26. 嫌だ
微睡みから目が覚める。
どうやら私は、あれから眠ってしまっていたようだ。
「……ん、んぅ……?」
私はベッドの上に居た。朝比奈さんが運んでくれたのかな?
時計は『午後6時』を示している。
……かなり眠っちゃったみたい。
喉が渇いた。水を飲むためにリビングに行こう。多分、朝比奈さんもそこに居る。枕元のスマホを片手に、カーディガンを羽織って廊下に出る。
「…………?」
話し声が聞こえた。
リビングのほうに近づくと、テレビの小さな音に混ざって、朝比奈さんの声も聞こえてきた。独り言じゃなくて、電話をしているみたい。
「ええ、梓ちゃんはまだ知らないわ」
盗み聞きをするつもりじゃなかった。普通にリビングに入って、普通に声を掛けようと思っていた。それは嘘じゃない。
私の名前が出てきたことで、思わず身を隠しちゃっただけだ。
「わかっているわよ。あの子は賢い。最後まで隠し通せるとは思っていないわ」
何のことを言っているのか、私にはいまいちわからなかった。
私はまだ知らない?
最後まで隠し通す?
朝比奈さんは、何を……。
「でも、いつかその時がくる。そしたら正直に話すつもりよ。……ええ、謝って済む話じゃないとはわかっている。私のやっていることは、あの子への──」
息が苦しくなった。心臓がうるさく鳴り続ける。思考が纏まらない。深夜の肌寒い廊下で冷えていた手足が、更に冷え切っていくような感覚だ。
一刻も早く、この場から離れなきゃ。
そう思っていても、私の体は言うことを聞いてくれなかった。
「今も昔も、私の気持ちは変わらない」
嫌だ聞きたくない言わないで。
ただそう言えばいいだけなのに、口から出るのはか細い息だけ。
「私は、早苗を愛しているわ」
その時、今まで積み重ねてきたものの全てが崩れる音がした。
「──っ、ぁ」
震える手で持っていたスマホが、右手からすり抜けて床に落ちた。
ダメだと思った時には、もう遅い。
それは大きな音を立てて、廊下に響き渡る。
この音は朝比奈さんにも聞こえたはずだ。先程まで続いていた彼女の声が聞こえなくなって、その代わりに静かな足音がこちらへ近づいてくる。
そして、私達を隔てる一枚の扉が、内側からゆっくりと開かれて──。
「梓ちゃん?」
「…………朝比奈、さん……」
心配そうにこちらを見つめる瞳。
毎日のように私へ愛を囁いていた優しい声。
──その全てから今だけは逃れたかった。
落ち着こうとしても心臓はずっとうるさくて、そのせいで苦しくて……体は怯えるように小刻みに震えて止まらない。
混乱していたんだと思う。
それと同時に、油断もしていた。
何度も優しくしてもらって、愛していると言ってもらって、自由を与えられて……私は、朝比奈さんなら大丈夫だって思い込んで、ここなら絶対だと信じてしまっていた。
……馬鹿みたい。
過去に思い知ったじゃん。過去に決めたじゃん。
もう誰も信じられないって。もう二度と人を信じないって。
朝比奈さんが、私のことを本気で欲しがるわけがない。
それは初めから疑っていたことだ。与えられる日常が幸せで、いつしかその疑いが無くなっていて。彼女なら本当に私のことを見てくれるって、盲目的に信じるようになっていた。
……いや、私は信じたかったんだと思う。初めて感じられた夢見心地が『夢』じゃない『現実』なんだと、甘い誘惑に身を任せていただけなんだ。
「梓ちゃん、もう起きていたのね。よく眠れた?」
「……あ、うぁ……」
朝比奈さんは、今も私に優しく語りかけて、割れ物を触るように頭を撫でた。
昼間はあんなに嬉しかったのに、今は何も感じない。
むしろ本当に愛していない私なんかに、どうして優しくするのと、困惑のほうが大きくなった。
「どう、して」
「ん? どうしたの?」
「どうして、私に優しくしてくれるんですか……」
「決まっているじゃない」
何を当たり前のことを、と言うように朝比奈さんは言葉を続ける。
「梓ちゃんは私の恋人だもの」




