天秤
「遊園地のペアチケットを買ったんだけど、一緒に行かない?」
私の自宅からそれなりの近場にあるイタリアンレストラン。カルボナーラスパゲッティを口に運ぶ私は、茜の言葉にフォークを止めた。
「前に千尋ちゃんが言ってたでしょ。行きたかったけど行けなかった、って」
「…………」
「ダメ、かな?」
気を遣うように上目でこちらを見つめる茜。対する私は鷹揚に頷いた。
「いいよ。千葉にあるけど、東京の名を冠しているあそこだよね?」
私が了承の返事をすると、茜の顔は晴れやかになった。
「日帰りでバタバタするよりかは泊まりの方がいいんだけど、もうホテルは取ってあるの?」
「まだだよ。色々調べてはみたんだけど────」
茜とランチを進めながら、旅行の計画を立てていく。
旅行。旅行か。
かつて、青葉とは叶えられなかった約束だ。
水無月の空は梅雨の時期ということもあって重たい雲が伸びている。辛うじて雨は降っていないものの、少しのきっかけで崩れ出してしまいそうな危うさがあった。
旅行の全日程は二泊三日。初日はホテルに泊まり、二日目で遊園地へ繰り出す。三日目は午前中だけ観光して帰宅、という予定だった。
二日目の朝にあたる現在、目を覚ました私に声がかかる。
「おはよう千尋ちゃん。よく眠れた?」
「おはよう、茜。ふかふかのベッドのおかげで朝までグッスリだったよ」
そんな挨拶から私たちの一日は始まった。隣のベッドで寝ていた筈の茜は私よりも随分と早く起床していたようで、既に着替えまで済ませている。今日の彼女はデニム生地のパンツに黒いシャツを合わせたカジュアルな装い。私もグッと伸びをして、朝の支度を開始した。
午前九時にはホテルを出立して目的地に向かった。遊園地の入り口には巨大なゲート。雨が多い六月は閑散期と聞いていたが存外に来場者は多く、既に入口には待機列が出来ていた。
待ち時間がしばらくということで、園内のアトラクションが描かれているパンフレットを茜と覗き込む。
「思ったより混んでるから予定通りにいかないかも」
「アトラクションも絞った方がよさそうだね」
あれには乗ろう、これはやめておこう、といった綿密とは言い難い計画を話し終える頃、私たちもいよいよ入国を果たした。
私たちが最初に訪れたのはお土産屋だった。お菓子やぬいぐるみは手荷物になるため帰り際に買うとして、私たちの目的はファンキャップだった。
「ふふっ……千尋ちゃん、似合ってるよ」
「茜もイイ感じ」
私たちの頭にはキャラクターを模した帽子が被さっている。私はネズミの男の子、茜はネズミの女の子。園内にいる間は、この姿で過ごすのだ。
それから私たちは色々なランドマークを歩いて回った。巨大な城や海賊船の前で記念撮影をしたり、気になっていたアトラクションに乗ってみたり。正午を過ぎる頃には、私のスマホのアルバムの中は自撮りのツーショットと茜の写真で一杯になっていた。
「見て見て千尋ちゃん。このハンバーガーのバンズ、耳が付いてる」
「わっ、本当だ。食べるのが惜しいね」
昼食休憩では、茜がサンドイッチを嬉しそうに見せてきた。普段は理知的な茜が童心に帰って楽しむ姿を見ているだけで、私の心の内に温かいものが広がっていく。
「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「うん、ここで待ってる」
昼食を終えて、茜が席を外す。残された私はドリンクを啜りながら、ほっと小さく息を吐いた。
────ねえ、青葉も楽しんでる?
私は左手の薬指に嵌めた指輪をそっと撫でる。それは青葉の形見だった。私が彼女の誕生日にプレゼントした結婚指輪代わりのアクセサリー。もしも彼女が指輪を通してこの景色を見てくれていたら……そんなエゴイズムにも似た感情に任せて、私は指輪を付けてきていた。
午後からも、午前と変わらずアトラクションを楽しんだ。コーヒーカップで回って、トロッコに揺られて、ローラーコースターで暗闇の中を進んだりもした。写真を撮って、グッズを買って、茜と談笑して……本当に幸せな時間が続いた。
「雨、降りそうだね」
夕刻が差し迫った頃。いよいよ空は重たく塞がり、限界を迎えているようだった。生暖かい風が私と茜の間を吹き抜けていく。雨具は持ってきているが、雨が降ると夜のパレードが中止になってしまう。もう少しだけ耐えて欲しいと願うしかない。
「ねえ千尋ちゃん、手を繋いでもいい?」
「うん? いいよ」
パーク内を遊覧していたところ、茜から提案される。特に考えることもなく差し出された手を握って指を絡めると、茜が緊張したようにビクリと震えた。
しばらくお互いの指をにぎにぎしながら歩いていると、茜が急に足を止めた。訝しく思って彼女を振り仰ぐと、その顔はひどくショックを受けているようだった。
「指輪……?」
彼女の視線は銀色の装飾品────私が薬指に付けた青葉の指輪に向けられていた。
「ああ、これね。青葉の結婚指輪。青葉もここに来たがっ────」
「なんで………………」
茜の低く嗄れた声が私の言葉を制した。
「私は……ここに来てもお姉ちゃんの代わりにはなれないの?」
「……あかね?」
「千尋ちゃんは────どうすれば私を見てくれるの?」
茜は底冷えするような声音で問いかけてきた。私は態度を急変させた茜に戸惑うばかりで、上手く言葉を紡げない。彼女は繋いでいた手を痛いほど握りしめて────
「私は千尋ちゃんのことを────」
ぽつり。
雨粒が茜の頬を掠めた。
◆
外は雨。パレードは中止。ホテルまでの帰路で一本の傘を共有した私たちは足元と肩を濡らした。
ホテルに戻り着いた茜は部屋に誂えられたソファに腰を落とす。項垂れたその表情は窺い知れない。私はどうしようか迷って……彼女の隣に腰を下ろすことにした。今は茜の言葉を静かに待つべきだと直感が告げていた。
五分、十分……重たく沈痛な空気の中、茜は掠れた声でボソリと吐いた。
「少し……昔話をさせて」
茜は徐に頭を上げ、上体を背もたれに預けた。ダウナーな空気を纏った茜はいつもよりトーンを落として訥々と語り始めた。
「私ね。小さい頃からお姉ちゃんのことが苦手だったの」
唐突な告白に私は目を剥く。声が出そうになって、グッと堪えた。今は茜の話を聞かなければならない。
「人から愛される力っていうのかな。明るくて、優しくて、カリスマ性がある……双子なのに、いつも可愛がられるのはお姉ちゃんの方。私がどれだけ真面目に生きたって、適わない相手がお姉ちゃんだった」
成績優秀な茜が青葉に対してコンプレックスを抱いていた。それは、幼馴染の私ですら気が付かない事実だった。
「でもね、劣等感に苛まれて生きてきた私をちゃんと見てくれる人がいた。それが、千尋ちゃん」
「わた、し……?」
「うん。千尋ちゃんは、私のことをよく褒めてくれたでしょ。テストで良い点とった時なんかは自分のことのように喜んでくれてさ」
茜はくしゃりと後ろ髪をかき上げる。
「それだけで嬉しかったんだ。私、あんまり褒められる子じゃなかったから、千尋ちゃんに喜んでもらえたことが救いだった。勉強なんて、千尋ちゃんに褒めてもらうためだけに頑張ってたんだから」
茜はニヒルに笑う。
「千尋ちゃんに褒めてもらうことを目標にしてたらね、いつの間にか千尋ちゃんのことを好きになってた」
────知らなかったでしょ?
こともなげに言い放たれたその言葉に唖然とした。彼女が言うところの「好き」がどこにベクトルを向けているのか、分からない私ではない。
「今日こそは気持ちを伝えるぞ、って覚悟で毎日学校に行ってた。でもね、やっぱり怖かったよ。フラれたらどうしようとか、引かれたらどうしようとか。そんなマイナス思考にばかり引っ張られて、結局告白できなかったんだけどね」
中学生の頃は私と青葉と茜の三人で行動をすることも多かった。カラオケに行ったり、プリクラを取ったりの日々の中で、茜は懊悩していたというのか。
「高校生になっても告白できないままだった私は、それでもいいかなって思ってたの。一緒に居られるだけで私は幸せだったから。でも────」
茜は苦渋に満ちた表情で喉から声を絞り出す。
「気が付いたら、お姉ちゃんと千尋ちゃんが付き合っていた」
私は生唾を飲み込んだ。謂れのない罪を責め立てられているようで、手足の先がピリピリと痺れ始める。
「千尋ちゃんに恋人が出来たところまでは私の心にも折り合いが付けられた。でも、どうして……どうして、よりによって相手がお姉ちゃんなの」
それは、ドロリとした呪詛のような重みで私の心臓を搦めとった。私が青葉の告白を受けた時は本当に軽い気持ちだった。
私と青葉が青春を送る裏で、茜は……。
「高校生の時は悔しくて仕方がなかった。お姉ちゃんを心の底から恨んだし、告白しなかった自分を呪った。家の中でお姉ちゃんとの間に会話は無くて、目を合わせることもなくなった。そのまま私たちは高校を卒業して、家を出て、離別した」
茜は深呼吸を一度挟む。
「千尋ちゃんのことも忘れようと思って、好きでもない人と付き合ってみたこともあったけれど、私にまともな恋愛なんてできなかった。大人になったら何か変わるんじゃないかって期待してたけど、変わらなくて、変われなくて…………そんな時、お姉ちゃんが事故で亡くなった」
茜は初めて私に顔を向けた。血の気が引いた肌は青白く、目は真っ赤に充血している。
「私……ずっと分かんないままなの。お姉ちゃんとの向き合い方。大嫌いだったはずなのに、いなくなったら悲しくって、どうしてもっと優しくなれなかったんだろうって自分で自分が嫌になる」
かつて、茜は私に言った。「青葉の死は乗り越えた」と。しかし、それは嘘だった。彼女もまた、二年前のあの日から動けないままでいる。
そして、茜の話は過去から現在へと繋がる。
「お姉ちゃんへの感情の整理が付かないまま時間だけが過ぎて行って……三回忌に千尋ちゃんと再会した。お姉ちゃんのことを引き摺っているのが私だけじゃないって分かって、これはもしかしたらお姉ちゃんが私に与えた試練なんじゃないかって思い始めたの」
私と茜の視線が交錯する。
「お姉ちゃんを喪った千尋ちゃんは、きっと私以上に悲しんでいるだろうから……傍に寄り添ってあげようと思った。私がお姉ちゃんの代わりに千尋ちゃんを幸せにしてあげられれば……お姉ちゃんに対する贖罪になるんじゃないかって。それに、もしかしたら────私が諦めてしまった恋を取り戻せるかもしれないって期待してた」
「浅ましいでしょ」と茜は自嘲気味に嗤った。
私は今しがた聞いた情報を整理するだけで精一杯だった。気の利いた言葉の一つも吐けないまま、感情だけがぐるぐると渦巻いている。
それからしばらくして、私と見つめ合っていた茜は視線を切り、ソファから腰を上げる。立ち眩みがしたのか僅かによろめいた。そのままふらふらとした足取りで部屋の荷物をまとめ始める。
「あ、茜……?」
「つまらない長話に付き合わせちゃってごめんね。今日はもう……帰るね」
キャリーバッグを引き摺って部屋を出ていこうとする茜の後ろ姿に────私は弾かれたように飛びついた。茜の腕を両手で掴んで引き留める。
「待って!」
この手を放したら、もう二度と茜は私の前に現れない……そんな予感がして、ぎゅっと強く握りしめた。
「逃げないでよ、茜」
「逃げてなんか…………」
「嘘。泣きながらそんなこと言われたって、信じない」
茜はハッと息を呑んでこちらを振り返る。その頬には涙が伝っていた。
嗚咽を噛み殺した茜は呻くように言葉を吐き出す。
「やめてよ……放してよ…………私、もう、どんな顔で千尋ちゃんに向き合えばいいのか分かんないよ」
「…………っ」
きっと、今の茜は暗闇を彷徨う子供のように、何もかもが分からなくなってしまっている。茜自身への向き合い方。私への向き合い方。そして、亡き青葉への向き合い方。
色々な感情が絡まったままの茜を一人にするわけにはいかない。
「お姉ちゃんの死にかこつけて千尋ちゃんに近づこうとしたんだよ……? 気持ち悪いって思わないの?」
「思わないよ。思うわけない」
私は諭すように、ゆっくりと頭を振る。
「だって、茜に貰った優しさは本物だから」
茜は緊張したようにキュッと身を縮める。
私は掴んでいた手を放した。
「茜は凄いよ。私に勇気をくれた。優しさをくれた。茜が居なかったら、私はまだ立ち直れてなかった。だから、今度は私が茜を救いたい」
一つずつ、一つずつ気持ちを整理していこう。
私が青葉を受け入れたように、茜も青葉を受け入れる時が来た。
だから、その手助けを私にさせてほしい。
◆
今の私にできることは何だろう。
茜の想いを受け入れること?
茜を慰めること?
茜を激励すること?
どれも違うだろう。
今の茜に必要なものは一つだけで、それを私が届けてあげればいいだけの話。
翌日の午前にホテルを出払った私たちは新幹線に乗って帰宅を果たした。遊園地ではしゃいでいたのが随分と昔に感じられる。
「上がって」
「おじゃま……します」
茜を我が家に招くことにも随分と手慣れたものだ。お土産と着替えが入ったスーツケースは玄関に置いてもらい、私たちはリビングへと足を運ぶ。
「あの、千尋ちゃん、見てほしいものって……」
昨日のことが尾を引いているのか、茜はおっかなびっくりという様子で尋ねてくる。私はできるだけ安心させるような声音で茜をここに連れてきた理由を明かした。
「遺品整理をしたでしょ。その時に見つけたものなんだけど────青葉が、茜に手紙を出そうとしたことがあってね。糊で封をして切手まで貼ってたのに、結局出してないままだったの」
押し入れの中、貴重な書類を纏めたクリアフォルダから一封の茶封筒を取り出す。宛名には「高羽茜様」の文字。
私はこの封筒の正体を思い出すことができていた。これは、青葉がこの世を去る半月前に書いた手紙だった。
当時、執筆していた青葉は便箋に向かって思いつめたような顔をしていた。何事かと私が尋ねると、彼女は「うーん……茜にラブレターを書こうとしてるんだけど気恥しくてさぁ」と困ったような笑みを浮かべていた。当時の私は特に気にすることもなく、手紙の内容も行く末についても知らないままだった。
しかし、先日の遺品整理でこの手紙は私の前に現れた。私には、これが青葉の遺志と受け取れた。
はい、と手渡すと、茜は困惑した表情を浮かべる。
「これ、開けていいの?」
「茜以外に誰が開けるの。それ、茜宛ての手紙だよ」
茜は恐る恐るといった体で封筒を凝視する。その顔は不安と期待に満ちていた。茜は高校生の頃から青葉との交流を絶ったと言っていた。劣等感に苛まれたまま距離を置いた彼女にとって、姉の存在は際限なく肥大していった。その虚像に怯え、苛立ち、反抗しようとしたために茜は鬱屈とした感情を引き摺ることになった。
今の茜に必要なもの。それは、等身大の青葉の存在だ。飾らないままの、そのままの青葉の気持ちがこの手紙に記されているのだとしたら、それが彼女の救いになる。
もしかすると、この手紙の内容は大したことない事務報告で、青葉の気持ちは綴られていないかもしれない。それでも、私にはある種の信頼というべき予感があった。
────青葉は手紙を書いた後に本気で恥ずかしくなって送るのをやめたんだろうな。
書いたはいいけど、ポストへの投函を渋る青葉の姿がありありと目に浮かぶ。
────出そうかな、やめようかな、でも、書いちゃったし……と、とりあえず、保留! 押し入れの中にしまっておこう!
ああ、きっと、こんな感じで青葉は手紙を隠したのではないだろうか。そう考えるだけで、クツクツと込み上げてくるものがあった。
私が在りし日の情景に思いを馳せて忍び笑いを漏らしている間に、茜は開封を終えていた。コクリと生唾を呑む音が聞こえる。
私は茜の後ろから桜色の便箋を覗き込んだ。
『拝啓
秋も深まり、美味しいお鍋を食べたい季節になりました。
電子メールだと茜ちゃんは返事をしてくれないので、こうして筆を取っています(イヤミじゃないよ!)。
こうして手紙を書くのは初めてかな。こうして改まった感じで文字に起こすと、ちょっとだけ気恥ずかしいです。
さて、もうすぐ茜ちゃんと離れて暮らすようになってから四年が経ちます。茜ちゃんは大学四年生で、そろそろ就活が終わった頃かな。お姉ちゃんはもう社会人なので、困ったことがあったら何でもきいてください。
茜ちゃんと会わなくなってからは四年が経ちましたが、会話は六年ぐらいしてないですね(高一の冬あたりからかな?)。茜ちゃんが距離を置くようになった理由を色々と考えるまま、月日だけが経過して今に至ります。私には、まだその理由がわかっていません。きっと、私は茜ちゃんを怒らせるくらいヒドいことをしたんだと思います。不出来なお姉ちゃんでごめんなさい。私が茜ちゃんくらい頭の回りが良かったら、きっとこんなことにはなってなかったのにね。
今年の年末は実家に帰ろうと思っています。千尋も一緒に連れて行くから、三人でお話ししませんか。その時に、茜ちゃんと……もし、茜ちゃんがゆるしてくれるのなら、私は茜ちゃんと仲直りがしたいです。そして、もう一度、昔みたいに遊べたらな……なんてことを夢に見ています。』
手紙は二枚目に続く。
『話は変わりますが、お母さん伝手に茜ちゃんのことは色々と聞いています。大学では勉強を頑張っていて、成績優秀者として表彰されたということも知っています。すごい。茜ちゃんは偉いです。姉としても鼻高々です。しかし、私生活はあまりよろしくないと聞いています。お酒を飲みすぎて病院に運ばれたとか、不眠症で通院しているとか……。姉として、とても心配です。
もし、悩みがあるなら……茜ちゃんの力になりたいです。頼りにならないかもしれないけど、お姉ちゃんに相談してください。
茜ちゃんにとっての苦しみは、私にとっての苦しみでもあります。
同時に、茜ちゃんにとっての幸せは、私にとっての幸せでもあります。
だって、私たちは双子で、姉妹なのだもの。
長くなりましたが、とにかく、私としては茜ちゃんに会いたい一心です。そして、たくさんたくさん話をしたいです。
最後までまとまらない文章でごめんなさい。また手紙書くね。
敬具』
読み終えた茜は便箋を胸に抱えて静かに涙を零していた。
「私、最低だ…………お姉ちゃんはずっと私のことを心配してくれていたのに、私はお姉ちゃんのことを恨んでばかりで────」
身を縮めた茜は苦痛を耐えるように、自身の身体をかき抱く。
「私、どうすればいい────?」
「……青葉が天国で安心できるくらい、幸せになればいい」
私の言葉に、茜は「ぎゅっ」と唇を噛んだ。
「青葉は茜の幸せを祈ってた。だから、『私は元気だよ。幸せだよ』って言えるぐらい、胸を張って生きていこう」
「私なんかが、幸せになってもいいの?」
「いいよ。いいに決まってる。その資格は青葉が保証してくれてるし、それに────」
私は一瞬だけ間をおいて口にする。
「────私も、保証してあげる」
泣きじゃくる茜をあやすように、とん、とん、と柔らかくその背を叩いた。
「今はまだ茜の想いに応えられないけれど、もう少し私が前に進めたら。その時は────」
その時は、どうなるんだろう。
今は、私の心の最も大切な所に青葉が居る。それは今までも、そしてこれからも変わらないと誓っていい。しかし、青葉が住まうこの心に茜の存在が入り込んできていることも事実だった。
青葉は手紙の中で「茜にとっての幸せが自身にとっての幸せ」と謳った。それは、恋人の私も同様に受け取っていた言葉だった。「千尋が嬉しそうにしてると、私も嬉しいよ」と。
────だから、私たちは青葉のためにも幸せにならなくちゃいけない。
前を向いて、胸を張って、笑顔で生きていく。それが、私たち遺された者の義務であり、青葉への精一杯の恩返しなのだ。
◆
季節は巡り、師走の候。青葉の三回忌から一年が経ち、今年も命日がやってきた。
都市部からやや離れた場所に位置する山間に青葉の骨は納められている。茜と二人で訪れた墓地に人影はなく、冬の寒さも相まって寂寥と静寂が強く感じられた。
「高羽家之墓」と彫られた墓石を前に、私たちは周囲の掃除を始める。墓石に積もった雪を払い、花立ての水を入れ替えた。
菊の花を供え、香炉に線香を立ててから、いよいよ墓前に手を合わせる。
瞑目すると、青葉との思い出がふわりと浮かび上がる。そのどれもが懐かしく、愛しい。
私にとって、青葉の死は悲しく苦しいものだった。だが、私はちゃんと乗り越えることが出来た。悪夢に魘されることは無いし、彼女のことを思い出して涙を流すことも無くなった。
それは、私の隣で手を合わせる茜のおかげだ。
────青葉。私たち、元気でやってるよ。
目を開けると、すぐ横に茜の顔があった。恐らく、茜も私と同じようなことを青葉に報告していたのではないだろうか。
「帰ろうか」
「うん」
墓を後にして、肩を並べて歩く。手を差し出すと、茜は「きゅっ」と握り返してきた。
「晩御飯、何にしようか。食べたいものとかある?」
「うーん、千尋ちゃんの料理ならなんでもいいかな」
「そういうの困るんだけど……まあいいや、帰りに買い物しながら考えよっか」
茜は同意を示すように「きゅっきゅっ」と握る手に力を込めてくる。茜を一瞥すると、その表情は明るい笑みを湛えていた。
照れ臭くなって空を見上げると、雲間から太陽が顔を覗かせている。その光は私たちを見守るように、柔らかく辺りを照らしていた。