初めてピアノを弾いた日
演奏会は一言で言うとすごかった。
大学の受験勉強で、音楽からしばらく離れていた体を呼び覚ますには十分以上の刺激があった。
私はすぐにでも音楽に浸りたくなって体がウズウズしてきた。
特に、実季先輩のピアノは天下一品だった。
おそらく自分よりもっと音楽に詳しい人や実季先輩本人はまだまだだと思っていると思う。
音楽には終わりはないから。極めようと思えばどこまででも極められる。ある曲の苦手なところが弾けるようになったかと思うと、他のところが気になる。他のところを直すとまた他のところが気になる。音楽家は自分の演奏に満足してしまうとそこで成長が止まってしまう生き物なのだ。
でも私は実季先輩の演奏が大好きだった。
初めて聞いたが、あんなに楽しそうで悲しそうで嬉しそうで、弾き手の感情と作曲者の感情が直に伝わってくる演奏は初めてだった。
私は実季先輩といつか肩を並べて共演したいと思った。
だから新しい趣味はピアノにすることにした。
そうと決まれば練習室に行ってみようと、行動を開始した。
ちなみに、ラインで、最高でしたと感想を送っておいた。
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練習室は、メインキャンパスの総合人間学部に併設されており、6号館にある。 ちなみに外国語学部はだいたい5号館で講義を行うらしい。
1〜4は教会施設らしく、神学部だったり講演に使われたりするらしいので、あまり用事はなさそうである。7号館以降は運動会のグラウンドだったり他のキャンパスだったりするのでよくわからない。
6号館に入るとすぐに館内地図があったので練習室を探す。
するとすぐ近くにあることがわかり、向かうことにする。
着いてみると、練習室棟は棟と呼ぶにふさわしく、別個の建物になっており、3階でメインの建物と渡り廊下でつながっている。建物自体は5階建てで全てが練習室になっている。もちろん小さい多目的ホールも完備している。
「豪華だなぁ…。さすが名門私立。寄付金の額も半端じゃないんだろうなぁ…。」
私は受付で学生証をかざして一番小さい、二階のピアノ室に向かう。受付で説明されたが、5階の練習室のピアノは全てグランドピアノとなっており、基本的にはコンクール出場など大会を控えた学生が優先的に使えるらしく、普段の練習ではあまり占拠しないようにとのことだった。
ピアノ室に入ると、ピカピカに磨き上げられた黒のヤマハのピアノが目に入った。
「おぉ、ヤマハ……!!!」
私が中学時代に使っていた楽器はヤマハのアルトサックスで、高校の時にはセルマーというメーカーのアルトサックスだった。セルマーについては、高校に合格した時に、高校でもアルトサックスを続けると父に言うと買ってくれたものだ。父曰く、
「高校でも続けるならセルマーのアルトサックスが一番お前にあっていると思う。だから次の日曜日に買いに行くぞ。」
父はなぜかいろんなものに詳しく、たくさんのことを見守っているように思う。私はそんな父を尊敬している。
ヤマハといえばもちろん日本を代表するモノづくりのスペシャルメーカーだ。
世界の第一線でたくさんの素晴らしいものを作り続けている。そんなヤマハを初心者のうちから扱えるとはありがたいと思いつつ鍵盤を抑えてみる。
ポーン。
軽い音がなった。
Cの音だ。アルトサックスではラの音にあたり、ピアノではその音をドと表す。
私は自分でピアノを鳴らしたということにとてつもない喜びと達成感を感じた。
吹奏楽部の頃はキーボードには触れるが、ピアノに触れることはあまり無い。
ピアノがある曲もたくさん吹いたが、それはパーカッションの生徒やピアノに自信のある生徒が担当した。
ドの音を鳴らしたはいいが、ドやレといった音を鳴らし続けるのも芸がないと思い、手持ちのスマホでピアノ初心者がまずするべき練習を検索してみた。
するとどうやら指の体操と呼ばれる練習曲があることに気がついた。
「こりゃあ最高。楽譜も無料でダウンロードできるみたいだし。
いっちょやってみますか。」
そんな私がダウンロードしたのはハノンと呼ばれる練習曲。1〜60番まであるらしく、ダウンロードにえらい時間がかかった。
スマホだと見難いと思ったので、パソコンでダウンロードすることにした。
大学内はWi-Fiが無料で使えるのでありがたいことだ。
ダウンロードが完了すると、早速1番から弾いてみる。
1番から10番
「余裕余裕。サックスの運指で鍛えたから、指の筋肉はだいぶついてるみたいだね。」
11番から20番
「うん、難しいのは何個かあったけどまだまだ難なく弾きこなせるね。」
21番から30番
「あれ、指が回らなくなってきたぞ。
いや、でもまだいける。」
この辺でちょっと休憩して指をほぐして、ストレッチだな。
歯ごたえがだいぶでてきた。
31番から40番
「お、だいぶ回る回る。
筋肉疲労が取れてきた。」
41番から50番
「難易度がインフレしてきた」
51番から60番
「ゆびがもげる」
5時間ほどかけて60番まではなんとか弾ききった。
外はもう暗くなっている。
上手くなるためにはこれは効率が悪い…
とりあえず1〜10と、難しかったやつだけ集中して練習しよう。あとネットで練習するのにお勧めされたやつ。
最初は音が軽かったり、つまずいたりしたものも、ネットでお手本を聴きながら、注意するべき点を調べながら、録音した自分の音を聞き比べたりして練習して行くとだんだんと形になってきた。
満足のいく出来栄えになったときには、すでに夜の12時を過ぎていた。
弾き始めの頃はたくさん聞こえた練習室棟からわずかに漏れるピアノの音はもうすでに自分のものだけになっていた。
「あ、帰ろ」
私は急いで荷物をまとめて練習室を出た。
幸い大学の近くに家を借りることができたので、自転車で15分ほど走れば家に着く。
「今日はたくさん練習したなぁ。
明日もしっかり練習しよ。明日授業ないし。」
大学の入学式から一週間は大学院の入学式やその他諸々で授業はなく、新入生歓迎ウイークになっているらしい。
家に着いた私は、自転車ごとオートロックのエントランスを抜け自室に入る。
このマンションはサイクリストマンションというらしく、自転車を部屋で保管することができる。そのため、私を含め、自転車を趣味としている人が多く住んでいる。お家賃はそれに加えて立地がいいこともあり割とお高めだが、学費も入学費もかかってないので親に許してもらうことができた。
自転車を駐輪スペースに止めると私はまずソファにダイブすることを日課としている。
このソファは大学入試に合格したときに合格祝いとして祖父母に買ってもらったものだ。
他にも家具家電一式をいただいた。ありがたいことだ。普段からあまりおねだりをしない私はここぞとばかりにねだり倒して、家具家電はかなり充実した部屋になった。
割と大きめのテレビに、録画もできるBlu-rayのやつ、大きなソファ、いい感じのラグマット、おしゃれなテーブル、間接照明のおしゃれなやつ、調理器具一式、一人暮らしには大きめの冷蔵庫、そして極め付けはテンピュールのダブルサイズベッドと枕。
これまでゲームもお小遣いも我慢してよかった…
ちなみに部屋は5畳の部屋と12畳のリビングダイニングと4畳のキッチンを完備している1LDKだ。大学生にしては豪華すぎる間取りなのは自覚している。お家賃なんと20万円。私大の学費をそのまま家賃に回したと母は言うが、逆に学費を払わなければそれくらいの家に住めるという私大の学費が恐ろしく感じる。
ちなみに私はすでにアルバイトをしており、それなりの額を稼いでいる。親戚のおじさんが東京でゴルフバーを経営しており、そこで週に一度レッスンコースを受け持っている。一回2時間で、私は三コマ指導している。
2時間×三コマ×月4回でだいたい20万の稼ぎになる。これはもらいすぎじゃないのかと言うと、おじさん曰く「吉弘が入り始めて若い女性客が爆増したからむしろかなりプラス。」とのことである。流石に申し訳ないので、人手が足りない時は、バーの方の手伝いもしている。
叔父さんからの強力なバックアップのおかげで実家にも少々ながら仕送りできており、家賃以外には両親に金銭的な負担を強いることがなく、私の精神衛生にやさしい。
ソファに倒れ込み、しばらくするとお腹が減ったのでご飯を作ることにした。
料理も私の趣味の1つなので、調理道具やお皿にはそれなりにいいものを使っている。
なんともSNSに映えそうな生活を送っているものだとつくづく実感する。
そんな他愛もないことを思いながら出来上がった料理は大学生のお供として名高いパスタだ。
市販のホールトマトとガーリック、バジル、オリーブオイルを使って作った手作りソースのトマトソースパスタだ。私の大好物の1つでもある。
パスタを腹に収めながら、パソコンをカバンから出して充電器につなぎ、動画サイトでピアノの動画を漁る。
たくさんの練習曲をプレイリストに追加し、ピアノ専用フォルダを作ると、お気に入りのヘッドホンで聴く。ひたすらに聴く。
私の愛用のヘッドホンは某有名メーカーのもので約2万円弱のものだ。ヘッドホンごときに2万円と聞くと高価に思えるかもしれないが、そもそもヘッドホンは高い。探せば10万円を超えるようなものなどいくらでもある。
ならば高ければ高いものであるほど良いのかと聞かれると少し疑問が残る。
私は今愛用しているヘッドホンと10万円や20万円もするヘッドホンと音質の違いがよくわからなかった。
もちろん音が違うのはわかるのだが、それがいい音かどうかと聞かれれば、どちらもいい音であることに違いはないように思えた。
つまり好みの問題ということだ。
最終的に、値段を見ずに私が音で選んだ結果、今私が愛用しているものに行き着いたということである。
お腹がいっぱいになって、頭の中がいい感じにピアノに支配されきったところで風呂が湧き上がる時間になったことに気づく。
プレイリストの曲を一時停止して風呂に入り、寝る支度を整え、お気に入りのベッドで寝る。
その日の夜、私はピアノを弾く私を見ている夢を見た。
夢の中の私は猛練習していた。
夢の中でも猛練習するとは…
と自分の夢ながら、その姿に自分で引いた。