚悟が足りていなかったようです」
謝罪を口にした彼女は、何かを悔いるような顔をしていた。
その口調も頭を撫でる手つきも、私を見つめる眼差しも。全てが優しい。
「私は梓様のために……そう思っていましたが、私では貴女を──」
──幸せにすることは出来ないようです。
懺悔するような言葉を最後に、私は意識を手放した。




