ある聴衆の話。前編
今日は念願の彼のライブの日。
日程をなんとかやりくりしてくれて、妻もこの場に連れてくることができてよかった。
「こういうところで飲んでるのねぇ。」
私がアジトとしているバーに妻を連れてくるのは初めてなので、不思議そうな顔をしている。
S席のチケットを、少ない小遣いの中から、なんとかやりくりをして妻の分も捻出した。
まぁやりくりと言ってもバーに通う回数を週5から週2にするだけなのだが。
妻に、こんなに早く家に帰れるのねなんて、嫌味を言われたりもした。
チケットが手配できたとはいえ、妻を誘うのは本当に緊張した。
「で、デートに行かないか?」
こう誘うと良いという話をオーナーに聞いたので、小っ恥ずかしかったが、妻にそのままぶつけた。
そしたら妻は、しばらくポカンとして。
「どういう風の吹き回しよ。」
なんて言われたりもしたが、なんとかデートに誘うことができた。
大学生の娘はもう一人暮らしをして長いし、高校生の息子は越境して東北の高校に、今年野球入学した。
夫婦2人きりになってしまい、寂しい思いをさせているとは思う。
久々に休みの日に嫁を独り占めできるのは
私としては悪い気はしない。
昨日は娘から久々にチャットが来て、デートの心得を話された。
きっと嫁がこのことを話したのだろう。
娘曰く、ライブが夜だからと言って、夜だけ一緒にいるというのではダメらしい。
朝からお洒落をして、2人でお出かけをして、夜にバーでライブ
という流れに意味がある。
ということを、切切と、懇懇と諭された。
全くパパをなんだと思ってるんだ。
これでもママとデートを何度も重ねて結婚までこぎつけたんだぞ!
と、言い訳をしてみたが、
ママからパパと付き合ってた頃の愚痴や笑い話を何度聞かされたかわからないと言われ、口を噤んだ。
素直に娘のアドバイスに従うことにした。
最後に、パパのくせにやるじゃんと言われたのが、
嬉しかった。
娘に言われたように、その日1日のデートプランを練る必要が出てきたので、
会社で、仲良くしてもらっている、愛妻家として有名な重役に、銀座界隈でいい店はないかと聞いた。
すると、いろんな店が出てくる出てくる。
日比谷あたりから、ブラブラして、最終的に銀座に流れ着くという流れが一番自然で楽しいという結論に落ち着いた。
いい年した大人が何をやってるんだとも思ったが、嫁のためなので何の苦もない。
そのデートプランをもとに、朝ごはんを嫁と食べ、家を出て電車に乗り、日比谷に降り立った。
「さて、今日はどこに連れて行ってくれるのかしら?」
「まぁ、少し歩こうじゃないか。」
「はい。」
嫁は朝からずっとニコニコしている。
こんなに機嫌が良い嫁を見るのはいつぶりだろうか。
私は、バーも好きだが、服も同じくらい好きだ。
最近はもうスーツかジャケットしか着なくなってしまったが、せっかくなので嫁にコーディネートしてもらおう。
日比谷には伊勢丹があったはずだ。
まずは近くなので、ミッドタウンにある、イセタンサローネに向かう。
初めてきたが、こちらはレディス専門のお店らしい。
「やっぱり百貨店は気持ちいいわね!」
嫁の目が輝いている。
服や靴、香水など見て回ったが、どうしても気に入ったバッグを見つけてしまったらしい。
本人はべつに、などと言っているが、目線は先ほどからずっとあのバッグを追っている。
娘からの虎の巻によると、こういう時は買ってあげないと、後々痛い目を見るらしい。
「すまん、ちょっとトイレに行ってきていいかな?」
「いいわよ、私もお化粧直してくるわね。」
トイレ作戦は成功した。
直行で嫁が気に入っていたバッグを買う。
レジにカードを渡してさっさと決済してもらって、包装まで頼んで、後で渡してほしい旨を伝えて自分もトイレに駆け込み、一緒のタイミングでトイレから出てきた感を演出する。
こういう芸の細かさが全体の完成度に影響するとは娘の談だ。
一通り見て、嫁も満足した様子である。
いよいよ店を出ようかというタイミングで、こちらを伺いつつタイミングを図ってくれていた店員さんにアイコンタクトをして商品を持って来てもらう。
「ほら、プレゼントだ。」
「えっ!?!?
あなた、えっ!?!?」
「気にするな。」
「いや、あなた、えっ!?!?」
目を白黒させている。
そうだな、もうお前とは30年ほどの付き合いになるが、こういうプレゼントの仕方は初めてだからな。
「たまにはこういうのもいいだろ?」
「あなた…。」
ちなみに、決済した時のレシートを見て、その値段に目が飛び出そうになったのは秘密だ。
私の会社バッグの4分の1ほどのサイズなのに、値段は4倍もするのが信じられない。
コツコツ貯めた、虎の子のへそくりの半分が消えてしまった。
店を出てしばらく歩くと、イセタンサローネメンズがある。
「ちょっと俺も服見ていいか。」
「もちろんいいわよ。」
嫁もいつになく上機嫌だ。
イセタンサローネメンズには、男が欲しがるものの大半は置いてある。
役職が上がるに連れ、スーツを着ることも増えて来た。
いくらノータイだなんだといっても、客前に出るときなんかはスーツを着ておきたいものだ。
そこでスーツを見ていると、嫁が一言。
「スーツ作っちゃいなさいよ。」
「いいのか!?」
スーツは好きだが、体型が普通ということもあり、オーダースーツには挑戦したことがなかった。
「あなたも、もう若手じゃないんだから、あつらえたスーツの1着くらいは持っておかないと。
私が選んであげるわよ。」
その一言を皮切りに、伊勢丹のフィッターさんと嫁が結託して、どんどんと話が進んでいく。
あれよあれよという間に、重厚感のある、ダークグレーの生地で、スリーピースのスーツを発注した。
完成は1ヶ月後だ。
楽しみだが、決済は私のカードだった。
解せぬ。
そうこうしているうちにお昼を過ぎたので、近くのカフェに入って昼食を食べた。
ちなみにこの店は会社の重役に教えてもらったカフェだ。
「こんなお洒落なカフェも知ってるのね?」
「実は重役に教えてもらったんだ…。」
「それは言わなくていいのよ。」
「そうか…。」
そのあと、トゥモローランドや、革靴のジョンロブ、いろんな店を回った。
時間もほどほどに良くなったので、銀座の店に向かう。
「さて、いよいよピアノね!
私の耳は肥えてるからねぇ。
満足できるかしら?」
そう、妻は音大出身で、しかもピアノ科だ。
娘も息子もどちらかはピアニストにしたかったようだが、その夢は叶わなかった。
「きっと満足すると思うよ。
私が聞いた中でいちばんのピアノだった!」
「あなた生のピアノ聴いたことないじゃない。」
「まぁプロの演奏は聞いたことはないかもしれない。」
「それでもあなたがそれだけ言うんだからきっと上手なのね。
たのしみだわ。」
店に入ると、マスターに挨拶をして、席に座る。
もちろんS席なのでかなり前の方だ。
「あら、ここのピアノ、ベーゼンじゃないのよ。」
「すごいのか?」
「私も憧れたわぁ〜。
でも高いのよねぇ。」
「おいくら?」
「現行モデルでこれくらいのピアノ買おうと思ったら1200万くらい。」
「うぉ…。」
「まぁヴァイオリンに比べたら安いもんよ。」
「まぁ、それはそうだが…。」
すると妻に声をかける人が。
「奥様。こちらのピアノ、わかります?」
マスターだった。
「あ、どうもマスター。」
「あら、マスターさんなの。
いつも夫がお世話になってます。」
「いえいえ、いつも演奏を楽しみにしてくださって
こちらこそありがとうございます。
オーナーの木村です。
多分誰も名前で呼んでくれないですけど。」
「あぁ、オーナーさんなのね!
と言うことは、こちらのピアノもオーナーさんが…?」
マスターがオーナーとは知らなかったけど、やっぱりマスターって呼ぶと思う。
「実は、こちらのピアノ、私の祖母の形見でして…。
日本に初めて来たベーゼンなんですよ!」
「まぁ!!!
そんな貴重なピアノが!」
「戦争も何とか潜り抜けまして。」
「さぞかし豊かな音色のピアノなんでしょうね…。」
嫁がうっとりとした顔でオーナーとピアノ談義をしている。
「よかったらぜひ弾きに来てください。基本的に昼間はうちのピアニストが練習してますので、ご連絡頂けましたらご案内申し上げます。」
「いいんですか!?!?」
「えぇ、ぜひ!
ピアノもたくさん弾いてもらった方が喜びますから!」
「ありがとうございます!!!」
2人の話がひと段落したところで、会場の照明が落とされる。
いよいよピアニストの登場だ!
ワクワクしてきたぞ!!!
長いので前後編に分けます。




