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我が家に新しい子がやってきた。


朝からソワソワして早起きをしてしまった。

少し早めに起きてしまったが、いつものようにスイッチ一つでカーテンを開け、赤坂の街並みを見下ろす。


窓を開けて換気をし、朝のまだ温まっていない冷たい空気を部屋に入れる。


「う〜、さぶさぶさぶっ!」


誰にいうわけでもないのに、思わず漏れてしまった独り言に苦笑しながら窓を閉め、暖房をつける。


時節柄、そろそろ冬が本格的にやってくる。

空気は乾燥するが、冬が本格化する直前の40%程度の湿度はピアノにはちょうどいいくらいだ。

しかし温度はピアノにも人間にも少し寒すぎる。

だから、ファツィオリ様のためにオイルヒーターを買ってあげて準備した。

ちなみに加湿器(業務用)も。



買ってきておいたパンをオーブントースターに放り込み、フリーズドライのスープを適当にスープカップに放り込み、電気ケトルからお湯を注ぐ。

今日は紅茶の気分なのでお気に入りの茶葉を適当にポットにぶちこみ、余ったお湯を全部注ぐ。


今日は紅茶の気分などとのたまったが、きっと明日も紅茶の気分だし、明後日も紅茶の気分だろう。

いちいち豆なんか挽いてられるか、めんどくせぇ。


といったところで、オーブントースターがパンの焼けたことを知らせる。


簡単だが、朝食をリビングに持って行き、ぼーっとしながらダイニングテーブルで食べる。

食べ終わって食器を片付けたところでインターホンが鳴る。


「きたか…ッ!」


案の定ピアノ搬入業者だった。

マンションのコンシェルジュさんには事前に根回し済みだ。

下まで迎えに行き、書類にサインして、部屋まで持っていってもらう。

図面の数字上は問題ないのだが、ピアノがエレベーターに入るか不安だったが、入れてみると結構余裕だった。

コンシェルジュさん立ち合いの元、手動運転に切り替え、最上階まで直通で行く。


無駄に大きく重い、まるでグランドピアノの天板のような玄関扉をみんなで外し、ピアノを搬入する。


1人だとあんなに広く大きい玄関もグランドピアノが入るとギリギリの広さに感じる。


順調に搬入が進み、外していたパーツを本体に取り付け、防音室に据え付けが完了した。


さすが50畳もある防音室だけあって、ピアノが小さく感じる。

入るだけならきっと3m超えの最大のピアノでも入っただろう。

入るだけならね。

ほしかったけどね。


一応の防振マットもひいてあるし、窓も考慮して遮音カーテンを導入しておいた。


「もう弾いてもいいんですよね!?」


「まだです。」

にべもなく断られた。

断ったのは、搬入業者さんと入れ替わりで来てくださった、調律師さんだ。

ピアノは精密機械ということもあり、最大限の配慮を持って移送搬入してくださってくれているが、万が一ということもある。

そこで、今回、調律師さんがご同行してくださったのだ。

毎回そうなのかどうかは知らん。


そして、ハンマーの一本、フェルトのひとつ、ビスの向きに至るまで全てのチェックをしてくださった。


「本当なら、ここで私が弾いてみて調子を確かめるのですが。」


「ですが?」


「せっかく、新しいピアノをお買い上げくださったのですから、藤原さんお願いします。」


「ありがとうございます!!!!」

涙が出そうなほど嬉しい。


最低音から最高音まで、アルペジオで満遍なく鳴らす。

4本のペダルも全て使う。


「はい、止めてください。」


気持ち良くなってきたところだったのだが止められた。


「今E7の音の弦が少し変だったのでチェックします。多分ハンマーのフェルトの当たり方が気持ち斜めです。」


この人は天才だろうか。

アルペジオの中でその音だけがちゃんと聴き分けられているのがやはりプロという感じがする。


本当なら自分でさっさとやったほうが早いのに、私にやらせてくれるということにプロ意識の高さを感じる。


こんな調子で、私の打鍵の癖に合わせてさらに細々とした調整まで加えてくれ、名実ともに世界に一台しか無いピアノが完成した。


「完成です…!

しっかり弾き込んであげてください。」


「はい、ありがとうございます!」


「おそらく、藤原さんはかなり弾き込むタイプのピアニストさんだと思いますので、とりあえず2ヶ月後にまた呼んでください。

新品のピアノなので、1年間はそういう頻度になってくると思います。

それが過ぎると、3ヶ月に一回なり、4ヶ月に一回なり適正スパンが見えてくるかと思いますので、よろしくお願いします。」


「はい、かしこまりました。」


「あと、この子の適正温度湿度は、23度43%です。

誤差はだいたい3度3%程度に収めていただけますと一番長持ちします。

お部屋見ると、オイルヒーターに業務用加湿器、温湿度計も高性能なものを準備してくださっていらっしゃるので問題ないと思います。」


「このために準備しました。」


「きっとこの子も冥利につきると思います。」


「この子が最大限気持ち良く鳴ってくれるように練習頑張りますね。」


「どうかよろしくお願いいたします。」


世間話をしながら調律師さんを一階エントランスまでお送りする。


「ではまた2ヶ月後よろしくお願いいたします。」


「藤原さんは絶対音感をお持ちなので大丈夫だと思いますけど、少しでも音が狂ったらすぐご連絡ください。」


「わかりました。今日はありがとうございました。」



調律師さんをお見送りすると、速攻で家に戻りひたすらに弾き込む。

嬉しくて嬉しくてしょうがない。

中のサウンドボードも外装と同じ黒で塗装され、鋳鉄製のフレームはシルバーに、金属部分は全てクロムメッキされている。

めちゃくちゃかっこいい。


音色は一音ごとに違った顔を見せ、徐々に眠りから覚め始めていることを予感させる。

オイルヒーターと加湿器、除湿機を巧みに使いこなし、適正温度湿度に保ち続けながらピアノをひたすらに弾き込んだ。


気付いたら日付的には3日が経過した。

時間にすると55時間くらい?

この土曜日の朝から月曜日の夕方3日間はあまり記憶が定かでは無いが、ピアノ椅子で寝ていたような気がする。

こんな椅子でよく寝れたな…。


たぶん、食事風呂トイレ睡眠以外の時間は全てピアノを弾いていたと思う。


私が気が付いたのも、家のインターホンが鳴って、我に返ったからだった。

誰だろう。


「実季先輩だ。こんにちはー!」


「大丈夫!?!?」


「え、なにがですか?」


「ちょっとそっち行くから開けて!」


「?はーい。」



実季先輩は家に入るや否や、おでこに手をあてたり、下瞼を引っ張って裏側の色を見たり、私の体調を一通り心配した。


「どうしたんですか?」


「吉弘くん…スマホ、持ってきて。」


「あっ!!!」

スマホは寝室にあった。

つまりほぼ三日間なにも見てないということ。


「こ、こちらがわたくしのスマホでございます…。」


「私に見せなくていいから、自分で確認してごらん?」


「ふ、不在着信12件…。

未読チャット49件…。」

バイトはピアノが搬入されることもあり、事情を話して両方ともお休みをいただいていた。

バーの方は、動画サイトにあげるので、搬入の様子や慣らし弾きの様子を全部録画しといてくれたら休みは問題ないとのことだった。

ゴルフバーの方はもともと定休日も絡んでおり、もとより問題なかった。


怖いのは、それ以外だ。

不在着信12件のうち、4件が弓先生、5件が実季先輩、残り3件はなおちゃん、幸祐里、ひなちゃんだ。

女の子ばっかりでモテモテだ!



チャットはもうやばい。

最初こそ無視を怒る内容だが、電話にも出ずチャットの返信も来ず、心配になり家を知っている友達は家に行ってみればすでに引っ越して誰もいないので、失踪とかの心配の内容が多く、申し訳なくなった。


「どうする?」


「どうしましょう。」


「なにしたたの?」


「ピアノ…。」

そこで実季先輩にこの三日間のタイムスケジュールを説明した。


「ねぇ、怖いよ。

大丈夫…?

もうこんなことしないって約束したじゃん…。」

実季先輩はさめざめと泣き始めてしまった。

怒られるよりも精神的にクる。


「ごめんなさい…。」


「練習するのはいいことだけど、約束破るのはやめてよ…。

体壊しちゃうよ…。

吉弘くんが心配だよ。」


「新しいピアノが来たのが嬉しくて…。」


「ねぇ、これで何回目?

私何回同じ話した?」


「もうわかんないです…。」


「だよね。

私もわかんなくなっちゃった。」

先輩は力なく笑ってた。

まともな生活を放棄して、命を削るようなことをしてまで練習しているのが怖いのだろう。

先輩にこんな顔をさせてしまうのが申し訳ない。

今回ばかりは本当に反省した。


「心配かけてごめんなさい。

もうしません。ごめんなさい。」


「いいよ…。

というか、許すしかないよね、こんなの。

捕まるようなことしてるわけでもないしさ、

吉弘くんからしたら余計なお世話だよね。」


「そんなことないです!

自分の身を心配してくれて、家まで来てくれて、

こんなありがたいことないです。」


「そっか。ありがとう。

じゃあこれからの吉弘くんみて、信じるかどうか決めるね。」


「お願いします。」


なんとか先輩に許してもらえた。

こんな風に心配をかけるのはもうやめよう。

集中すると周りの全てをシャットアウトしてしまうのは悪い癖だ。


「風邪で寝込んでるかと思ったから、消化に良いもの買ってきちゃった。」


「じゃあ、それで今からお昼にしましょう!」


「心配したからお腹減ったよ〜。」



結局、その日はもうピアノを弾いたらダメと言われ、それを監視するために実季先輩は泊まっていった。

まぁお風呂もトイレも二つあるし好きに泊まればいいよ。

客間(というなおちゃんの部屋)で寝てもらおうと思ったけど、結局、気づいたら先輩は私の部屋で、ベッドを占領してて、私はなおちゃんの部屋のベッドで寝た。

先輩が私の部屋のベッドで寝ていたので、それに気づいて泣く泣くドアを閉めたのだが、その時舌打ちが聞こえたのは聞こえなかったことにした。


「先輩心配してくれてありがとね。」

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