21. 驚いた
「あずさちゃ〜ん……どこぉ……?」
廊下の方から、今にも泣き出しそうな情けない声が聞こえてきた。
その声の主を悟った私達は、ほぼ同時に笑い出す。
「うぅ、あずさちゃん……どこ──梓ちゃん、居た!」
亡者のような足取りでリビングに入ってきた朝比奈さんは、ソファーに座る私を視界に入れた途端、パァァッと明るい笑顔を浮かべた。
「おはようございます、朝比奈さん。昨日は大変だったようですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよぉ〜。もう頭がガンガンするし、全身はだるいし、休日なのに部下の顔が見えるし……」
「社長。私は幻覚ではありません」
立花さんが声を発したことで、彼女がここに居るのは幻覚でも幻影でもなく、偽りのない現実だと理解したらしい。
「ちょっと、私と梓ちゃんの愛の巣になんで居るのよ」
私に抱きつき、警戒したように立花さんを睨みつける。
信頼する部下になんてことを言うんだ、この人は。
「昨晩、梓さんから『夜も遅いし泊まっていけば』とお招きをいただいたので、そのお言葉に甘えただけです。とてもお優しいですね、梓さんは」
「当然でしょう! 自慢の恋人よ!」
立花さん、凄い……。朝比奈さんの扱いが上手だ。さっきまでの憂鬱気な雰囲気は霧散し、鼻歌を口ずさむまでに上機嫌になっている。
これが、何年も一緒に仕事をしている立花さんの成せる技なのかな。
材料に私が使われたことには文句を言いたいところだけれど……まぁ、朝比奈さんが良ければ、それで良いか。
「では、私はそろそろ帰ります。これ以上居座ると、社長に悪者扱いされてしまいますからね」
「え、もう……ですか? 折角ですから、お昼も一緒に……」
「ありがたいお誘いですが、また今度の機会にお願いします。帰って溜まっている書類整理をしなければなりませんから」
「休日も仕事なんて、大変そうねぇ」
「どこかの社長がもっと働いてくれたら、私も楽になるんですけどね」
互いに軽口を言い合い、立花さんは荷物を持って立ち上がる。
「梓さん、色々とありがとうございました。このお礼は後日、必ず」
「いえ、私なんかに、そんな……」
「世話になったのですから、お礼をしなければ私の気が済みません」
朝比奈さんと同じく、この人も我を通すタイプだ。
なんとなく無理矢理押し通される未来が見えたので、私は早々に諦め、溜め息を吐き出す。
「では、また暇な時にでも遊びに来てください。……私が知らない朝比奈さんのこと、もっと知りたいです」
後ろの方で「梓ちゃん……!」と感動したような声が聞こえたけど、無視だ。
今は立花さんを優先する。
「わかりました。必ず遊びに来ます。……社長からのお許しがあれば、の話ですが」
「梓ちゃんが良いと言うのだから、好きにすればいいじゃない。でも、私が居ないところで会うのは禁止よ! この子は絶っ対に誰にも渡さないんだから!」
と、背後から抱きしめられた。
苦しいと腕を何回か叩いて、ようやく解放される。
「肝に命じておきます。……では梓さん。また今度」
「はい。お気をつけて」
立花さんを玄関まで見送り、ふぅ……と息を吐き出した。
やっぱり、誰かと話すのは気を張ってしまう。
朝比奈さんは顔が広いから、今後も色々な人と会う機会が増えるかもしれない。そのために人と話すことに慣れておかないと。
「梓ちゃんっ」
「はい。なんです──っ!」
振り向くと、唇に柔らかなものが押し当てられた。
「おはようの挨拶、まだしてなかったでしょう?」
にこりと笑い、朝比奈さんはリビングへ戻っていった。
その足取りは軽い。
「…………ずるいですよ、それ」
いつも強引なんだよなぁと呆れつつ、彼女の後を追う。
この時、胸がうるさく高鳴っていたことに、私はまだ──気が付くことはなかった。




