帝者、我を失う
暗くなった空を、エルス目掛けて滑り飛んだ。大きな一撃を食らい、意識はなかった。にも関わらず、目の前を、ゆっくりと舞い降りるように落ちていた。
俺は彼女の背に手を回し、落ちていくのを阻止した。
彼女の腹には、深く生々しい傷痕があった。湧き出るように血が溢れている。
俺は背後に感じる強大な力に目もくれず、ただ感情のままに彼女の傷痕に手を重ねた。
「ーー癒えろーー」
心ない口調だった。もはや、俺には口調のひとつも考えられなかったのだ。
翳した右手に魔力をこめれば、柔らかな光が彼女を包む。
みるみるうちに傷は癒えていった。そして、それに伴って、苦しげな表情も安らかな表情に変わっていった。
エルスの傷を治し終え、周囲を見まわす。眼下に広がる景色に、言葉は出なかった。
「…………」
その風景は、ついさっき夢の中で見たものにも、幾千年前に見たものにも似ている。
エルスを地上へ運ぼうと動き出す刹那、突然、ピキンッと空間が凍りつくような感覚がした。
「ーーどこに行くのですか?」
反射的に身体が止まる。右首に感じる冷たい感触。それに合わさるように感じる熱い感触。重く暗い、漆黒が心の奥底から湧き出てくるのを感じた。
「ーー遊びは終わりだと、そう言いましたよ?」
それでも俺は、ゲルダの言葉を無視して身体を動かした。無視というより、それが自分の自然の事のように感じられた。
怒りも悲しみも、喜びなどもってのほか、あらゆる感情に拠らずに身体が動いている。
ほんの少しの動きを見せた瞬間に、ゲルダは影心剣に強く力を込めて振り切った。剣先が首の後ろを斬る。
しかし、血は流れなかった。
それを目にしたゲルダは、小さく声を漏らした。
「ーーん?」
俺を飲み込まんと広がる漆黒は、傷をも飲みこんでいた。血の赤いのは決して目立たず、闇の黒に消えてゆく。
それは、白闇の魔導師の光と闇の均衡が崩れている証だ。
「ーーまあいいでしょう。では、行きますよ?」
少しの間隔の後に、ゲルダは影心剣を再び上段に構え、爆発的なスピードで俺に迫った。
刃は心臓を捉え、ブレない軌道はゲルダの加速を止めない。ほんの数メートルの距離で放たれた一撃。
ただ、それが俺の背に届く事はなかった。
たった一言が、それを食い止めたのだ。
「ーーウセローー」
言葉の圧力と気迫。魔力がこもっていた訳じゃない。それすらも凌駕する何かが、それを聞き感じてしまったゲルダを止めたのだ。
「ーーっ! ま……さか、今……のは……!?」
一瞬のうちに遥か後方へと避難したゲルダは、胸を押さえ息を切らしていた。
俺は地上までスッと降りると、エルスを比較的平らなところへ置いた。
そして、もう一度言った。
「ーー癒えろーー」
重ねて、もうひとつ。
「ーー安らかなれーー」
ありとあらゆる所から、小さく光が見えた。
斬られ地面に伏している者。気絶して倒れている者。既に命を失った者。
その全ての者を、救済の光が暖かく包んでいた。
それは、俺にとって最後の光だった。
コツンと軽く地面を蹴って宙に浮く。灰色の砂が風で飛ばされていった。
そして、ある程度の高さまで来た時、それは起こった。
ーードクンッーー
心臓が強く鼓動した。同時に、溢れ出した漆黒。まったく光を感じさせない、黒く黒く、果てしなく黒い漆黒。俺は何も考えず、抵抗もひとつもしない。
爆発的に膨れ上がって決壊した漆黒は、俺を完全に飲み込んでしまった。
身体が漆黒の渦から解放された時には、俺は自分の姿を、自分の中から眺めているようだった。何も感じる事なく、何も思う事もなく、ただただ無感情だった。
「ーー少し計算違いをしていたようです」
遠くでゲルダが独り言を言っている。
「まさかその力を取り戻しているとは」
ゲルダが何かを発する程に、影心剣はその輝きを増した。
「これでは私も本気を出さざるをえませんねぇ」
今度は影心剣に魔力……ではない、何かしらの力を込めていくゲルダ。すると、影心剣は影を生むように、ひとつ、ふたつと数を増やしていった。
「ーー準備は整いましたよ」
ゲルダがそう言った時、奴の背後には四つの影心剣が浮いていた。手に持ったものも合わせ、計五本。全ての刃が俺の方を向いている。
「ーーではーー」
ゆらりとゲルダの身体が動いた。
「ーー覚悟!!」
揺れた身体は一瞬で空気に溶ける。音もなく気配もない。突然に虚空から現れる死の宣告。俺の命を正確に狙い、最初の一撃が振り下ろされた。
しかし、俺を取り込む漆黒が形を変え、易々とそれを防いだ。
続けざまに放たれる四本の剣は、もう既に人間の限界は超える速さだ。言うなれば神の領域。まさに神速だった。
「たとえ力に目覚めた貴方と言えども、この私の、神の力には及びませんねぇ」
剣を振る手が見えない。もちろん剣など見えはしない。
だが漆黒は剣を形作り、続く四本の剣を全て軽く弾いてしまった。その間にまた漆黒は形を変え、幾十もの細い槍がゲルダを狙って放たれた。
「クッ……まだ足掻きますか……」
突然放たれた攻撃は、体勢を崩したままのゲルダの身体に突き刺さるも、奴はピクリとも表情を変えなかった。まるで身体そのものが虚体であるかのような感じだ。
俺はピタリと止まったまま動かず、ただ漆黒だけが無意識的に攻撃を行う。
四本の剣の連続攻撃にもゲルダ自身からの攻撃にも、湧き出る漆黒が形を変え数を変え、難なく葬り去っていった。
「やはり貴方は殺さねばなりません。我ら神々の、いえ、私という神のために!!」
高笑いをするゲルダの剣に更に力が加わる。攻撃中の四本の影心剣が光り出し、攻撃をしながらその数を倍にしていった。
そして、奴の持つ剣を含む九つの剣がその刃を向けて迫る。
ただ、やはり何も思う事はなかった。
俺の意思とは無関係に動く、俺の心を象ったそれは、ついに防御するのをやめた。
漆黒は矛となっていた部分を消し去ると、ゲルダの八本にも及ぶ影心剣の鋭刃を全てその身に受けたのだ。
全ての剣が神速の如き速さをもって俺を貫いた瞬間だった。
「ーーッ!?」
「ーーウセローー」
また、心なき声が漏れた。今度はさっきとは違う。身体を包む漆黒が巨大に広がり、ほんの寸分の光もなく世界を飲み込んだ。
漆黒は俺を貫く九つの剣を消し去った。傷も飲み込み、ゲルダも飲み込んだ。
そして、漆黒の世界の中でもう一度声が漏れた。
「ーーウセローー」
声に応じる漆黒が世界の形を保ったままズズズと動き出す。
漆黒が何かを斬り裂き貫く音が聞こえた。続けてズドッ、ズザッ、ザザザザザッ、と不快音が響く。
音が消えるまで数秒の長い時間だった。
漆黒が再び動き出す。次第に光を取り戻した世界。
そこにあったそれに思いのほか俺は無関心無感情を貫いた。
俺にとっての数秒。ゲルダにとっての刹那。心を象った漆黒の世界で何が起こったのか。目の前のそれを見れば明らかだった。
俺は心の底からゲルダの死を望んでいた。
もうひとつそう思った理由があった。無関心無関情で、心も漆黒に包まれた俺は、無意識にその表情が笑っていた。
目の前でズタズタになっているゲルダの姿に、俺は自然と、無意識に笑っていたのだった。
ついにゲルダがっ!? と思いつつ、リュウヤの事も気になります。果たして三章はどうやって幕を下ろすのでしょうか。
/前回からかなり間が空きました。申し訳ありませんm(_ _)m




