28. 普通が欲しかった
ぽつぽつと雨が降っている。
でも、今の私に、それを気にしている余裕はなかった。
「……………………」
顔を上げ、虚ろに天を見上げる。
雨粒に当たった箇所から急激に体が冷えていく。それを防ぐものは何も持っていない。鞄もスマホもお金も、全てあそこに置いてきてしまったから。
マンションには戻れない。アパートもすでに解約してしまった。
…………私の居場所は、もう何処にも残っていないんだ。
このまま、死ぬのかな。
現状が続けば、間違いなく私は野垂れ死ぬ。どこかに逃げ込んでも、早いか遅いかの違いしかない。なら、それでいいかもしれない。
「死んじゃえば、もう苦しまなくて済むよね」
「──いやぁ、それは困りますねぇ」
場違いな明るい声。
それは何度も聞いた、私の護衛役だった人の声だ。
「見ない間に、随分と酷い顔になりましたね」
「…………奈々さん」
どうして彼女がここに──いや、理由はわかっている。
きっと、あの人の命令で私を探していたんだ。今更何の用事があって私を探しているのか知らないけれど、私はもう、あの人に会いたくない。
逃げる?
でも、奈々さんは朝倉家一の武術家だ。道を塞ぐように立ちはだかっている彼女を相手に、私がすり抜けられるとは思えない。
「そんなに警戒しないでくださいよ。朝比奈様の命令は受けていません。今は『朝比奈様の朝倉家』ではなく、『梓様の朝倉奈々』としてここに立っているとご理解ください」
「……私が、それを信じるとでも?」
「その様子を見ると、信じてもらえないでしょうね。でも、こちらとしても『信じてください』としか言えませんので」
奈々さんは一歩を踏み出し、私は一歩後ずさる。
その繰り返しをしているうちに、壁まで追い詰められた。
もう逃げられない。
「梓様、私と一緒に逃げますか?」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
逃げる? 奈々さんと……何処へ?
「朝比奈様のことで思い悩む貴女の顔は見ていられません。そんなことで全てを塞ぎ込んでしまうなら、私と共に遠い場所へ逃げてしまいましょう。私は、あの方のように全てを与えることは出来ません。……ですが、私の全てを貴女に捧げます」
奈々さんはそう言い、跪いて手を差し伸べた。
「私は、梓様の幸せを願っています。共に行きましょう」
この手を取れば、私は幸せになれる?
いや、幸せなんて、もう望まない。
私が欲しいのは普通の生活。
ごく普通に暮らせるだけで充分だ。
「なら、証拠を見せてください」
「証拠ですか? 私に差し出せるものならば、何でも」
簡単に差し出せるようなものは要らない。
私が欲しいのは、絶対に裏切らないという誠意だ。
「私を──抱いてください」
奈々さんは目を見開き、狼狽える。
でも、それは一瞬。
「梓様のお望みとあれば」
彼女はすぐに受け入れてくれた。
私を立ち上がらせて、雨から守るように上着を被せてくれる。
「雨に濡れて寒いでしょう? まずはホテルで休憩しましょうか」
奈々さんは私物のバイクで来ていたようだ。
可愛らしい見た目によらず、とても大きなバイクだ。
「朝比奈様に居場所を知られる可能性があるので、ホテルは遠いところを選びましょう。……少し寒いですが、もうしばらくの辛抱をお願いします」
「大丈夫です。気にしないでください」
どうせ、朝比奈さんは私を探すつもりはないから。
邪魔者が居なくなったからと、本当の恋人を迎えに行っているに違いない。
──胸に小さな痛みが走る。
その痛みの意味に、私が気付くことはなかった。




